プロローグ
「キャアアアア!」
幼い少女の悲鳴が、暗い谷の底に飲み込まれる。小さな腕にひしと抱き締められた黒い猫も、瞳孔を開ききってしまっていた。
「リンダ、見てはダメよ。早く中に入って!」
ほろの中から顔を出してしまった、娘の視界をおおいながらも、母親は恐怖する。
谷の底にうずくまる、闇とはまた別の黒い生き物の影を見て、気がおかしくなりそうだった。
「速く、もっと速く走るんだ、リオール!」
馬車をひく愛馬に主人は鞭を打ち、きりたった山道を駆ける。ただ、それだけで逃げ切れるとは到底思えはしなかった。
谷底にいるその生き物は、ぎらりと異様に光る瞳で馬車を捉えると、ついにそこから這い出してきた。
「グァギァシィィィィ!!」
形容できない飢えた唸り声と共に表れた、てらてらと黒光りする巨大なトカゲに、一家は死を覚悟した。その時。
「っらあああああ!」
鬼気せまった、人間の声。上から飛び降りてきた人影は、トカゲの頭に堂々と乗っかると、その目玉を突き刺した。
トカゲが暴れだす前に、並外れた跳躍力で宙へ跳び、ぱっくりと開けられた口に突っ込む。
「きゃああ!」
思わず、少女は母の腕のなかで目をつむった。
が、聞こえてきたのはトカゲの断末魔だった。
「シャアギャギィィィィ」
見事に舌をかっ切られたトカゲは、腕の力をなくしてそのまま谷底へと滑り落ちていった。
なにが起こったのか理解できなかった一家が呆然としていると、ぱたぱたと忙しない足音が聞こえてきた。
「大丈夫ですかー!」
黒いおさげをゆらして、三角模様のワンピースの少女が主人のもとに駆けつけた。
「き、君は?」
「わたしは旅の者で、キリエといいます。お怪我はありませんでしたか?」
主人がほろの方に注意を向けると、中から少し顔色が悪いが、外傷の見当たらない妻子の姿にほっと息をついた。
「ああ、そのようだ。助かったよ、本当にありがとう」
礼を言われたキリエは、首をふる。
「いいえ、お礼ならこっちのロウァニカに……」
言い終わるや否や、ヒュンと風が二人のそばを吹き抜けた。
「そんなことないって。見つけたのはキリエだろ」
そしてストンとキリエの隣に、軽装の女がどこからか現れ、そして主人に向かって手を差し出す。
「俺はロウァニカ。とにかく無事でよかったよ。」
主人はしぱし驚き反応が遅れたものの、すぐに気がついてその手を握り返した。
「ああ、本当にありがとう。わたしはジャン。そっちが妻のシェマと娘のイリアだ。ところで、君たちはどこを目指しているのかい」
握手を交わしながら、ジャンはロウァニカに尋ねる。
「ああ、特に決めてないけど、クアロッタで宿をとろうかと思ってる」
「それなら、うちの宿に泊まっていってくれ。せめてものお礼がしたい」
熱くロウァニカの手を握りしめるジャン。それに応えて、ロウァニカの方もぎゅっと彼の手を握った。
「それは助かる! 手持ちを切り詰めていたところなんだ」
それから二人は意気投合して、前の席に座る。戸惑っていたキリエもシェマに勧められ、おとなしくほろに乗り込んだ。
「よし、いくぞリオール!」
威勢のいい馬の鳴き声と共に馬車は走り出した。
ゴトン、ガタガタガタ。
「なんだかよくしてもらって、ありがとうございます」
ほろの中で、キリエはシェマに深々と頭を下げた。
「助けてもらったのは私たちのほうよ。そんなこと気にしなくてもいいわ」
上品に笑うシェマを前に、キリエは隠れて小さくため息をついた。
(まさか、お礼を狙って助けたとか、口が裂けないかぎり言えないなぁ)
「ねぇ、おねえちゃん」
遠い目をしていたキリエの服を、イリアがくいと引っ張った。
「おねえちゃん、みーちゃん知らない?」
「みーちゃん?」
キリエは首をかしげた。
「ああ、旅行の途中で拾った黒猫のことですよ。多分、さっきの騒ぎでどこかへ行っちゃったのね。谷に襲われていなかったらいいけれど」
シェマが少し心配そうに眉をひそめた。
「みーちゃん、まあるい黄色の目をしててね、まるでおつきさまみたいだったの」
「そう。どこいっちゃったんでしょうね、みーちゃん」
キリエはそう言うと、イリアの栗色の頭を優しく撫でた。
クアロッタまで、あともう少し。