街路での攻防1
ーー
夜空では、やせっぽっちの月がひっそりと息をしている。そんな人気のない暗い道を、彼はふらりふらりと、羽虫の飛ぶように歩いていた。
魔道師という職業柄、体力など人並みにあるかないかといったところで、彼にとって猫探しは重労働だったらしい。頭はガンガンと鈍く痛み、体の節々はミシミシと……典型的な筋肉痛だ。
左手の民家からは、暖かい光が除き、キャッキャと楽しそうな子供の声まで聴こえてくる。彼はその様をどうしようもなく眩しく感じていた。
すうっと、更に暗がりの方へ進み、なにも耳に届かなくなったころ、そばの灰色の塀に掌を置いて口を開いた。
「あ、あー。……聞こえますか、師匠」
微かな光が漏れる。彼はピリリと痛み感じて少しふらついたが、すぐに持ち直し、その声を聴く。
『ええ、聞こえているわ。月は見つかったかしら』
キリッとした、女の声。彼はそれが知っているものであることに溜め息を吐いた。
「いいえ。現地で情報を得たまでは良かったのですが、さっぱり。尻尾もなにも見つかりません。師匠の方は……」
『申し訳ないけれど、なにも。朝、あなたに伝えた以上のことは』
「ノイズ、ですか。師匠の術でも駄目なんて」
『自然ではあり得ないノイズが探知に乱れを生じさせているわ。これについて、あなたの方になにか異常はある?』
「術のかかりが甘い気がします」
彼は昼のことを思い出した。ある一人の少女にかけた「魅了」が、思うように効果を現さなかったことである。今までにないにない失態であった。
『そう……』
師の沈黙を思案ととって、彼は待った。実のところ、もう膝をつきたくてたまらなかったのだが、師の手前ではもってのほかだ。彼がうつらうつらと二、三度頭をぶつけたころ、ようやく返事が返った。
『わかったわ。ウェルナー、魔道師の勘は経験に勝る。これ以上の詮索はむしろ逆効果ね。日を改めて別の人員を派遣するから、あなたは明日そこを発って本部に戻りなさい』
師はきっぱりといい放った。降伏とも言えるその対応に、彼は戸惑いを見せる。
「っ、でも、急ぎの仕事では」
『指示に従いなさい。ウェルナー。ーーロイズ君のお土産でも選びつつ、ゆっくり帰ってきなさい。いいわね」
念を押され、彼はただ、頷くしかなかった。
一言挨拶をして塀から手を離すと、声はなくなり、また、ピリッと痛みが走った。
突然の任務解除。師の冷たい声色。
(また、役に立てなかった……)
重い瞼、足を引きずりながら、彼は最寄の宿を目指す。月の光は、微かに朱を帯びていた。
ーー
朱い……
ふと、ロウァニカは目を覚ました。半開きになったカーテンの隙間から、朱みがかった光がさしこんでいる。
どうも、不快だ。そう感じたロウァニカは、カーテンを閉めるため身を起こした。しかし、ベッドから降りたところで、窓のところになにかがいることに気がついた。
二つの金色の光を覗かせる黒い塊。ノワールだ。猫なだけに夜行性なのだろうか、心なしかそわそわと落ち着きがないように見えた。
「ノワール、どうかしたのか」
隣ですやすやと寝息をたてているキリエに気をつかい、ささやくようにロウァニカは声をかけた。ノワールは振り返る。鋭い視線にかち合い、ロウァニカは動きを止める。
「月が、あかい」
ノワールは唸るようにいった。ロウァニカはうなずく。
「ああ、これが緋の月ってやつか。嫌な光だな」
「そうだろう……しかし、早い。色も……」
ノワールは窓の外を睨み付け、独り言のようにぶつぶつと呟いた。ひげはぴんと緊張した様子だった。
「なにかおかしいのか」
「前はもっと紅かった。感じる気配もおかしい。なにか、異神になにか……」
心ここにあらず、といったふうに、月を見つめるばかりのノワール。そんなに考えても仕方ないだろうに。ロウァニカはひとつ欠伸をして言った。
「月見もほどほどにしとけよ、ノワール。何が違うかは知らないが、どうも嫌なかんじだ。俺はもう一眠りするから、カーテンは閉めさせてもらう」
月の光に目を細めつつ、ロウァニカはカーテンに手をかけた。そのとき、窓の外、なにかがロウァニカの視界を、掠めた。
どくん
胸が激しく動悸する。今見たものはいったい何かと、ロウァニカは手をかけたカーテンを全開にして、窓に顔を近づけ目を凝らした。
立ち並ぶ建物の間、暗い夜道の更に奥まったところに、なにかがいる。
ロウァニカはふと、それに懐かしさを感じた。今は遥か遠い、故郷の香りだった。しかしそれは、どうしようもなく邪悪なものだと、ロウァニカは知っていた。