四
「……お前は、天位が欲しいのか?」
温室庭園から出ると、後ろからついてきていた九元が、問いかけてきた。慧花は熱くなっていた己の額に、手を這わせる。
(頭がいっぱいだわ……)
急に多くのことが起こりすぎた。けれど、その場しのぎで了承したわけではない。
「……別に、玉座が欲しいわけではありません」
「おい……」
九元が呆れたように半眼になる。
「でも、皆を護りたいのは本当です」
慧花は何も考えず、そのまま室まで歩いていこうとした。歩くたびに、ふらりと身が傾ぐ。
「おい、顔色が悪いぞ」
九元が、慧花の腕をつかんだ。彼は端整な顔をゆがめる。
「……体が熱いな。風雨の中を飛んだせいで、体が冷えたか」
その直後、ぐらりと視界が揺れた。
「おい!」
驚いたような九元の声が、脳裏にひびく。そして、慧花は意識を失った。
* * *
熱に浮かされていたせいか、慧花は幼い頃の夢を見た。
『やめて、万象を殺さないで……っ』
慧花がいくら必死に叫んでも、その男は万象を殺す。――彼女の愛しい黒い小竜を。
夢だとわかっていても、脂汗が浮き出てくる。息苦しくてたまらない。とっさに身動きすると、冷たい感触が額を撫でた。
慧花はうっすら目を開ける。周囲は明かりもなく真っ暗だ。どこか寝台のようなところに横になっている。
意識がぼうとしていた。まだ睡魔が手を引いていこうとしている。すぐに、また夢の中に落ちるだろう。
己の額にふれている相手を見つめた。
「万象……?」
相手のすがたは、はっきりと見えない。窓から差し込む月の光が、男の輪郭を淡く浮きあがらせていた。闇の中で、金色の瞳が月光をおびて輝いている。
(ああ、万象の瞳だ……)
かつての小竜と同じ色を見つけて、慧花は嬉しくなって手を伸ばそうとした。けれど、腕に力が入らない。宙を掻いた手が掛布の上に落ちる寸前、男に握りしめられる。
「……大丈夫だ」
ひどく優しい声が、耳朶を打つ。
慧花は瞼を閉じた。
彼の手は冷たくて、それがひどく慧花を安堵させた。
* * *
目を開けると、慧花は一瞬そこがどこなのか、わからなくなった。
ひどく汗をかいていたらしい。衣が肌に張り付いて、気持ち悪く感じさせられる。
どれくらい時間が経ったのか、身体のけだるさからは推し量れない。
窓から差し込む光は、太陽がすでに高く昇っていることを示している。
(いったい何時なのかしら……?)
思考は未だに、霞の中にあった。ふと、誰かに見られているように感じて視線を向けると、寝台の脇に座っていた青年が目に入る。
九元は、ほっとしたような表情を浮かべていた。
「ようやく目覚めたか」
「え……? あの……」
まだ夢現の中にいるような錯覚をおぼえる。
熱にうなされながら夜中に目覚めた時、誰かが手を握ってくれた。それにひどく安心したのだ。その小竜と同じ色の瞳に――。
まじまじと、慧花は九元を見つめる。
(いいえ……そんなはずないわよね……)
馬鹿げた想像だと、己の考えを一蹴する。慧花が飼っていた小竜は、あの事件で死んでしまった。もう十年近くも昔の話だ。
「……そんなに穴があくほど見つめられると、変な気分になるんだが」
九元は苦笑していた。慧花は熱心に彼のすがたを見つめすぎていたことに気付き、体が熱くなる。
視線を落とすと、己の格好が目に留まり、慧花は硬直した。
「きゃぁぁぁっ」
臥床から身を起こし、慌てて掛け布を引き寄せる。
九元は面食らったような表情を浮かべた。
「おい、俺は何もしていないぞ。何なんだ、その……さも襲われたかのような態度は……」
「え? だ、だって……ここは……」
「はぁ?」
「そ、そうか……ここは崑崙だし、相手は人間世界の常識が通じてない龍だし……だから、大丈夫。何も問題ないわ」
