帰郷、再会
梨乃と、梨乃の祖母ヤスエが住む家は、長野県の山奥にある森ヶ丘小学校から3kmも離れたところにある。
「梨乃!いくじ(何時)やと思ってるのかや!?はよまんま(ご飯)食べて器を持っておいない(来なさい)!それではよ学校に行きぃ!」
ヤスエは厳しく梨乃をしつけた。畑の手伝い、洗濯、掃除…色々な仕事を押し付ける。
(石切に帰りたい…)
彼女はそう思った。だが、そのようなことは口が裂けても言えない。
「行ってきまーす…。」
梨乃は玄関を出た。空は灰色に染まり、今にも雨が降り出しそうだ。梨乃は傘を持って学校へと向かった。
少ししてからポツポツと雨が降ってきた。梨乃は傘を差して走った。
「村田さん、遅いずら(ですよ)。今日は卓球部の朝練だら。部活をいきなりにする(途中で放り出す)のはいかんよ。村田さんはたるくさいのだもんで、めた(ますます)遅れていくわい。まぁ、ときに、舞子にかんなってゆうておいないよ(来てよ)。」
学校へ着くと、無理に誘われた卓球部のメンバー、松川 ゆきなが、梨乃を叱るようにからかった。舞子というのは、女子卓球部の部長だ。梨乃は、卓球部の朝練など聞いていない。さらに、部活は嫌いだがサボろうとなどと全く思っていない。
「あの、でも私、朝練なんて聞いてなかったんです。いつ部長が言ったんですか?」
梨乃は言った。すると、ゆきなは、「はぁ」とため息をついた。
「そんな言い訳ばかり、村田さんはこすい(ずるい)ずら。卓球部がごしたい(とても疲れる)からって…。まあどうせ能力はどべだもんね。」
ゆきなは思う存分梨乃をやりこめて去っていった。
「村田梨乃!おめー、卓球部いきなりにしたな!ちょっとおいないよ!」
女子卓球部エースの吉岡楓だ。男子のような体格をしていて、女子だがほとんど男子(信州弁では「男びっちょ」と言うらしい)である。楓は、梨乃の腕を掴み体育館へ無理矢理引きずって行った。梨乃も抵抗したが、楓の腕力には勝てない。体育館には、部長の戸川舞子、副部長の井田未恵や、その他女子卓球部の児童らがいた。
「あぁ、村田さん。朝練遅刻だら。…これはおららにとっての裏切り行為だに(ですよ)…だもんで、罰を受けてもらう。」
舞子が梨乃にゆっくりと近づきながら言った。梨乃は少しずつ後退りする。
「キャァーーー!」
舞子が梨乃の胸板を拳で殴った。梨乃はドスンと尻もちをついた。
「おらも!」
未恵も加わった。未恵は梨乃の足を蹴る。梨乃は「や、やめてぇっ!」と叫ぶ。だが、次々と女子卓球部の児童らも梨乃を殴って、叩いて、蹴っていく。
(なんで…!?なんで私がこんな思いしやなあかんの…!?)
梨乃はそう思った。…と、チャイムが鳴り響いた。児童らは「あっ」とチャイムの音に耳を傾け、急いで体育館を後にした。
(もう我慢できひん。…石切に、帰ってやる…絶対に…!)
