黒猫は波乱をよぶ1
「ひゃっほう!」
ぼふんとロウァニカは、久しぶりの柔らかなベッドにダイブした。約5日ぶりのまともな寝床。宿のグレードでいうと、ベッドのスプリングの軋みと内装の綺麗さから、ちょっとリッチなお宿だと思われる。
「ううん。やっぱ宿はいいいなぁ」
「ちょっと、お布団が汚れちゃうから やめてくださいよ。スプリングが痛んだりでもしたらどうするんですか!」
枕に顔を埋めてごろごろしだしたロウァニカに、キリエが注意する。彼女も、初めてのまともな宿に戸惑っているのだろう。緊張が見てとれた。
「はいはい。でも運がよかったなぁ。もしジャンと出会ってなかったら、今日も野宿するはめになってたぜ」
「あー! その口調はやめてください!せっかく黙ってれば美人なのに」
うー、とふくれっつらをしたキリエを適当にたしなめて、ロウァニカは立ち上がった。
「どこへ?」
キリエはきょとんと見上げる。
「ちょっと街を見てくる。こっちの文化ってものが知りたいからな」
ああ、とキリエは納得したようにうなずいた。
「いつ帰れるかわからないし、知っておいたほうが良いですよね」
「そういうことだ。物分かりがいいな」
そう誉めると、キリエはあからさまに顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまう。
「どうした、顔が真っ赤だぞ」
「こ、子供あつかい、しないでください…」
引き絞るような声でキリエは言うと、そのまま席を立って部屋をでていってしまった。
「あ、おい!」
それを追って、ロウァニカも扉から顔を出して声をかけたが、キリエは振り返りもせず突き当たりを曲がり見えなくなってしまった。
「なんだかなぁ」
着いてきてもらいたかったのに。なにが不満だったのか、とロウァニカは一人ごちた。彼女にとって人間、特にキリエのような子供の心情は、なかなか理解しがたいものだった。
理由といえば単純に、ロウァニカはこことは違う世界の住人だからである。なにかの拍子に、この世界にやってきてしまい、そこでキリエに助けられたのだ。
彼女の世界には人間は存在しなかった。代わりに、それによく似た、ラダムという生き物がいて、日々領土を争っていた。
戦乱の世。強き民こそが唯一神たるラダの望みだと古くから伝えられてきたからか、心の余裕というものがなく、闘争に不要で細やかな感情の起伏は少なかった。(常に興奮状態だが)
文化の違いでここまで変わるものかと、やってきた当初は混乱したものだ。
ロウァニカ自身、あまり争いを好まない変わり者と呼ばれる部類だったが、人間には敵わない。ここでうまくやっていく手段を学ぶために、キリエを元の世界に帰る旅に同行させたことは今から思えば良い判断だっただろう。
しかし、そのキリエがどこかに行ってしまったからには、一人で探索するか部屋でおとなしくしているかのニ択だ。まさか見知らぬ第三者に同行を頼むわけにはいかない。
しばらく迷った末、好奇心が勝ってロウァニカはようやく、部屋から一歩踏み出した、その時だった。
「にゃあお」
(猫!)
バッと振り返った先、開け放たれた窓のところに、一匹の黒猫が座って、こちらを見ていた。
ただの猫。そう切り捨てるには、その猫の黄色い瞳はあまりに知性に満ちていた。
『ドアを閉めろ』
無言のなかでの命令にロウァニカは従い、改めて猫に向き直った。
猫はスッと優雅な動作で窓から飛び降り、ロウァニカに近寄ると鳴いた。
「突然の訪問で申し訳ない。あなたに頼みがあってここに来させてもらった」
喋りだした猫。しかしロウァニカは怯むことなく、しゃがむことで目線を合わせて問いかけた。
「あなたは何者?」
「失礼した。わたしはノワールという。今はこんな見かけをしているが、もとは人間だ」
その落ち着いた若い男性の声から、なかなかに育ちは良さそうだとロウァニカは推測する。
「俺はロウァニカ。で、何のようなんだ」
ロウァニカはノワールをじっと見つめる。ノワールも意を決したように鋭く視線を返した。
「あなたに、わたしを、わたしの首にあるこの『仮想の月』をある場所に送り届けてもらいたい」
「ある場所とは」
「それは引き受けていただいたあとにお教えする」
「では、『仮想の月』とは」
沈黙。ノワールはポツリと言った。
「強い力の籠った、異神の創造物……あなたを元の世界に帰せるであろう道具」
「お前っ?!」
ロウァニカは身構える。ノワールは声色を変えることなく言葉を続ける。
「そして、あなたは不死、またはそれに近い存在」
ロウァニカは更に体をかたくした。
「確かに。何故それを知っている?」
「わたしの師が言っていた。『異界より来る不死者が、お前を助ける』と。その師は随分昔に亡くなっているが、とうとうわたしはあなたを見つけることができた。わたしの問いに、あなたははいと答えたのだから」
ロウァニカは心の中で舌打ちした。こんな単純なハッタリに引っ掛かるなんて。相手が猫だと油断したか。
苦し紛れに、次の問いにうつる。
「わたしがその、お前を助ける者だとして、報酬はいくらだ」
「金を求めるならいくらでも。しかし、わたしはあなたに、『元の世界に帰る方法』を提供したい。『仮想の月』の力はある場所に行かなければ使えない。だからあなたに依頼したい」
元の世界に帰る方法。それは願ってもないことだ。しかし、ノワールの言うことを安易に信じていいのか。
ノワールが猫の姿をしている時点で、ただ事ではないことが伺える。そして、それほどの力を持つ『仮想の月』とやらを護衛するのが簡単なはずがない。それ相応の難があるからこそ、依頼してきているはずだ。
「連れと話をさせてくれ」
しばらく考えこみ、ロウァニカはそれだけ言った。するとノワールは切れ長の目を丸くする。
「連れ? まさか、一人ではないと?」
「ああ。っと!」
ひょいとロウァニカの足下に跳び、ノワールはズボンを甘噛みして、強く引っ張った。
「お連れさんが危険だ!奴等が狙うかもしれない!」
その声には、強い焦りが含まれていた……