悪夢のはじまり
「じゃあ、今日はこれで終わりね。次はここまで練習してきてや。」
「ハーイ!」
春のポカポカと暖かい日の青空に、明るく輝かしいピアノの音が響いたかと思うと、今度は鈴のような少女の声が響く。
「ありがとうございました!」
少女-梨乃は元気よく洋風の可愛らしいログハウスのドアを開けた。眩いばかりの日光のベールが梨乃を包みこむ。そして、キラキラと光る。
梨乃は、小さなピンク色の自転車にまたがり、ペダルをこぎ始めた。やわらかな春風が梨乃の背中を優しく押す。
次の角を曲がれば、つきあたりは梨乃の住む家だ。梨乃は心安らぐ家の風景を頭の中で鮮やかに描いた。だが、春の空は少し曇った。…と、その瞬間、耳を突き刺すような凄まじい音とともに、梨乃の体は空中に投げ出された。さっきまで梨乃の背中を優しく押していた春風は、手のひらを返すように冷たくなりどこかへ去っていく。そして、また春の空は元に戻った。まだ梨乃は倒れているのに…。
と、そこに小さな足音が響いた。それは、ウルトラマンでもアンパンマンでもない、小さな救世主だった。
幸い、少女梨乃の命のろうそくは、吹き消されることなく、まだまだ真っ赤に燃えていたようだ。すやすやと眠っていた梨乃は、うぐいすの合唱で目を覚ました。ずっと梨乃の様子を見ていた彼女の母-美智子は、ほっと息をついて、そばにあった椅子に座った。
「良かった…梨乃、大丈夫?近くの路地で自転車ごと投げ出されたんやって…そのこと聞いた時、背中ぞくっとしたわ…。でもほんまに良かったわあ!」
美智子は、愛娘、梨乃の顔を見つめながらそう言った。
「梨乃、その時頭が真っ白になっちゃって、あんまり何も覚えてない…でも、ごめんなさい」
梨乃が言った。
「そんな、謝ることじゃないやん。でも、次は気をつけなあかんね。」
美智子は元気よく言った。梨乃も「うん」とうなずく。
ところで、その小さな救世主の正体は、梨乃の幼なじみで、早水千都世という小学校3年生の少年だった。梨乃より、2才年上だ。
千都世は、梨乃が投げ出された日の夕方、事故現場に行った。辺りは、彼女の事故など何も無かったように穏やかで、むしろ夕日に照らされてオレンジ色に美しく光っている。だが、1点だけ例外があった。
「この石、昨日は無かった…?」
千都世は小さくつぶやいた。「この石」というのは、あの時彼女が曲がろうと思った町角に置かれていた、1匹の猫くらいの大きさの石のことだ。その石は黒ずんでいて、どことなく不気味だ。まるで、悪魔のすみかのようである。また、彼女の自転車がぶつかったらしく、キズがついている。
学校では、「野生の勘の王様」と呼ばれる千都世は、何となく嫌な予感がした。また、何かしらもどかしい気持ちがこみ上げてくる。早くその場を立ち去りたい。千都世は不気味な町角に背を向けて、薄暗くなった路地を走って行った。




