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「起きろ」


 その声で、はっと顔を上げた。

 左から差し込む夕日が目に沁みて、痛みをおぼえる。潮風のせいか、喉がからからに渇いていた。

 半ば沈みはじめた太陽に照らされて、海面が朱色に染まっている。

 慧花は、幾度か瞬きを繰りかえした。

 そして、正面にある光景に、目を見開く。

 天を貫くようにそびえる巨島――。その切り立った崖は上にいくほど広く、下にいくほど狭くなっている。

 まるで、巨大な逆さまの瓢箪(ひょうたん)のような形だ。


「崑崙……」


 慧花は唖然として、見上げてしまった。

 あまりの大きさに、全貌を確認しようとすると首が痛くなってしまう。

 不安定な形状でも支えを失っていないのは、天の力が働いているためだろう。

 平地よりも三万六千里も高い場所にあるという山頂には、天帝の地上での住居である下都があるという。天の庭へ通じる(はしご)が存在すると、人の世にも伝えられている。

 急に、上体が後ろに(かし)いだ。


「きゃ……!」


「雲海を抜ける。掴まっていろ!」


 九元が、慧花に向かって叫んだ。このまま、天空まで昇るつもりなのだ。

 風が、体を叩きつけてくる。


「慧花さま、しっかり掴まっていてください!」


 白蓮が励ますように、慧花たちの後ろから叫んだ。

 慧花は、角を握る手にぐっと力を込める。

 これまでの比でないほどの風圧を感じた。

 凍えるような雨風が体を叩きつける。

 その威力に、手足から力が抜けそうになった。

 衣装がひどく重くなり、肌に張りつく。耳のそばで轟音が鳴りひびいている。


(雷だ……)


 びりびりとした振動を、肌で感じた。

 全身に飛沫(しぶき)がかかり、目も開けていられない。

 雲海を抜けると、三つの峰を抱く崑崙がすがたを現した。

 どこまでも続くような城壁が伸びている。その中には、住居らしき建物がならんでいた。


「ここが、仙都……?」


 呆然と、慧花は呟いた。

 荘厳な宮殿のような建物や、楼閣がいくつも建てられている。

 四百四十の門があると言われている城壁を飛び越え、迷うことなく北西にある宮殿に飛んでいく。その敷地内に、二匹はそっと降りたった。


「わわ……っ」


 なんとか、均衡を崩さずに着陸することができた。慧花が安堵の息を漏らしていると、ふれていた九元の鱗が熱くなってくる。


「え……?」


 みるみるうちに輪郭が揺らぎ、角や鱗が消え、体が小さくなっていく。

 ふいに、目の前に男性の背中が現れた。いまや、慧花は見知らぬ男性に背負われているような状況だった。

 九元は、慧花に顔だけ向けて、不機嫌そうに言った。


「いい加減、離れてもらおうか」


「きゃぁ!」


 思わず仰け反り、慧花はその場に尻餅をついてしまう。痛みでお尻を撫でていると、人化した白蓮が慌てたように駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか、慧花さま!?」


「え、ええ……まあ、何とか」


 そう答えながら、慧花は立ち上がって九元を凝視した。

 腰まである艶やかな黒髪は、首の後ろでひとつに束ねてある。まとう天衣は、白龍城の百官たちの深衣にも似ていたが、豪奢さは比べるべくもない。雲で織られていると聞く衣は、瞬きするたびに色がわずかに変化してみえる。

 九元の金色の瞳が、じっと慧花を見つめていた。いつも彼は睨みつけているかのように凝視してくる。

 白蓮の人間離れした美しさを見慣れている慧花でも、見惚れてしまいそうになるほど九元は見目麗しい。

 しかし、その時、慧花に襲いかかってきたのは、とてつもない落胆だった。


「ああ……」


 胸を押さえながら、そう呟いてしまう。


「はあ?」


 九元は眉をよせている。

 慧花は、この世の絶望を知った時のような気持ちだった。


「まさか、人間になってしまうなんて……」


 確かに、人のすがたの彼は美しい。だが、そんなことは慧花にとっては些末なことだ。


(鱗もなければ、炎も吐かない……。これじゃあ、ただの普通の人間の男じゃない……)