「――何が大丈夫なのか。勝手に納得していないで、ちゃんと説明しろ」
慧花は九元から視線を外しながら、ぎこちなく答える。頬が勝手に火照ってしまうのを止められない。
「その……白龍国では、未婚の女性の閨に男性は入ってこないのです。平民でも、親兄弟くらいしか許されていません。……貴人ならば、なおさらですね」
そんなことをすれば、ふしだらな女だ、と周囲からそしりを受けてしまうだろう。
「はぁ? そんな下界の常識で語られても困るのだが」
「そ、そうですよね……。ごもっともです……」
燃えるように熱をもった頬に、慧花は手を押しあてた。
(九元さまは、神仙よ。そんな変な目で、わたしを見ることはないわ。だから、平然と女性の寝室に居座れるのよ……そうよ。そうに決まっている)
そう自身に言い聞かせることで、慧花は羞恥心を紛らわせた。
九元は溜息を漏らした。
「――いきなり倒れるから驚いたぞ。人間は弱い生き物なのだろう? もっと自重しろ」
どうやら、心配をかけてしまったらしい。
「ありがとうございます。九元さまが、助けてくださったのですね」
そして、身につけていた衣が寝着に変わっているのに気づいて、顔を強張らせる。
慧花は、おそるおそる聞いた。
「その……これは、どなたが着替えさせてくれたのでしょうか?」
「女仙だ。俺じゃない」
その返事に、慧花はほっと安堵の息を漏らす。
九元がじっと見つめてくる。
「……そう意識されると、こちらも参るんだが」
「べ……っ、別に意識なんてしていません! 勘違いしないでください!」
顔を上気させながら、慧花は怒鳴りつけた。
九元は、玩具を見つけた子供のような表情になる。
「ほお?」
「本当ですってば! そもそも、わたしは人間の格好をした男性になんて、興味はありませんからっ!」
「……ならば、俺が龍のすがたの時は興味があると?」
慧花は絶句してしまう。
図星をつかれて、顔がどんどん熱を持ってきた。
今は人の姿をしているから何とか平常心を保っていられるが、もしも九元が龍のすがただったら、どうなっていたか――。
(きっと、だらしない表情で頬ずりをしかねないわ……)
九元の容姿は、激しく慧花の好みなのだ。もはや、一目惚れの域である。
「……変な女だ」
そう言う彼の声は、妙に優しく聞こえる。
慧花は、寝台の脇卓におかれた砂時計を見て、はっとした。すでに、半分ほども砂が落ちてしまっている。
「あ、あの! わたしが眠ってから、どれくらい経ちました!?」
血の気が引くようだった。
九元は眉をよせる。
「一日と少しだろうか」
「ああ、なんてこと……もう、時間がないわ」
慧花は慌てて立ち上がった。すぐにでも、行動を起こさなければならない。
「着替えます。申し訳ないですが……見られていると恥ずかしいので、席を外して頂けますか?」
九元は苦虫を噛み潰したような表情をした。
「まだ、病み上がりだろう。休んでいろ」
「そんな悠長なことを言っている余裕はありません。残り二日もないんですから……」
「……契約する龍に、あてでもあるのか?」
「――いいえ。まったく」
そもそも、人間が龍族に会える機会など、ほとんどない。そんなことは、九元にもわかりきっているはずだ。
慧花は、九元に向かって真面目な顔で聞いた。
「わたしの龍に、なってくれますか?」
「断る」
「――だと思いました」
先日、白龍王と白蓮の関係を理解できない、と九元は切り捨てたばかりだ。最初から、慧花は彼には期待していない。ただ、念のために聞いてみただけだ。
九元は苦々しい顔つきになる。
「――お前は、王になどなりたくないと言ったな。ならば、なぜ玉座を得ようとする? 白蓮の罪を消すためだけか? 民衆の上に立つということは、お前の嫌いな人間たちを護るということだろう」