梨乃は体育館のホコリで汚れた服をパンパンとはらい、手で涙を拭った。そして、ゆっくりと立ち上がり、放り出されたランドセルを背負った。
(もう大丈夫。もう殴られへん…。)
梨乃は無防備な学校をそっと抜け出し、3km離れた家へと向かう。さっきまでは雨がザーザーと降っていたが、今は少し弱まり、ポツポツ…と静かに降っている。梨乃は傘を差さないで山道を走り抜けた。登り、下り…たとえ転んでも走るのをやめなかった。
そして…、梨乃はやっと家に辿り着いた。…と、いつの間にか雨は止んでいた。空には大きな虹がかかっている。さっきまで空を占領していた雲は全て消え去り、夏らしい太陽がギラギラと燃えて光る。梨乃が今まで見た中で、1番輝いて見えた空だ。
ヤスエは今、畑仕事をしていて、家にはいない。梨乃はそこを狙って家に忍び込んだ。そっと靴を脱いで自分の部屋に入る。そして、濃いピンク色のリュックサックに、とっておいたお年玉、お茶をつめた水筒、ハンカチ、ティッシュ。たったそれだけを入れた。また、ちぎったメモ帳に鉛筆でこう書いた。「小学校にも嫌気がさしたので、いちど石切に帰ります。迷惑をかけてごめんなさい。あと、探さないで下さい。お願いします。 梨乃」
その紙は、玄関の壁に貼った。靴を履く。そして、ふぅ、と深呼吸してからいっきに外に飛び出した。そこからは、もう解放感に満ちた梨乃である。緑の木々を駆けぬけ、青空の下を走る、走る。息切れても、外にいる人たちが梨乃を呼び止めても、きれいな自然に心を奪われそうになっても…。
梨乃とヤスエの住む家から、1番近い駅(といっても恐ろしいほど遠く、その上無人駅である)までは12〜13kmもある。そこを小学校6年生の少女が1人で行く…全く考えられないことだった。だが、梨乃はやっと例の無人駅に到着したのだ。家を出たのがちょうど午前8時半頃で、到着したのは正午を少し過ぎた頃だった。梨乃は、明るい気持ちでいっぱいだった。空腹も抑えられるぐらいに。
そして、松本行きの電車に乗り、走り出した…。
松本ー中津川ー名古屋ー松阪ー鶴橋、そして石切まで…。電車を降りると、そこには懐かしい風景があった。もう空は濃い藍色になっていて、星がいくつも見えた。おそらく、もう午後9時近いだろう。梨乃は、人も車もまばらな道路を通り抜け、以前住んでいた豪邸の近くにある公園のベンチに座り、大阪平野の夜景を眺めた。幸せな気分を味わう。
「梨乃…?」
懐かしい友の声。梨乃はゆっくりと振り返った。そこには…、背が高く、スタイルの良いロングヘアの少女、そう、亜希が立っていた。こんな夜遅い時間なのだが、亜希は飼い犬のぺぺの散歩をしていたようだ。なんとわがままな飼い犬だろう。
「…亜希やん!」
梨乃は驚いた。亜希も驚いた。幻覚だと思ったのだ。でも、そこにいる梨乃は消えない。亜希も幻覚ではない。2人は、駆け寄った。
「梨乃…、なんで?」
亜希が訊いた。長野の山奥からここまで、小6の女子が1人で帰ってくる…何か尋常ではないことが起こったのだろうか。
「…長野の小学校、サイテー。特に女子。初日から何もせぇへんのに担任の先生とかクラスメートたちに嫌われて、嫌々卓球部に入って、朝練なんて聞きもしないのに遅れたからって体罰。意味わからん。もう4日くらいで嫌になった…。しかも、おばあちゃん、めちゃくちゃ恐くて意地悪で、家事とか色々押し付けられんねん。だから、隙をついて帰ってきてん。」
梨乃は一気に話した。最後に、ため息を添える。亜希は、なんと声をかけたらいいのか、わからなかった。そんな艱難辛苦を味わってきた梨乃に、ここ数日間何も苦労のない生活を送ってきた自分が、何と言ってその苦しみを分かち合えるのだろう。
だから亜希は、話を逸らした。
「あと…、梨乃。今夜寝るところ、どうするつもりやったん…?」
亜希はそう訊いた。
「あっ…!考えてなかった…!」
亜希はハーッとため息をついた。でも、なぜか後から笑いが込み上げてきた。
星が、風に乗ってチラチラとまたたいた。




