五
九元と共に、宮殿の正面門を出ていく途中のことだった。
「慧花さま……っ」
背後から呼び止められて、慧花は振り返った。
夕日に照らされる石階段の踊り場に、女性のすがたがあった。白蓮だ。彼女は困惑したような表情で立ちつくしている。
「白蓮! 大丈夫だった?」
慧花は階段を駆けあがり、白蓮に抱きついた。白蓮は戸惑いがちに、そっと慧花の背に手をまわしてくる。
「私のことは良いのです。お風邪を召したと伺い、気が気ではありませんでした。けれど、私はなかなか自由な時間が頂けずに……昨夜は、お目にかかれず申し訳ありません」
「わたしは大丈夫よ。九元さまが、ずっと看病してくださっていたから」
その時のやりとりを思い出して、慧花は頬を染めた。
白蓮は驚いたように目を見開く。
「九元さまが……?」
九元は、ゆっくりと階段を登ってきた。
慧花が視線をむけると、九元は厳しい表情で白蓮を見つめていた。
白蓮は何か言おうとしたのか、わずかに口を開いた。だが、九元によって阻まれる。
「何も言うな。……おそらく、誰かから俺の出自を聞いたのだろうが」
「――ええ、伺いました。とても驚きました。まさか、あの……。いえ、勿論、ご事情があることは理解しております」
白蓮はゆったりと首を振る。
その奇妙なやり取りに、慧花は眉をひそめた。おずおずと、白蓮の長い袖を引く。
「ふたりとも、どうしたの?」
「……いいえ、何でもございませんよ」
白蓮は硬い表情を解くと、慧花の頭に優しく手を乗せた。そのまま幼子にでもするように、慧花の頭を撫でていく。
「白蓮……?」
さすがに、十六にもなってこうされるのは恥ずかしさがある。
首を傾げつつ慧花が見上げると、白蓮は痛みを堪えるような表情をしていた。
「どうか、ご無理をなさらないでくださいね。……慧花さまの母君が崩御されてから、十年もの間……私は、慧花さまをお傍で見守ってまいりました。私はずっと口うるさく色々申し上げてきましたが、それは全て慧花さまのことを思ってのこと」
「――知っていたわ、白蓮」
慧花は、白蓮の胸元に顔をよせて言った。
「だから、わたしも……白蓮のために、行動することを許してほしい」
「慧花さま、私は……」
白蓮は戸惑うように身じろぎした。
慧花は唇を引き結んで、彼女を見上げる。
「――白蓮は、もう国には戻りたくない? 人間なんて嫌になってしまった? だとしたら、勿論、無理には連れて帰らない。白蓮の罪だけ無くしてもらえるように頑張るから……」
白蓮は、慧花の問いには答えない。ただ、きつく慧花を抱きしめる。
「……白蓮?」
「――私は、天上一の幸せ者です。このような愚か者の私を……。慧花さま、私はたとえ何が起ころうと……ずっと貴女さまを、見守り続けます」
白蓮は声を震わせながら、そうこぼした。
* * *
十ニの楼閣の一塔が、目指していた場所だった。
慧花たちがやってきたのは、見た目は何の変哲もない五層の塔だ。
煉瓦の壁は、斜陽に照らされ茜色に染まっている。まるで大きな生き物のような重圧感があった。
「ここに龍が……?」
慧花は困惑まじりに、そう呟く。
九元は塔を見上げながら言う。
「この楼閣は、外から見ればただの高楼だが、実際は、宝貝の一種だ」
「え? 宝貝って……仙人が作るという、摩訶不思議な道具のことですよね?」
慧花も実物は見たことがない。だが神話の中で、武器や衣として幾度も登場していることは知っている。
「そう、その宝貝だな。この塔の内部では、不可思議な力が働く。幻影を見せることもあれば、遠く離れた相手と言葉を交わすこともできる」
「ええっ? それってどういう意味ですか? 移動できるということですか?」
思わず、立ちすくんでしまう。
「――違う。移動はしない。ただ、幻と真実を見せるだけだ。その者の心が弱ければ、相手は夢に囚われる。だが、その者の心が強ければ、意中の相手と話すことができるということだ」
「な、なるほど……」
ようやく理解して、慧花は拳を握りしめる。
確かに、こういう場所の方が手っ取り早い。断られるたびに広い仙境をあちこち移動していたら、とうてい約束の刻限までに間に合わない。だが、ここでなら慧花の心次第で、遠く離れた龍と幾度でも会話できる。
ここまで付き合ってくれた九元に向きなおり、慧花は改めて深く頭を下げた。
「色々とありがとうございます、九元さま。手を貸して頂けてとても嬉しく思います。わたしひとりでは、とうてい不可能なことでした。わずかなりとも達成できる可能性が芽生えたのは、九元さまのおかげです」
「……九元」
「え……?」
「九元でいい」
九元は苦々しい顔つきだった。
