黒猫は波乱をよぶ2
日がすこし傾きはじめた街の通りは、それでも活気があり、行き交う人々で少し窮屈なくらいだった。
その間を掻き分けつつ、キリエは見慣れない景色にキョロキョロと視線を泳がせていた。
つい後先考えずに宿を出てしまったが、興奮も冷めた今ではどうすればいいのかわからない。
宿に帰ろうかと思案するも、ロウァニカに合わせる顔がなかった。
ロウァニカに対して過剰反応してしまう自分に、キリエはほとほと困っていたのだ。
旅を始めて3ヶ月。大分お互いのことはわかり合ったつもりだっただけに、自分の行動はどんなに不自然だっただろう。
キリエはさっきのことを思い出すと、再び顔を赤く染めた。
なんだろう、このときめき。
胸がつまって、誉められるとすごく嬉しくて、いや会話しているだけで気持ちが舞い上がる。
すっかり自分の世界に入り込んでいたキリエは、なにかを踏んで見事にすっころんだ。
「きゃっ」
「ああっ」
ビリビリという紙の音と悲痛な声を聞きながら、キリエは思わず尻餅をついた。
トスン
「ったあ……」
幸いそこまで痛みを覚えず、安堵したのもつかの間。足にひっついた紙切れと、地面で無残な姿を晒す本を見つけて、キリエは血の気が引いた。
更に視線をゆっくり上げると、顔をしかめた翠の青年が、ベンチから半分腰を上げた状態でかたまっていた。
「す、すいません!」
飛び上がるように起き上がり、頭を深々と下げて謝る。
「すいません、すいません!」
ただただ謝罪を繰り返すキリエを見て青年はようやく立ち直ったのか、苦笑してベンチに座り直した。
「ああ、大丈夫。とりあえず顔を上げて」
そう言われて、キリエは恐る恐る顔を上げて青年の様子を伺った。
青みのある黒の髪と眼をした、それなりの美形……そこまで考えて、赤面した。
「すいません!」
堪えきれずにもう一度頭をさげると、青年は吹き出すように笑った。
「赤くなったり青くなったり、忙しいね」
落ちた本を拾い上げて、青年はベンチの横を叩いて言う。
「隣、良ければどうぞ」
「は、はい」
おとなしく頷き、キリエはできるだけ隅っこに座って、相手を伺った。
「あ、あの、本、大丈夫ですか?」
よくよく見れば、破ってしまったそれは分厚く、表紙は光沢のある群青の革でできていた。いかにも高そうな代物だ。
怯えるキリエをよそに、青年は明るい声色で本を開いた。
「んよく考えてみれば直せるものだったから」
ほら、と青年が敗れたページを優しくなぞってみせる。
すると、まるで何事もなかったかのように綺麗な文字が浮かび上がった。
「わぁ」
キリエは感嘆の声をあげる。完成された難解な文字群は、金色で綴られており、見ているだけで気分が高揚する魅力があった。
「すごい、えっと、まさかあなたは魔道師様?」
キラキラと尊敬の眼差しを向けると、青年はにこりと笑った。
「ほんの端くれだよ。僕はウェルナー。君は?」
「あ、わたしはキリエです」
よろしくと握手を交わす。
「僕、人、じゃない猫を探ししているんだけど、 黒い毛並みで眼は黄色のオス猫をみなかったかな」
猫?
キリエは首をかしげる。知りませんと口を開きかけて、あっと声を漏らした。
「みーちゃんとかいう黒い猫なら聞いたことあります。多分飼い猫ですけど」
「……それは今どこに?」
真剣な表情で詰め寄られ、キリエは緊張で固くなりながら答えた。
「町外れの山岳で行方不明になって……」
キリエがそこまで言うと、ウェルナーは立ち上がった。
「ありがとう! 助かったよ! ……そうだ」
肩にかけたショルダーバッグをなにやら漁ると、淡い若草色のリボンを取り出してキリエの手に握らせた。
「魔除けのお守り。持ち歩くかどこかに身につけておくといいよ。このごろは物騒だから、夜一人で出歩かないようにね」
じゃあまた縁があれば。
手をふって駆け出したウェルナーに、キリエはなにも言えず、ただリボンのない方の手を振り替えすだけだった。
しばらくして落ち着いたキリエは、渡されたリボンをじっと見つめる。
金糸で縁取りされた、それは、よく見ると本で見た文字に雰囲気が似ている。
金色には、なにか魔道的な意味でもあるのだろうか。しばし迷った末、左右対称に結ばれたリボンをほどこうとした。
その時だった。
「キリエ!」
ドスンと突き飛ばされ、キリエはベンチの背もたれにあわせてのけぞった。
肩を強く打ち付け、ジンジンとした痛みを感じ怒鳴る。
「ちょっとやめてくださっ」
「キリエ、怪我はないか?」
心底心配そうに覗きこんできたのはロウァニカだった。
予想外のことに唖然としつつキリエが頷くと、がばっと抱きつかれた。
「よかった、心配したんだぞ」
「え、なに?」
激しいスキンシップに、キリエは頭に血が上っていくのを感じていた。
ロウァニカは体をはなし、手を差し出した。
「いろいろあってな。ひとまず宿に帰ろう。話したいことがある」
そう言ったロウァニカの傍らで、黄色い眼の黒猫がにゃあと鳴いた。