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椅子

作者: 谷 風汰
掲載日:2026/06/03

 椅子が壊れた。

 俺は床に落っこちた。

 腰がへしゃげ、『おう!』という変な声が出た。

 

 壊れた椅子を見ると、足が二本折れていた。

 ちょうど真ん中からぽっきりと。

 折れ目はギザギザしていて、触ると手が切れてしまいそうだった。

 指から血が出て、第二関節からスパッと切断される。

 骨が飛び出る。

 断面に赤黒い肉が見える。

 垂れ下がった皮が風に揺られる。

 俺は落ちた指を眺め、それから手元を見て、また落ちた指を見て、それを繰り返した。

 痛みが出てきた。

 断面から、黄色い液体が溢れ出した。

 指先が痺れるように痛み、手のひらが痙攣し、全身から汗が吹き出し、口が乾燥し、体が凍りつく。

 

 「はああああぅ!!!」


 声が出た。

 乾いた喉は引き裂かれ、口の中に血の味が広がった。

 

 後ろに飛び退いた。

 ケツに激痛が走った。

 左手で触った。

 折れた脚が刺さっていた。

 尖った先が尾骨まで届いたように感じた。

 右手で引っこ抜くと、脚の先から血が滴った。

 床に垂れた斑点が、アリの行列のように見えた。


「どうしたの?」


 ドアの向こうから声がした。

 女性の悲しい声だった。

 曇りガラスのせいでぼんやりとした白い影しか見えない。


「誰だ?」


 聞き覚えがない。


「どうしたの?」

「知らない!!」

「可哀想⋯⋯」


 しくしくとすすり泣く声。

 

「消えろ!!」


 俺は折れた脚を投げつけた。

 尖った先端が指に触れ、皮膚が切れたが気にしなかった。

 脚はガラスにぶつかり、鋭い音を立てて落下した。


「今行くからね」


 慈愛の声が響く。


「消えろ!!」


 俺は必死に叫ぶ。


「今行くからね!」


 慈愛の声。


「消えろ!!」


 必死に叫ぶ。


「今行くからね!!!」

「消えろ!!!!」

「今行くからね!!!!!!」

「消えろ!!!!!!!!!!」

「今行くからあああああああああああああああ!!!!!!!」

「きえ」


 その瞬間、曇りガラスの向こうの影が、うねうねと動き出した。

 ひとりでに粘土が踊っているみたいだった。

 バクテリアのようにも見えた。


 しばらく蠢き、やがて止まった。

 そして、蝋のように床に溶けていった。


 誰もいなくなった。


 窓から、涼しげな風が吹いた。

 熱を帯びた体にひんやりと触れた。


 心臓の音だけが聴こえていた。

 緩やかになっていくリズム。

 音。

 

 体の熱が戻ってきた。

 唾液が口の中に充満してきた。

 指先の感覚も戻ってきた。


 俺は立ち上がった。

 行こう。

 ここから抜け出そう。


 歩き出した。


 冷たい何かが、肩に触れた。

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