弐
黒龍は、正殿前の広場に降り立とうとしていた。
慧花と白蓮がその場に到着した時には、広場は騒ぎを聞きつけてやってきた人で入り乱れていた。
王城を警護する禁軍の将軍が、広場に集う人々に散るように指示を出している。龍が降下する場所を確保するためだろう。
ぽっかりとあいた空間に向かって、黒龍がゆっくりと降りてきた。
風が舞い上がり、慧花の髪が後方に煽られる。
大きな影が、群衆の上に落ちた。
慧花は息を詰めて、その光景を見守った。
陽光を照りかえす闇色の鱗。細長いその胴体は、五丈は下らないだろう。
前足と後ろ足に五本の鋭い鉤爪を有している。反り立つ黄色の一対の角。その金色の瞳が、慧花をとらえた。
龍に睨みつけられたら、大の男でも震えてしまうだろう。
けれど、慧花は違う意味で震えていた。
「……素敵」
間近で見れば、その美しさに見惚れてしまう。
永遠にでも見つめていられるような気がした。相手も慧花を凝視している。
その場にはたくさんの人が集まっているのに、まるで世界に互いの存在しかいなくなったかのように感じられる。
「――そんなことをおっしゃっている場合じゃないですよ、慧花さま」
白蓮は感情のこもらない声で、そう言った。横刀を抜こうとしていた将軍に、下がるよう指示して、白蓮は群集から一歩前に出る。
「――九元さま。まさか、貴方さまが崑崙から降りてこられるとは」
その声は緊張しているのか、常よりも硬くひびいた。
慧花は驚きのあまり、白蓮の袖を引っぱってしまう。
「白蓮、お知り合いなの? やはり、このお方は黒龍国の天龍さま?」
「……いいえ、知り合いではありません。ただ、一方的に私が存じ上げているだけですね。この方は、黒龍国の天龍ではなく――天帝のご側近です」
「て、天帝の側近……」
ごくりと、唾を飲み込む。
予想外の大物の登場に、広場に集まっていた人々がざわついた。
七王国の天龍に拝謁することさえ、普通の民には難しいことだ。さらに、神域にすまう神仙ともなれば、まさに雲の上のような存在。
王族である慧花にも臆する気持ちが生まれる。
九元は龍のすがたのまま、低い声で告げた。
「天帝の代理として、御意思を伝えにきた。――天はこの地を見放した。もはや加護は与えぬ」
「そ……それは、どういう意味ですか?」
慧花は勇気を振り絞って、九元と名乗った黒龍の方に身を乗りだす。
彼の金色の眼差しが彼女の方に向かう。
視線が交わると、場違いだとわかっているのに胸が高鳴ってしまう。
九元が抑揚のない声で言った
「青龍国で、三月前に、国主と天龍が崩御したことは、知っているだろう?」
こくりと、慧花は頷く。
青龍国の王と天龍の訃報は、すぐに白龍国にも届いた。陵墓に花を手向けるため、白龍王の名代として第一王子の風牙が、二月ほど前に東の地に向けて出立している。
青龍国までは、馬で半月ほどの距離だ。往復を考えても、そろそろ戻ってきても良い頃だろう。
――ふいに、慧花は嫌な予感に捕らわれた。
そして次の九元の言葉で、その疑念が当たっていたことを知る。
「白龍国の第一王子が私兵を率いて、青龍国を乗っ取ろうとしたのだ。それを、天帝はお許しにならなかった」
その場にいた者たちが、どよめきの声をあげた。
「そんな……」
慧花はめまいを覚えて、よろめく。
兄である第一王子の風牙は、確かに野心家なきらいはある。だが、他国の王と天龍の不在の時を狙って事に及ぶほど、卑劣とは思っていなかった。
九元は瞼を伏せる。
「……人の世は争いばかりだ。嘆かわしい。何故、天帝が龍を放ったか。お前たちは、忘れてしまったのか?」
それは昔からある伝承だ。
中原に鹿を逐う、という言葉がある。中原とは大陸の中央であり、その地は歴代の王朝の要となってきた場所だ。鹿は王を意味し、諸王は大陸の覇権を得るために争いを続けてきた。
多くの民の血が流れゆくことを嘆いた天帝は、大陸に天龍を放つ。
天龍は、国主にふさわしい者を王に選んだ。
天龍に選ばれることなく玉座を得た者は奇怪な死を遂げ、天龍が君主を選ばなかった国は衰退し、やがては小国になり果てた。
――そして、現在、天龍を得ているのは龍の名を冠する七王国のみとなっている。
ふいに、白蓮がうめき声を漏らした。
「白蓮……?」
心配になって慧花が彼女の肩に手をかける。白蓮は弱々しく微笑む。だが、その顔は蒼白で、唇も戦慄いていた。
白蓮の額にある龍紋が薄れてきていることに気付いて、慧花は目を剥く。
「龍紋が……!」
王と天龍は、契約を結んだ時から寿命を繋げる。本来は不死である龍も、人と同じ命の長さになるのだ。龍紋が消えるのは、彼らの命の終わりの時と決まっている。
「白蓮に、何をしたのですか!」
慧花は、九元に向かって怒鳴りつけた。
いくら天帝の側近であろうと、容姿が激しく好みであろうと、許せることではない。
慧花のその態度がうっとうしかったのか、九元は半眼になった。
「その龍は、ただ契約の印が消えただけだ。龍紋が失われたからといって、通常のように死を迎えるわけではない」
「え……?」
「天が、この地を見放した証だ。これからは、人の力だけで泰平に導け」
この大陸には、龍を抱いていない弱小国はたくさんある。
(これからは、天龍がいない……?)
