壱
白龍城の北東にある――三重の角楼。
そこに向かって回廊を急ぎ足で進んでいるのは、年の頃は十五、六ほどの少女だった。
彼女が駆ける廊下の真下には、水堀がたたえられている。翠色の欄干から身を乗り出せば、敷地内に広がる春牡丹の咲き乱れる庭園を臨むことができるだろう。だが、彼女は百花には目もくれず走っていた。その両手には、金の編籠が抱えられている。
「ああ、寝坊しちゃった。はやく行かなきゃ」
彼女の頬は上気していた。
黒い瞳が、水面から照りかえす朝日を浴びて輝いている。彼女の動きにあわせて、艶やかな黒髪が腰の辺りで揺れていた。しゃらしゃらと音を奏でているのは、下裳で揺れている紫水晶を連ねた垂飾だ。
襦裙には、見事な牡丹が刺繍されている。その結い上げた黒髪には龍を模した黄金の簪が二本挿されており、一目で高貴な身分だと知れた。
「慧花さま!」
突如、背後から落ちてきた雷声に、少女はビクリと身を震わせた。
先ほどまでの軽快さがまるで嘘のように、ゆっくりとした動作で――慧花と呼ばれた少女は振りかえる。そして表情を引きつらせながら、己を呼んだ女性を見つめた。
「あ、あらら? ……は、白蓮。おはよう、朝が早いのね」
「おはようございます。最近では、召人より早く目覚めてしまいます……もう、年かもしれませんね。ああ、今はそういう話をしている場合ではありません。公主ともあろう御方が走ってはならないと、私は常日頃から口を酸っぱくして申し上げておりますでしょうに」
白蓮は腰まで流れる銀色の髪を後ろに払いながら、その端麗な容貌を歪めた。見た目は二十代前半ほどだろう。公主を前にしても臣下の礼をとるでもない。
白蓮は瞼を半ば伏せて、空色の瞳に憂いの色をのせる。
「ご存じでしょうか、慧花さま。近頃、飼育人が小竜のために育てている蚕小屋から、蚕が消えるという異常事態が発生しているのです」
「へ、へえ……」
慧花は変な汗が流れてくるのを感じながら、手に持っていた編籠を背に隠した。その籠の中からは、カサカサという木の葉と何かがこすれあう音がちいさく聞こえている。
「おかしな現象もあるものねぇ」
慧花は白蓮から視線を逸らして、唇を尖らせて口笛を吹くようなしぐさをした。
白蓮は難しい表情のまま、帯に差し込んでいた簪を取り出した。それを見せつけるように、慧花の眼前で、ひらひらと動かす。
「蚕小屋には、このようなものが落ちていたそうです。龍の意匠をまとえるのは、七王国の王族だけです」
「あ……っ」
慧花は驚いた表情で片手を伸ばし、自身の頭をさぐった。簪が一本減っていた。今朝方、侍女たちの手で身支度をととのえられた際には、三本は挿していたことを慧花も文鏡で確認している。
その行動で墓穴を掘ってしまったことに気付き、慧花の顔から血の気が失せていく。
白蓮は、ひどく優しい笑顔を浮かべていた。
「慧花さま。さあ、出してください」
そう促がされ、慧花はしぶしぶ背中に隠していた編籠を白蓮に手渡した。
その金色の蓋をあけて、白蓮は柳眉をよせる。白い幼虫たちが、籠の底でうごめいていた。数十匹はいるだろう。
「――慧花さま」
白蓮は呆れたような声を漏らす。慧花は頬を染め、恥じらいながら、もじもじと身を動かした。傍目から見ると恋する少女のように愛らしいしぐさだが、その実態が蚕泥棒では、まったくさまにならない。
「……だって、自分の手で、小竜たちに餌をあげたかったんだもの」
慧花は欄干から身を乗りだし、角楼の最上階を見上げた。そこに、彼女の愛する小竜たちがいるはずだ。
白蓮は苦々しい表情をしている。
「わざわざ、慧花さまがお世話をされなくても……。小竜の世話は、飼育人に任せておけば良いのです」
「嫌よ。それなら、わたしは何を楽しみに生きればいいの?」
「少々、大げさなおっしゃりように思いますが」
「そんなことないわっ」
慧花は欄干を握りしめて、怒鳴り散らした。
「わたしはこれでも、末の公主……。外国の使者の方をもてなしたり、国内の貴族の女性たちとお茶会を開いたり、公式行事に参加させられたり、国内の主要施設の慰問にむかったり……意外と、公務で日々忙しいのよ……っ」
「慧花さま……」
「そのつらい日々には、癒しが必要なの……! あの鋼のような鱗の肢体、人間にはない冷血動物特有のこの冷たさ……ああ、どこをとっても、たまらないわぁ~。一日に一度は彼らに頬ずりしないと、わたしは、やる気がでないのよ……!」
「堂々とおっしゃることですか。『国色天香』の名が泣きますよ」
それは、国一番の美女につけられる呼び名だ。
慧花は唇を尖らせる。
「それは、みんなが勝手に言っていることでしょう? わたしには、白蓮のほうがよほど美しく見えるわ」
そう言って、慧花は白蓮の白い頬に手を這わせた。白蓮の秀でた額に浮かぶのは、紅色の龍紋だ。この世にふたつとない――国主と天龍を結ぶ模様である。
「見事な意匠だわ……わたしは、白蓮が龍のすがたをしている時のほうが好きよ。どうして、公式行事以外では本当のすがたを見せてくれないの?」
白蓮は、慧花の手をやんわりと退けた。
