旅の目的1
その昔、ヘイテルジークという栄華を極めた国があった。
皇帝ヴィンツェンツの治世は偉大であり、彼に惚れ込んだ才人は多く、その傍らに控えていたノワールの師、魔道師エンリットも、その一人だった。
しかし、ヴィンツェンツは若くして病に伏し、息を引き取る。皇帝の遺志を継ぎ、師は国のために力を尽くしたが、晩年、空に赤い月が登った。
そのころである。エンリットははたと何を思ったか、ノワールにも、皇帝の妻ディートリンデにも詳しく告げずに国を出た。二十年後、ノワールが別の師の元で修行に励み、すっかり一人前になったころに帰ってきた師は、途端に床に伏せ、こう言った。
「ヴィンツェンツを蘇らせる方法を見つけた。だが、わたしにはそれを実行するだけの時間が残されていない。もし君にこの国のため人生を捨てて良いほどの忠誠があるならば、私の願いを聞き届けてくれないか」
『死者の生還』は、魔道をもっても不可能とされる代名詞だ。二十年も放っておいて、そんな突拍子もないことを言い出す師を、ノワールに呆れはなく、ただ哀れに思った。この人はもう、おかしくなってしまったのだ、と。
皇帝の死より三十年余り、それこそ始めの十年、師はよくこの国に仕えていたが、どこか生気がなく、迷い子のようであった。
もしかしたら、師は、エンリットという男はとうの昔に、皇帝と共に死んでしまっていたのかもしれない。
なら、今ここにいるのは脱け殻か、皇帝と師の夢の残りかすとでもいうのか。いや違う、ここにいるのは魔道師だ。魔道師エンリットはまだここにいる。自分の尊敬して止まなかった稀代の呪術師がここにいるのだ。
問答の末、掴んだ答えにノワールは飛ぶような気持ちだった。そして顔面蒼白な敬愛する師の手をにぎり、強く頷いた。
「やりましょう、我が師よ」
エンリットは捕まれた手を緩く握り返し語った。
皇帝を蘇らせる方法は、以下の通りだった。
「今空に輝く緋色の月は、こことは違う異界の力の干渉の結果なのだ。その光の力を、わたしはこの二十年でこの石の中に封じ込めた。しかし、それだけでは足りない。書物によれば、緋色の月は何百年に一度の周期でやってくるそうだ。次に月が現れるその時ならば、力を解放して魂を呼び戻すことが可能のはずだ。儀式のための陣も、魂を降ろす器も用意してある」
ノワールが例の石を受け取った翌日、エンリットは静かに息を引き取り、彼を知るものたちは涙した。エンリットは師の言葉に従い、時を越えるため憑依の術の腕を磨いた。
このとき受け取った石こそが、『仮想の月』である。
ノワールは口を閉じた。猫の口でどうやって発音しているのかはわからないが、少なくとも口から空気を吐き出すのは変わらないらしい。
「その緋色の月とやらが、そろそろ現れるってわけか」
ロウァニカの問いに、ノワールは頷く。
「ああ。わたしはこの四百と少しの間、魂だけを動物の体に移すことで生き永らえてきた。それももう少しで終わるのだ」
「えっと、ヘイテルジークって、あの物語になっているヘイテルジークですか? 私、ファンなんですけど」
キリエはおずおずと荷物から一冊の古い絵本を取り出した。
その表紙には、『ヘイテルジーク建国記』と大きな字で記されている。
「脚色はされているが、その通り。その本の主人公、ヴィンツェンツこそが我が皇帝だ」
「す、すごい! 伝説視されすぎて、正史がわからない帝国初期の人と出会えるなんて! 感激です!!」
興奮のあまり抱き上げようとするキリエの手を避けて、ノワールはロウァニカの膝に落ち着く。
「おい、キリエ。ノワールも中身は人間だからな。ところで、その『建国記』とやらはどういうものなんだ?」
ロウァニカは口許で笑いながらノワールの喉を撫でる。ノワールが微かにごろんと鳴いた。
「ロウァニカの方が猫扱いしてるじゃないですか! もう。『ヘイテルジーク建国記』は、過去に存在したヘイテルジーク帝国をモデルにした英雄譚です。私が持ってるのは子供向けの簡単なものですけど、小説になったり、詩人が詩にしたり、絵の題材にもされる有名な物語なんですよ。一番メジャーなのが、始皇帝ヴィンツェンツの建国から彼の死去までですね。やってることが派手で、文献が残っていない分、脚色しやすいんだと思います。もちろん、私が一番好きなのもヴィンツェンツです。ああ、でもディートリンデ様も……」
熱っぽく語るキリエが次に言葉を吐き出す前に、ロウァニカは問いを変えた。
「ああ、わかった。それにしても詳しいんだな」
「私、英雄とか旅物語とか大好きなんです! だから地理も勉強しましたし。こういうのなら負ける気がしませんよ!」
えへん、とキリエは顔を輝かせた。
ノワールがロウァニカの手から逃れ、軽やかに床に降りる。
「なら話は早い。キリエ、旧ヘイテルジーク領はわかるな」
「はい!」
「ならいい。目的地はそこだ」