それは、龍の存在を支えにしてきた大国の民にとって、絶望を与える言葉だ。
「天龍には、国主を選ぶことへの責任がある。慧眼な龍ならば良いだろう。だが、白蓮。お前は、龍族として落ちこぼれだ。天に戻って、裁きを受けることだな」
無慈悲に告げられた九元の台詞に、慧花は仰天した。
「ちょっと待って下さい! どうして、そうなるんです!? た、確かに……兄である風牙は、天帝の意に背く行為をしてしまったかもしれません……っ! ですが、白蓮には関係がないはずです!」
(君主の子の責任まで取らされるなんて、そんなの横暴だわ……!)
しかし、続けて九元が言った言葉は、慧花が思ってもみないことだった。
「その龍は、今回の騒動が起こることを事前に知っていた」
「え……?」
何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。
「……どういうことです?」
喉から震えた声が漏れる。
視線を白蓮にむけると、彼女は深く顔を俯けていた。
「――申し訳ありません、慧花さま。主上に思いとどまって頂けるよう、必死にお諫めしたのですが……」
「そんな。うそでしょう……」
足元が崩れていくようだった。
慧花の狼狽する様子を、九元は無感動に感じられる瞳で見つめていた。
「だが、事実だ。王子が独断で、他国に攻め入ろうとするなんて無謀だろう? 普通ならば、そこまでできるはずがない。この国の王も、一枚噛んでいたということだ。――そういうことだ、白蓮。崑崙に戻るぞ。天帝がお待ちだ」
九元の言葉を受けて、白蓮は顔をあげた。すでに、その額から龍紋は消えている。
「……ええ、参りましょう」
「白龍王に別れを告げなくても良いのか?」
九元の問いに、白蓮は寂しげな笑みを広げる。
「――離れがたくなってしまいますので。愚かな行為をなさったとしても、私の愛する主上ですから……」
「……理解できないな。たかが人間に、そこまで肩入れするなんて。寿命を共にしたからといって、同胞になるわけでもないだろうに」
九元の皮肉めいた言葉に白蓮は答えない。
彼女の体の輪郭が揺らぎ、白い鱗を持つ龍がすがたを現わした。
「白蓮……っ」
慧花が呼びかけると、白蓮は空色の瞳で見返してくる。
「――慧花さまは、すぐに立場を忘れた態度をとってしまわれる。まあ、そんな気易いところが美点でしたけれど……。これからは、おそばで小言を申し上げることができません。どうか、ご自重ください。――そして、お元気で」
二匹の龍が、ぐっと上体を反らした。
(飛び立とうとしている!)
