六
周囲を池に囲まれた回廊にある亭に、雅な音色が響いていた。
白龍国の後宮にある――百花園の一角。
そこでは、白龍王の妃たちが涼んでいた。
娯楽の少ない後宮では、妃たちを飽きさせないために楽団を呼ぶことがある。その場で四弦琵琶や縦笛を奏でているのは、全員が女性の奏者だ。
夏草の生える庭園では花の季節は終わりを告げ、池の上に睡蓮の葉が浮かんでいる。
亭の縁から池を覗くようにして、子供たちが遊んでいた。小さな手が伸びて、朱色の鯉にふれそうになる。
遊ぶ子どもたちの背中を、じっと見つめている少女がいた。
まだ六歳ほどの、末の公主だ。
未来の国色天香の名にふさわしく、その愛らしさは、その場でひときわ目を引いた。だが、亭に集う妃や女官たちは、彼女が近づいても見向きもしない。
慧花は勇気を振り絞って、兄や姉たちのそばに寄った。兄王子である風牙が彼女に気付き、うっとうしげに顔をしかめる。
「なんだよ、慧花?」
「あ、あのね……。わたしも、なかまに入れてほしいなって……」
そう慧花が上目がちに頼むと、風牙は他の兄姉たちの肩を小突いた。
全員が、八歳以下の子どもたちだ。白龍国の王族の子は男女関係なく、幼少期には後宮で過ごすのが決まりだった。
「どうする? 慧花を、なかまに入れてやるか?」
「ええ、もちろん。妹だものね」
兄と姉たちの笑顔に、慧花の表情がぱぁっと明るくなった。
慧花は風牙に袖を引っ張られるようにして、欄干から池の下を覗き見る。
急に、地面の感覚が消え失せた。
背中を押されたと気づいたのは、宙に投げ出されてからだ。慧花は大きな水音をたてて、池の中に落下する。
(くっ、くるしい……っ)
まとっていた襦裙が水を吸い込み、重石のようになる。
もがけばもがくほど、身動きができなくなる。浮上することもできず、ぶざまに水中を掻くことしかできない。
ふいに、誰かに上腕をつかまれた。
その力に引きずられるようにして、水面に顔をだす。
「大丈夫ですか、慧花さま!?」
慧花を救ってくれたのは、白蓮だった。彼女の顔に銀色の髪が貼りついている。
白蓮は女官の手を借りて、慧花を亭に引き上げさせた。
亭にいた妃や女官たちが、驚いたような表情で白蓮を見つめている。
白蓮はその立場上、昼間は白龍王と共に正殿にいることが多い。先ほどまではいなかったのを、慧花も知っている。
慧花はしばらく咳き込んで水を吐き終えると、白蓮の濡れた衣を握りしめた。
「白蓮……どうして、ここに?」
白蓮は湿った髪を後ろに払った。
「たまたま通りかかったのです。水音に驚いて近づいてみれば……慧花さま、なぜ池の中に?」
慧花は押し黙る。背中を押されたのはわかっていた。けれど、証拠はない。誰にされたのかも、わからない。
視線を兄姉たちの方にさまよわせると、彼らは気まずげに慧花から視線を逸らした。
その様子で察したのか、白蓮は厳しい顔を慧花にむける。
「――どなたかに落とされたのですか?」
「白蓮さま、言いがかりはよしてください。我らの子たちが、そのようなことをするはずがないでしょう?」
そう激しい口調で突っかかってきたのは、妃のひとりだった。
白蓮が妃たちを睨みつけると、彼女たちは怯んだような顔をする。
「母君と同じく、慧花さまも、か弱くていらっしゃる。身を乗りだしすぎたせいで、その小さな御手では体を支えきれなかったのでしょう」
そう妃のひとりが嘲笑すると、他の妃や女官たちも追従するように笑い声をあげた。
白蓮は顔をしかめる。
慧花は一瞬だけ眉をくもらせたが、その後に一同にむかって笑みを向けた。
「ええ、わたし、手をすべらせてしまったのです。せっかくの席ですのに、しつれいしました」
「慧花さま」
たしなめるように言った白蓮の腕をつかんで、慧花は首を振る。
白蓮はため息を落として、慧花を腕に抱き上げた。
「お風邪を召します。すぐに着替えを」
「――ありがとう」
回廊を渡っていく途中で、白蓮の肩越しに慧花は顔を亭の方にむけた。
そこでは妃たちが、慧花の悲劇を肴にして笑っているようだった。