黄金のような虹彩の中に、夜色の瞳孔が縦長に開いている。
慧花は、その瞳に見透かされているような気分になった。そして、実際にそうだったのだろう、と気づく。
「ああ、わたしの夢をご覧になったのですか?」
「――わざとじゃない。お前がうなされていたから、額の汗を拭ってやろうとしたら……その……」
九元は気まずげだった。
龍族をふくめた神仙には、天眼という能力を備えている。真実をありのままに見る力だ。その力で天龍は国主を探すという。
九元は意図せず触れてしまい、慧花の夢を覗き見てしまったのだろう。
長いため息を落として、慧花は微苦笑した。
「……別に良いですよ。秘密にしているわけではありませんし。……ええ、だから、わたしは人間が嫌いです」
「ならば……」
自嘲気味に、視線を窓の外に向ける。
切り取られた枠の中には、枝に留まった二羽の鳥がいた。互いの羽にくちばしをよせて、毛繕いをしている。番なのかもしれない。
「――本当は、最後に恋がしたかった。いずれかの貴族に降嫁させられる前に、一度でいいから本当の恋がしたい、と。……けれど、多くの人に傅かれ、民のように労働で手足がひび割れることなく過ごせているのは、それだけの責任があるからでしょう?」
(――すべて、亡くなってしまった母の受け売りだけど)
平民出の慧花の母親は、他の貴族の娘とは考え方が違っていた。
それを白龍王は慈しんだのかもしれない。それが他の妃たちに疎まれたのかもしれない。
「どんな相手にでも嫁ぐつもりでした。――それが、白龍国であっても何が違うのでしょうか?」
「お前は……」
九元が息を飲んだのが伝わる。
「――白龍国には龍が必要なのです。神に見捨てられると、土地が荒廃してしまう。それだけではありません。龍を得ているという事実が、民にとっての心の支えになっていました。わたしは王族として、父と兄が犯した行動の責任をとらねば……。そして、公主ではなく一個人の我が侭として、白蓮を救いたいと思っているのです。民を助けたいのも本当。ただの娘として、恋に逃げたいのも本当です。……そんなわたしに、王になる資格はあると思いますか?」
九元は答えない。
慧花は彼をじっと見上げて、苦笑いを浮かべる。
「……けれど、やれるだけのことはしなくてはね? もう時間がありません。着替えても宜しい?」
慧花がそう言うと、ようやく九元が席を立つ。寝所から出る間際、彼は立ち止まり、振り返らないままに言った。
「……龍を探すのを手伝ってやる」
「え?」
「――崑崙は広い。お前はどこに龍がいるのかも知らないだろう? きっと、お前一人だと辿りつくまでに日が暮れる」
慧花は大きく瞬きする。
彼の言葉を理解するにつれて、じわじわと体の奥底から喜びがこみ上げてくる。
「そ……それは、ありがたいですけれど……。良いんですか? その……九元さまの、お仕事の邪魔になってしまうのでは……?」
「仕事は、しばらく休みだ。勘違いするなよ。恩にきせようとしているわけじゃない。――ただ、俺のせいで、お前に風邪を引かせてしまったのは事実だからな」
「ええ? いえ、わたしが風邪を引いたのは、無鉄砲な自身の行動のせいだと思いますが……」
論理が飛躍しているように思えて、慧花は首を傾げてしまう。
九元は、苛立ったような口調で言った。
「黙っていろ。それとも、お前は俺に手伝って欲しくないのか? それなら、そうだと言え」
慧花は口を閉ざして考え込む。だが、それも一瞬のことで、すぐに深々と頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「それで良い」
不遜な笑みを浮かべて、九元はそう言った。