白蓮はすでに高いところに飛翔してしまった。
九元の足が石畳から浮き上がるのを見て、慧花はとっさに駆けよった。そのまま、九元の尻尾にしがみつく。
「絶対に、白蓮を連れて行かせないんだから……っ」
尻尾に引きずられるようにして、慧花の体は宙を飛んだ。
群衆が真下で騒いでいる。
だが、慧花にはそれどころではない。
手がすべったら、地面に真っ逆さまだ。
逃さないように必死に、幹のような尻尾を抱きしめる。
「慧花さま……っ!?」
白蓮が驚愕の声を漏らしていた。
急に、九元が尻尾を揺らす。
人間の何倍もある巨体だ。尾の軽い一振りであっても、激しい風力が襲いかかる。
「きゃ……っ」
慧花は悲鳴をあげた。
冷や汗が湧きでてくる。落ちたら、軽い怪我ではすまないだろう。
真下を見やれば、広場に集う人々の黒い頭が小さくなっていた。黄色い煉瓦の正殿の屋根が、玩具のように見える。
「九元さま! 尾を振るのは、よして下さい!」
白蓮の叫び声で、九元は尾の動きをぴたりと止めた。彼は忌々しげに呟く。
「……そうか、人間はかなり弱い体を持っているんだったな。――仕方ない。おい、人間の娘。変なところを掴むな。今から地上に戻るから、そのまま落ちないようにじっとしていろ」
「嫌よ!」
「なに?」
真下を見れば、足がすくみそうになる。
だが、慧花には手を放す気など、さらさらない。
決意を込めて、九元を睨みつけた。
「白蓮を連れて行かせないわ。罰を与える気なのでしょう? そんなことさせないわ! 絶対に阻止してやる……っ」
その強い意志を示すように、さらに力強く尾に抱きつく。
九元はうんざりしたように、隣を飛ぶ白蓮に雁首をむけた。
「おい、こいつを何とかしろ。お前なら、この娘を説得できるだろう」
「嫌よ! 白蓮のお願いだとしても、絶対に聞かないんだから! 白蓮を解放するまで、ずっとしがみついてやるわ……っ」
慧花はそう叫んだ。大声を出していないと、風で声が掻き消されてしまいそうだった。
九元はしばらく押し黙っていたが、ため息を落とすと、慧花にその大きな頤を接近させる。
(食べられる……!)
恐怖を感じて目を閉じたが、一向に鋭い牙は襲いかかってこなかった。
おそるおそる瞼を開けると、九元は目を細めている。――その姿を人間で例えるなら、呆れたような表情というのが一番しっくりくるのだろうか。
「……このままだと、お前はどこまでもついてきそうだ。やむを得ない。俺の背中に飛び移れ」
「え?」
「そこを掴まられると、くすぐったいんだよ。うっかり落としてしまいかねない。角のところを両手で掴んでいろ」
手を伸ばせば、角を掴めそうな位置まできている。九元は空中で輪をえがくように頭部と尾を近づけた。
慧花は怯えながらも、勇気を振り絞って飛び移った。
一瞬、足が宙を掻き、肝が冷える。
だが、がっちりと角を掴むことができた。
「公主さまなのに、なかなか根性がある」
笑い混じりに褒められて、慧花は顔が熱くなった。けれど、不快な感情ではない。
横目で見れば、白蓮が『やれやれ』とでも言いたげに首を振っていた。
「落ちないように、しっかりと掴まっていろよ」
九元はそう言うと、さらに空を高く昇っていった。
体の全面に叩きつけてくる風の威力に、慧花は目を丸くする。けれど、次第に楽しい気持ちが湧き上がった。
眼下では、すでに建物が豆粒のように小さくなっている。
体が風と共に浮き上がるような感覚をおぼえた。
袖や裳裾が、バタバタと煩いほどに音をたてる。
「わぁ……!」
街を抜けると、緑の絨毯が眼前に広がった。なだらかな稜線を超えると、地平線に青い色が見える。
(西海だ……!)
白龍国は大陸の最西端にあり、西側に海を臨んでいる。
とはいえ、白龍城のある王都は、海から何里も離れた場所にあるはずだった。
けれど、夢中になって空の光景を眺めていたせいだろうか。もう海の群青色が、間近に迫ってきている。
やがて陸地が終わり、海上に身を乗りだした。
風景が一変する。
「ああ……!」
慧花は歓声をあげた。
濃い潮風が、頬を撫でていく。
海鳥が水面近くを滑るように飛んでいた。
はるか下にある海面を、きらきらと波飛沫が跳ねている。水面は陽光を照りかえして、まぶしい。小魚の大群が透けて見えている。
振り返れば、母国の大陸が遠ざかっていた。そのことに一抹の不安を感じて、慧花は九元の黒いたてがみを撫でつけた。
「九元さま! 崑崙まで、どのくらいなのですか!?」
襲いかかってくる風に負けないように、声を張り上げた。
「――まだ遠い。日没までには、たどり着くだろう」
「そ、そんなに……」
慧花は途方にくれた。
九元はまっすぐ飛んでくれているが、やはり多少の揺れはある。しっかりと角を両手で掴んでいないと、落ちてしまいかねない。
(夕刻まで、わたしの握力が持つかしら……?)
慧花の懸念に気づいたのか、九元が笑う気配がした。
「寝ていてもいいぞ。もし滑ったら、落ちる前に空中で拾ってやろう」
慧花は困惑混じりに、九元を見つめる。
(優しいのか、冷たいのか……わからない方ね)
寝るつもりなどなかったが、長時間の揺れが眠気を引き起こしてしまったらしい。
手触りの良いたてがみに埋もれて、いつしか、慧花は眠りの中に落ちていた。