ただ、兄と姉たちが複雑そうな表情で慧花を見つめている。特に、兄である風牙は痛みを堪えるような顔をしていた。
「慧花さま、どうして私を止めたのです?」
押し殺した声で白蓮は聞いた。
慧花はぎゅっと白蓮の衣をつかむ。
決して悪い人ではないのだ、と慧花は彼らのことを捉えている。たぶん、立場が違っていて、うまくわかりあえないだけで。
――けれど、幼い心では、己のそんな感情をうまく説明することができない。
ただ、顔を赤らめて、うめき声をあげるのが関の山だ。
「……私はもう我慢できません。主上に申し上げます」
白蓮の言葉に、慧花は首を振る。
「おかあさまは、がまんしなさいって言った……」
白蓮は回廊の真ん中で足を止めた。
「――確かに、慧花さまの母君のお立場は悪いです。他の妃の方々と違い、平民の出でいらっしゃるから……」
後宮にいる妃の大半は貴族の娘だ。慧花の母親と違って、しっかりとした後ろ盾がある。彼女たちを敵にまわすのは、その父親である重鎮たちと敵対することと同じだ。たとえ白龍王でも、庶子である慧花ひとりのために、そこまでできないだろう。
――そんなことをすれば、ますます慧花と母親の立場は危うくなる。
「そうだ、慧花さま。良いものをご覧に入れましょう」
沈んだ顔をしていた慧花に、白蓮は明るい声で言った。
* * *
着替えをすませてから白蓮に連れられて向かったのは、白龍城の北東にある角楼だった。
初めてきた場所に、慧花は目を輝かせる。
立場上、慧花はこれまで後宮の外に出たことはない。城の敷地内とはいえ、彼女にとっては大冒険である。
そこには、大小さまざまな檻に入れられた小竜がいた。
「すごいでしょう? この小竜たちは、他国に書状を運ぶために飼っているんです。伝書鳩ならぬ、伝書竜というやつですね」
白蓮の言葉も、食い入るように小竜を見つめる慧花の耳には入ってこない。
持ち前の好奇心から檻に駆け寄り、小竜たちを眺めてまわる。
赤、青、黒。
そこには、大人の両手ほどの大きさの小竜がいた。
けれど、どの小竜も慧花が近づくと、ツンとそっけなく顔を背けてしまう。
慧花が首を傾げていると、背後から軽快な笑い声がした。そこに立っていたのは、二十代後半ほどの男性だった。
「お嬢ちゃん、小竜は誇り高い。なかなか人には慣れない生き物だ。三年もかかって、ようやく飼育人である俺の手から直接、餌を食べるようになったくらいだ」
彼の口調は気安い。まさか、公主がこんな場所にくるとは思ってもいないためだろう。
白蓮が男を注意すべきか、考えあぐねているような表情をしている。
「えっ、そうなの……?」
男の言葉に落胆しながらも、慧花は檻の前を歩いてまわった。
その時、一匹の黒い小竜が目に留まる。小竜は檻にぐっと顔を押しつけて、慧花の方に近づこうとしていた。
「こんにちは。小竜さん」
白蓮が制止の声をあげる前に、慧花はその檻の中に指を忍ばせる。小竜は二股に分かれた舌で、慧花の指を舐めてきた。
「わぁ、かわいい!」
「へえ……小竜がこんなにすぐに懐くとはなぁ。珍しいこともあるものだ。ああ、でも、そいつは尻尾が弱いから触るなよ。うかつに触ると、噛みついてくるからな」
慧花は夢中になって、その小竜の鱗を撫でた。
小竜は気持ちよさそうに、金色の瞳を細めている。
「慧花さまに、お友達ができましたね」
白蓮は優しい表情でそう言った。
* * *
「万象に会いたいな……」
慧花は窓から青い空を眺めながら、そう呟いた。あの黒い小竜に、彼女は万象と名付けた。
幼い彼女ひとりでは、あの小屋まで行くことはできない。だが、白蓮も昼間は政務があるため、慧花ひとりのために時間が割けるわけではないのだ。
慧花の母親は病弱で、娘である慧花でもなかなか会うことはできない。
万象に会えない日は、時が遅く流れていくように感じられた。書を読んでいても、小竜のことを考えて手が止まってしまう。
そんな慧花に、最近、召しかかえた侍女が耳打ちする。
「小竜に、会わせて差し上げますよ」
「ほんとうに?」
「ええ、勿論です」
その侍女は口元を歪めた。