旅の目的2
「旧ヘイテルジーク領……ここからかなりありますね」
「地図を見るか?」
「お願いします」
ロウァニカは、キリエの荷物から巻かれた地図を取り出して床に広げた。
「ありがとうございます。えっと、わたしはたちがいるクアロッタは、ここ」
キリエは地図に浮かぶ四つの大きい固まりのうち、一番下のものの一点を指で示した。
「ここです。ここがクアロッタ。クアロッタはアバルディシャ領で、ヘイテルジークはこっちの、ゴットナイツ領の中になります」
そこからまた指を滑らせて、今度は北側のものにたどり着いたところで止まった。
「見たところ陸が離れているが、船とやらを使うのか?」
ロウァニカが尋ねた。
「この地図はだいぶ古いので……今はアバルディシャからフェナテンド、フェナテンドからゴットナイツへの橋ができているそうですよ」
「五十年ほど前のことだ。残念なことにアバルディシャとゴットナイツは仲が悪く閉鎖されている。わたしがこちらの大陸に渡ってきた時には苦労したものだ」
ノワールが言う。
「海路は早い分、事故があれば避けようがない。リブドールで会いたい者もいる。そしてーー私的な理由で申し訳ないが、この身で海を渡るのは少々気が引けるのだ。陸路を使わせてはもらえないか」
ぶるり、とノワールは漆黒の毛を逆立たせた。
「猫だしな、今のところ」
ロウァニカはにやりと笑ってその毛を荒々しく撫でた。それを見たキリエはむくれた。
「だからロウァニカ、ノワールさんは人間なんですよ!」
「心遣い感謝する。わたしは大丈夫だから、説明を続けてくれ」
そう言い終わったノワールは、にゃあと一声漏らした。
「……わかりました、陸路ですね。じゃあクアロッタを出てリヴドールへ。そこからどこかの商団に連れ添ってテテュス、そしてアバルディシャ城下まで行きましょう。橋を渡ってからは、アバルディシャに着いてから考えたいと思います」
語り終えて一息ついたキリエに、ロウァニカは頷く。
「わかった。じゃあ出発は明日か明後日くらいか。追手がきているなら、またはちあわせるまでに街から出たいな」
「まだ決まったわけじゃ……あっ、そういえばノワールさんは、一体どんな人たちに狙われているんですか?」
はっとキリエが思いだしたように手を打った。
「『カヤの塔』の魔道師たちだ」
「『カヤの塔』?」
「魔道具ーー魔術のこめられた道具を保護するという名目で破壊、強奪を繰り返す魔道師たちの組織だ。どこで情報を手に入れたのか……やつらにとって、この仮想の月は見逃しがたい物のようだ」
やれやれ、とロウァニカは肩をすくめた。
「死んだものが生き返るくらいだしな。そんなものポンポンあっても困るし、保護するのは道理ってとこか」
「一昔前のあれらは、本当に誠実な保護を行っていたらしいが、今、仮想の月あれの手に渡れば、何が起こるか」
「せ、世界制服とか!?」
目を輝かせたキリエの、その頭をすかさずロウァニカが叩いた。
「痛っ」
「どこのお伽噺だ」
「だって、悪の組織には世界制服って昔からの決まりごとじゃないですか。言ってみただけですって!」
口ではそう言っても、キリエの目はいまだ輝いている。
「悪の組織ではないが、仮想の月を使えば近いことはできるだろう。元々帝を甦らせることも、ヘイテルジークの再興、ゆくゆくの世界統一を願ってのものだからな」
「それも大概な話だな。得体の知れない集団よりは猫の方が無害だし、しっかり守ってやるよ」
乱暴に撫でられ、ノワールの毛並みはあっという間にぐしゃぐしゃに崩される。それを見てロウァニカはにやりと笑った。
「もう、ロウァニカ!」
キリエの怒声でロウァニカはようやく手を引っ込めた。
「いや、気持ちよくてさ。それで魔道師の相手は、何に気をつければいいわけだ」
ノワールは身震いをして毛を整えてから言った。
「ロウァニカ殿は異界の方だったな。魔道師というものはそちらには」
「同じものかは分からないが、いるって話はあったな。ただ俺は見たことがない。周りは血の気の多い筋肉馬鹿だらけだったから、最初っから説明してくれると助かる」
「実はわたしも詳しくは知らないので、聞きたいです」
ロウァニカとキリエの意見が合致し、ノワールはその短い首を縦に振った。
「わかった。教授させてらもらおう」