 理想の相手が、人間になってしまった。これほど、慧花にとってガッカリすることはない。


「おい……。人化して、そこまで落ち込まれるのは心外だぞ。人間の女に、そんな態度をとられたのは初めてのことだ……」


 九元の頬が引きつっている。

 白蓮が心配げに、慧花に声をかけてきた。


「大丈夫ですか? このままでは、お風邪を召してしまいます」


 よくよく見れば、衣装が濡れているのは慧花だけだった。どういう仕組みなのかわからなかったが、九元と白蓮の天衣は水を含んでいない。

 ふいに、慧花の頭に何かが覆い被さってきた。


「え……っ?」


 広げると、それは先ほどまで九元がまとっていた上着だった。


「着ろ。その格好は目に余る」


 そう言われて、慧花は自身の格好を見下ろした。

 襦裙がすっかり水浸しになり、体の線を浮き上がらせていた。

 それに気づき、身体が燃えあがるように熱くなる。

 慌てて、渡された上着を羽織った。九元の足首まである衣なので、慧花がまとうと地面に引きずってしまう。


「あの……ありがとうございます」


 羞恥心を堪えながら、小声でお礼を言う。

 ふん、と九元は顔を背けた。


「ふたりとも、西王母に目通りしてもらおう。その前に、それぞれの客室に案内する」


「……客室に?」


 意外な言葉に、慧花は目を丸くした。

 てっきり、牢屋にでも放り込まれると思っていたのだ。


「その濡れ(ねずみ)のような格好で、西王母に会うつもりか? 不躾だろう」


 感情のこもらない声で、九元は言った。


(本当に、よくわからない方ね……)


 慧花は、そう感じた。

 九元に関しては、戸惑うことばかりだ。

 時折、こちらを気遣うような態度を見せるかと思えば、やはり冷淡なだけに捉えられる言動もする。


(……それとも、そういうふうに見える振りをしているだけ?)


 彼の本心がどこにあるのか、慧花にはわからない。

 つい、じっと九元を見つめてしまう。


「何だ?」


 九元は顔をしかめる。


「いえ……」


 慧花はゆるりと首を振った。


(目的を忘れないようにしなきゃ……)


 ここまでわざわざ乗り込んできたのは、白蓮の罪を軽くしてもらうためだ。

 できれば、白蓮と一緒に帰りたい。

 そして、白龍国の再びの加護を願いたかった。



 * * *



 身支度を整えてから案内されたのは、慧花の予想に反して、宮殿の中ほどにある温室庭園だった。

 地上では難しいような透明度の高い硝子(がらす)で、四面を覆われている。

 室内に足を踏み入れるとすぐに、妙なる楽の音が耳をかすめた。

 すぐ脇から聞こえてきたように思えて、視線を向ければ金色の低木が生えている。

 枝に葉はなく、実の代わりに真珠が生えていた。玉と玉がこすれあい、あたかも楽器のような音色を奏でていたのだ。

 その神秘的な光景に目を奪われていると、背後から「おい」と声をかけられた。

 直後に、わしゃわしゃと髪を撫でられる。

 びっくりして振り返ると、いつの間にそこにいたのか、不機嫌そうな表情の九元が立っていた。


「何をぼんやりしている。奥で、西王母さまがお待ちだ」


「あ、すみません……」


 乱れた髪を、慧花は手で撫でつける。

 仮にも公主である彼女に対して、これまでそのような気易い態度をとる男性はいなかった。


(神仙である彼にとっては、わたしの人間世界の身分なんて、大した問題ではないのかもしれない……)


 けれど、身分が理由で距離を置かれるくらいなら、このくらい気安い方が慧花にはありがたかった。

 先導する九元の背中にむかって、慧花は気になっていたことを聞いてみる。


「あの……っ、どうして西王母さまに?」


 白蓮のことも考えると、てっきり天帝に拝謁するものだと思っていたのだ。


「天帝が、むやみに人と言葉を交わす訳がないだろう。神仙であっても、普段は天帝と(じか)には話さない。その代わりに、西王母が天帝の意志を代弁する」


 崑崙の仕組みを初めて知り、目を丸くした。


「ご側近の九元さまも、直接には天帝とお話にならないということですか?」


 初めて彼の名前を呼んだので、ぎこちない問い方になってしまった。

 九元は軽く肩をすくめる。


「いや、さすがに身近な臣下に対しては、(てん)(そん)も普通に話しかけてくださるが……」


 妙に歯切れの悪い言い方に引っかかる。


「――何か?」


「まあ、その……なんというか。天帝はとても冗談がお好きな方なのだ。俺たちも、よくそれに振りまわされている」


「はあ……?」


 九元にそれ以上説明する意思はなさそうだった。

 庭園の中央には、巨大な桃の木が生えている。

 ひときわ広い場所を占めているそれは、天井に届かんばかりに緑の枝葉を伸ばしていた。

 その根本に女性が佇んでいる。

 年齢がよくわからない女性だ。見ようによっては十代のようにも見え、あるいは四十代のようにも感じさせられる。


(西王母さまだ……)


 一目で、慧花にはわかった。

 その女性からは隠しきれない気品が漂っている。彼女のそばには、召使いの女性と童子(どうじ)が控えていた。

 その場に叩頭(こうとう)しようとした慧花の動きを、西王母が軽く手をあげて封じた。


「礼は良い。かつては君主であろうと奴婢(ぬひ)であろうと、この崑崙にたどりついた者ならば、等しく仙になる資格を得る……と、常ならば言いたいところだが、お前の目的は昇仙ではなかったな」