慧花は首をひねる。
「……良いんですか? 人間なんかに呼び捨てにされても?」
「俺は、堅苦しいのは好まない。仕える主君があんな態度だからな。――それに、俺だって昔は地上で暮らしていたこともある。人間と生活していたことも。気安い態度の方が良い」
「そ、そうなんですか……って、ええ!? 九元さまが、人間と……?」
「九元だ。敬語もいらない」
「……え?」
「お前に丁寧に話されると、落ち着かない。普通に話せ」
金色の瞳が、じっと慧花を見つめた。
心臓の鼓動が速さを増してきているのに気づいて、慧花は胸を押さえる。
(九元の龍の姿は、この上なく好みだけど……。でも、今は人の姿をしているのに……)
九元は先を急がせるように、慧花の背中を押してくる。
「ほら、ちんたらしていたら日が暮れるぞ」
目覚めてから、九元に昼餉の時間をとらされたので、予想外に時間がかかってしまっていた。西の空には宵闇が迫ってきている。
「は、はいっ!」
慧花は気合いを入れ直して、塔の内部に入っていく。
中は最上階まで吹き抜けのようになっていた。
「最上階だ」
九元が指さしたのは、内壁沿いに螺旋を描くように最上部まで伸びている階段だった。
塔の壁に声が反響している。
慧花は頷いた。
階段を登りながらも、背中に彼の存在をひしひしと感じた。
脳裏に、先ほどの九元の台詞が繰り返される。
(一緒に暮らしていたって……いったい、どんな方と?)
そんなことはどうでも良いはずなのに、慧花は妙に気になってしまう。
彼が国主と天龍の関係を忌み嫌っていたのは、もしかしてそこに理由があるのだろうか、と穿った見方をした。
「……いや、そもそも、その方がご婦人なのかもわからないわけだし……」
(ああ、今はそんなこと考えている場合じゃないのに……)
しかし、考えまいとするほど、そればかり考えてしまうのが人の常だ。
「……何だって?」
「な、何でもないですっ」
慧花は頭をぶんぶんと振って、そう答えた。
考えすぎたせいで、思考が口からただ漏れになってしまっていたらしい。
動揺のあまり、足を段差から踏み外してしまった。
身体が大きく傾ぎ、全身から冷や汗が噴き出す。
(お、落ちる……っ)
きつく目を閉じて、慧花は衝撃にそなえた。
二階分の高さは登っていた。打ちどころが悪ければ、骨くらい折れてしまうかもしれない。
階段から落ちる寸前、腕を掴まれる。
九元だった。
彼の腕の中に抱き寄せられ、どうにか難を逃れることができた。
慧花の心臓が痛いほど音をたてている。
(あ、危なかった……)
思わず、九元の衣を掴んでしまった。
「危ないだろう! 余所見しているんじゃない!」
怒鳴りつけられて、慧花は身を震わせる。
「ご、ごめんなさい……っ」
九元が深く息をついた。
すでに安全な場所にいるというのに、彼は手を離す様子がない。
頭の後ろと、腰に九元の腕がまわされている。
「あ、あの……?」
戸惑いながら、慧花は九元を見上げた。
ひどく心臓が高鳴っている。
それが落下しかけた衝撃のためなのか、それともこの距離間のせいなのか、慧花には判断できない。
九元は苦しげな表情で、囁いた。
「……お前が傷つくのは、耐えられない」
「……九元?」
「――ああ。お前に名を呼ばれるのは、いつでも心地よい」
九元はそっと身を離した。
ぬくもりが去ったことに一抹の寂しさを覚えて、そんなふうに感じてしまった自分に、慧花は狼狽える。
「九元は……」
彼に対して、違和感を覚え始めていた。
けれど、それが何なのか明確な言葉にできない。それが歯がゆく思えて、続く言葉を飲み込んだ。
「……俺は仙になったとき、かつての名は捨てた。これは、その代わりに天尊に与えられた名だな。名は、体を表すという。――慧花、お前はきっと、賢く美しくあるようにと名付けられたんだろうな」
九元は独白のようにそうこぼすと、慧花に先に進むよう促した。
じっと見上げて、慧花は彼の名前の意味を問おうとする。
彼は肩をすくめた。
「……のんびりしている暇はないだろう?」
何だか誤魔化されたような気もしたが、慧花は九元の言葉に頷いた。
最上階へ続く、長い階段の先を見上げる。
もう長い時間が経っているはずなのに、いつまで経っても、遠くに見えている扉まで届かない。
塔の内部には明かり取りのためか、階段に沿うように四角い穴が開けられている。そこから差し込む夕陽は、入った時と変わらない色をしていた。
(あれ……?)
そのことに気付き、慧花の背筋に寒気が走る。
「――気をつけろ。もう試練は始まっている」
「え……?」
九元の言葉に答える間もなく、慧花の視界が大きく歪んだ。