二人の視線が黒猫に集まる。一息飲んでから、ノワールは話しはじめた。
「魔道師とは、魔道を究めるものたちの総称だ。細かく区分するときりがないが、魔術師、呪術師、薬師の三つが主になっている」
「薬師? お薬って魔道に入るんですか?」
「魔術の力を借りる特別な調剤方法もある。本人たちは否定することが多いがな。そして、魔術師と呪術師は術師という点は共通していても、扱うものが違う。魔術と呪術の違いだ」
ノワールは一度言葉を区切り、二人を見返す。
二人が頷いたのを確認するとノワールは右手を地図の上に翳した。ぼうっと、炎ではない仄かな光が、その手に灯る。
「猫の身ゆえこの程度しかままならないが、これが魔術だ。詳しい原理は割愛するが、『この世に満ちる力』を『術者の中の力』でもって行使する。自分と相手を除く自然界の現象を左右するもののことを言う」
「逆に呪術は、『術者の中の力』のみで相手に干渉する。たとえるなら、葉っぱが一枚、床に落ちていたと考えてもらいたい。これを動かす時、あおぐ、などの行為で風を起こして動かすのは魔術。直接手や足で触れて動かすなら呪術、というわけだ。キリエ殿、わかるか?」
「な、なんとなく。ロウァニカはどうですか」
「ん、さっぱりだな」
キリエはしどろもどろに答え、ロウァニカは首をかしげるだけだ。
「ここまでは重要ではないから、頭に留めておくだけで構わない。お二人に伝えておきたいのは次の問題。呪術の回避の仕方、だ」
「回避、できるんですか?」
「もちろんだ。振り返すようで悪いのだが、先ほどキリエ殿にかけられた『魅了』も呪術の一種だ。これは厄介で、回避できなければ術が解けるまで自分に術がかけられていることもわからない。その分もともと敵意のある相手には通用せず、そこまで強い効果を持つものではないというのが一般の認識だ。だが呪術師は自分の力頼みな分、術者の力量で術の威力も大分変わってくるため断言はできない。絶対の回避法はただ一つ。相手の力の出所を感知しないことだ」
沈黙が流れる。ロウァニカは首をかしげた。
「つまり?」
「例えば、眼を見ない、声を聞かない。術者の存在を感知しなければ、かかることはない。相当の術者でも、力を伝える術がなければ無害だ。無論相手も馬鹿ではない。なにかの道具を媒体にすることや、いくつかの仕掛けを組み込んでくるだろう。だが最悪の場合、目を閉じて耳をふさいで、狭い密室に閉じ籠っていれば術にはかからないのだ」
「極端な話だな。でもそんなのできるのか? 戦いでは役に立たないだろう」
「ああ。ロウァニカ殿に頼みたいのは、相手に気づかれる前に敵を察知すること。周りに警戒を向けてもらいたい。呪術師とはいえ、所詮は人。一撃必殺だ」
「必殺技!」
「少し黙ってろ」
ロウァニカが軽くひっぱたくと、びたんとキリエは床につっぷした。
「あんた、以外と無茶なこと言うんだな」
「術の行使には予備動作が必要だ。あなたなら見て、対処することも容易いと、わたしは信じている。我が師も、それを見越しておられたはずだ」
ノワールの黄色い瞳が、ロウァニカとかち合う。ロウァニカははぁっと息をついて、うなずいた。
「やってやるよ。こっちには前の世界くらい丈夫なやつはいないみたいだしな。暇潰しにはなる。ちゃんと約束通り、あんたを守ってやる。」
にっと笑ったロウァニカに、ノワールもまた、そっと微笑んだ。そのときだった。
ぼふっ
突然枕がロウァニカの顔面に直撃する。もがっと声が聞こえるや否や、第二、三撃が襲った
「ニャアアア!」
ノワールはあまりの惨事に毛を逆立たせて椅子の下に潜り込む。それを優しく抱き抱えて、彼女はいい放った。
「何度も何度も叩かないでくださいよ! ロウァニカの馬鹿!」
キリエは顔を真っ赤にして、更に鞄を投げつけた。
「こら、やめろキリエ、わっ、わるかったって!」
ぼふ、ぼふん。
やわらかな圧力がロウァニカを次々に襲う。
「こら、息できなっ」
「やーめーまーせーん!」
真剣だった二人の声は、段々笑いが混ざりはじめ、やがて楽しそうな喜声に変わった。
「キリエ、殿、くるし」
「ああ! ノワールさん!」
「生きろ、ノワール!」
あまりのうるささに、隣室から苦情がきたことは、述べるまでもないだろう