 声をかけられたので、慧花はおそるおそる返事をした。


「……厚かましいとは存じながらも、白蓮の罪を水に流して頂きたく、慈悲を乞うために参りました」


 西王母は、その艶やかな唇に弧をえがく。


「白蓮は天帝の期待に背いたのだ。人の世に規律があるように、天にもまた、それはある。……それとも人であるお前が、白蓮の罪を肩代わりするか?」


 慧花は体に重石を乗せられたような気分になった。目の前が暗くなる。

 西王母は、優しい声音で続けた。


「――言っておくが、そこまでしたとしても、白蓮はもはや天龍にはなれない。ただの龍だ。そんな白蓮が人間世界に戻れば、どのような中傷を受けるか……お前にも想像ができるだろう?」


 人間にとって、天龍の存在は絶大なものだ。

 神の加護から見放されれば、民はこれまで崇めていた龍にさえ暴言を吐きかねない。

 無理やり連れ帰ることは、必ずしも白蓮にとっての幸福ではないのかもしれない。


(ここに残る方が、白蓮には幸せなの……?)


 慧花は首を振って、気弱になる心を振り払った。


「……一番大事なのは、白蓮の意思です。たとえ連れ帰ることが叶わなくとも、わたしにとって、白蓮は姉のような存在。せめて、彼女の罪を帳消しにして頂けませんか?」


 西王母は眉にしわをよせた。


「それで、こちらに何の利がある?」


 慧花は拳を握りしめて、西王母を見つめた。


「……この度のことは、我が父と兄のしでかしたこと。わたしは王族として、ふたりの行動を察して諫めなければなりませんでした。白蓮にだけ責任を負わせるのは、()なことでございます。父である白龍帝に代わって――白龍国の王族として、お願い申し上げます。わたしに罪滅ぼしの機会をお与えください」


 神の守護をなくせば、大地は荒れ果てる。

 いずれ、白龍国も小国になり果てるだろう。その光景が、まざまざと目に浮かぶようだった。

 急に、場違いな明るい笑い声が起こった。

 慧花は目を見開いて、その主をみる。

 その声は西王母ではなく、傍らに控えていた童子のものだった。

 西王母が何とも言えない微妙な表情を、その男児に向ける。


「――天尊、台無しですよ。もう、遊戯にはご満足を頂けましたか?」


「え……っ?」


 慧花は、彼をじっと見つめる。

 笑いを収めた童子は、瑠璃(るり)色の目を細めて彼女を見返した。


「まだ、あの国を見放すには早かったか。このような逸材が隠れていたとはな」


「天帝……?」


 しばしのあいだ、呆然としてしまった。

 しかし我に返ると、慧花は慌てて拝跪(はいき)する。恐れ多くも、直接言葉を交わしてしまった。

 慧花の頭上に、天帝の声が降ってくる。


「娘、お前の名前は?」


「……慧花と申します」


「慧花か。白蓮は天龍の資格を失った。だが、その罪を帳消しにして、下界に戻す機会を与えてもいいぞ。――もしも、お前が玉座を望むのならば」


 地面を見つめたままの体勢で、慧花は息を飲んだ。

 西王母が非難のこもったような声を漏らした。


「天尊……、いったい何をお考えなのです?」


「西王母――私は、民が争うことを望まない。だから、国主にふさわしい者を王に戴けるように、人間に龍を与えた。だが、生ある者は過ちを犯す。それが、人であれ龍であれ……」


 天帝は溜息を吐いて、言葉を続けた。


「ならば、人の世を泰平に導くのは、やはり人でなければならない。ゆえに、人間の娘に機会を与えよう。もしも三日以内に、お前が己の龍を得ることができたなら、私は白龍国を見捨てない。すべての罪を水に流す」


 慧花にとって、それは思いもよらないことだった。

 公主であるからではない。

 天龍が選ぶとはいっても、これまで白龍国の王になるのは男ばかりだった。

 もしも、父である白龍王が崩御すれば、慧花も公主ではなくなる。だからこそ公主であるうちに、有力者との婚姻が望まれていた。

 国主は、血統でなるわけではない。龍が君主にふさわしい者を選ぶため、その前の身分はまったく関係がないと言っても良い。

 逆に言えば、慧花でも王位を狙えるということだ。


「……おもしろい娘だ。相反する気持ちで揺れているな? ただの娘でありたい思いと、王族としての責任の狭間で……」


 天帝は楽しげにそう言った。そして手ずから、慧花に黄金の砂時計を渡す。


「これを、下賜(かし)する。砂がすべて落ちた時が、終わりの刻限だ」


 金の砂を落とす時計は、すでに明確に時を刻み始めている。

 慧花は砂時計をきつく握りしめ、地に額を押しつけた。


「……貴重なる機会を与えてくださり、感謝致します」



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