「――常に龍のすがたをしていたら、危険でしょう。人間を踏みつぶしてしまいかねません。それに建物も、たやすく壊してしまいます」
「大丈夫、わたしが白蓮にぴったりの大きさの殿を建ててあげるから」
白蓮の頬が引きつった。
「……いま、少し身の危険を感じましたよ」
「別に変なことはしないわよ? 朝昼晩、頬ずりするだけだわ。あと、添い寝とか」
「充分、おかしなことだと気づいてください」
「ああ、勿論、手ずから餌をあげたいわね。龍って何を食べるのかしら? 昆虫で良い? 白蓮って、人のすがたの時は普通の食事だけれど、龍のすがただと、それはおかしいわよね? ああ、想像するだけで夢が膨らむわぁ」
胸の前で両手を組みながら、慧花は夢見るような表情でこぼした。
白蓮は銀髪を掻きまわす。
「龍は小竜とは違うんですから、昆虫や蚕はやめてくださいよ。せめて、人間と同じ食事にしてください。って、いやいや! そもそも、前提がおかしいですよ! 龍を飼おうとなさらないでください。一応、これでも神仙――妖仙なんですから」
神仙とは、不老不死を得た神々の総称だ。
人から不死に至ったものを仙人といい、動物から昇仙したものを妖仙という。
「飼うだなんて……人間ごときが、神仙に対して恐れ多いわ。でも、もし白蓮が男性だったら、間違いなく求婚しているわね」
「慧花さま」
たしなめるように言った白蓮を無視する。
慧花は両手を上にあげて、大きく背伸びをした。
「ああ……どこかに、四丈――人間の男性の七人分くらいの身長があって、口から火が吐けるくらい頼りがいがあって、槍や剣で刺されても死なないくらい逞しい体を持った方……いらっしゃらないかしら?」
「慧花さま、そんな人間はいません」
「まあ、そうよね」
慧花は軽く頷いた。
白蓮は躊躇いがちに言う。
「――龍と結婚なさるおつもりですか? 人間世界にどれだけの龍がいると思っておられるのです? この大陸に、私を含めて、たったの七体です。しかも、すべてが七王国の天龍」
「そうね……」
「天龍は君主と共に生きるもの。結婚なんてしません。人間のつくった制度に当てはめようとするのは、愚かなことです」
立て続けに白蓮に言われて、慧花は肩をすくめた。
「本気で龍と結婚しようと思っているわけじゃないわ。わたしは、自分の立場を理解しているつもり。愛のない政略結婚だって構わない。身分のある地位に生まれたら、それは当然のことだもの。……でも、龍とは言わないまでも、簡単に死なない相手がいいわね」
「慧花さま……」
白蓮がどこか痛みをこらえるように呟いた。
慧花は深く息を落として、欄干に手をのせた。
優美な宮殿は、まるで鳥籠のようだ。
自室に、毎日のように届けられる書簡を思い出す。国内外の貴族の男たちから届けられるそれは、日々、量を増していた。
「白龍国の女は、十代半ばから後半にかけて結婚するのが一般的だものね。わたしも、もう十六……そういう時期なのよね。お父様からも、早く誰かを選ぶように命じられているし……」
慧花は押し黙る白蓮にむかって、自嘲気味に言い続ける。
「だから、結婚はするわ。でも、その前に……人生に一度でいいから、本当の恋がしたい。そう思うのは、贅沢なことなの?」
慧花は特殊な趣味のせいで、十六にして初恋もまだだった。
深く息を落として、空を見上げる。
中天に昇ろうとする太陽の光が、燦々と回廊に降りそそいでいる。
一瞬、太陽の光の中に黒い影を見た気がして、瞬いた。
「……何かしら?」
逆光で見えづらい。
目を眇めて見ると、それは蛇ように長い体を持っていた。
遠目でも知れる、その巨体。
(龍だわ……)
慧花は息を飲む。
「なっ、どうして……こんなところに龍が……?」
「どうかなさいました、慧花さま?」
「白蓮、あれを見て。龍よ!」
その黒龍は、次第に白龍城にむかって近づきつつあった。
宮殿にいた者たちも黒龍の接近に気付き、あちこちから、どよめくような声があがっている。
慧花は瞳を潤わせて、感嘆の吐息を漏らす。
「うわぁ……やっぱり、すごい迫力。素敵ねぇ……。黒い龍ということは、黒龍国の天龍さまかしら?」
そう、横手にいる白蓮に尋ねる。
白蓮は黒龍を見上げたまま強張った表情をしていた。
「……白蓮?」
普段とは違う彼女の様子に、慧花は首を傾げる。
白蓮は慧花の問いには答えず、長々とため息を落とした。
「あの黒龍さまの目的は、きっと……」
龍が風を切る音で、白蓮の言葉はかき消される。
黒龍は慧花たちのいる回廊の真上をかすめるように通りすぎていく。
その一瞬、慧花は黒龍と目があった。金色の瞳だ。
黒龍は南にむかって飛んでいく。速度を落として身を低くしていた。どこかに降りたとうとしているのかもしれない、と慧花は思った。
「行きましょう、白蓮」
慧花は白蓮の手をつかみ、駆けだそうとした。
けれど、彼女は動きだそうとしない。そのことに焦れて慧花が振り返ると、白蓮の顔から死人のように色が抜け落ちていた。視線を床に落としている。
「白蓮?」
「――申し訳ありません、慧花さま。私は……」
けれど、白蓮はそれ以上、何も答えなかった。