婚約破棄された公爵令嬢が「どこにも行かず、ただ走らせて」と言ったので、辻馬車は夜の王都を走り続ける
公爵令嬢クラリス・レーヴェンハイトが婚約破棄された夜、王都には雨が降っていた。
王宮での夜会はまだ続いている。
けれど、クラリスは、もうそこにいることを許されなかった。
帰宅予定の時間よりもずっと早く、公爵家の迎えの馬車はまだ来ていなかった。
王宮の使用人に辻馬車を呼ばせるなど、公爵令嬢としては褒められた振る舞いではない。
それでも、今は体面よりも、王宮の灯りから少しでも早く遠ざかることのほうが大事だった。
クラリスが馬車に乗り込むと、黒い外套を着た御者の男が尋ねる。
「どちらまでですか?」
「レーヴェンハイト公爵家まで……」
クラリスの言葉が止まる。
帰って何を言うのか。
婚約破棄されました。
王太子殿下に、冷たい女だと断罪されました。
そんなことを父に報告するのか。
「いえ……どこにも行かなくていいわ」
「どこにも、ですか?」
「ええ。ただ、走らせて。止まらないで」
「……わかりました」
御者は黙って手綱を軽く鳴らした。
馬がゆっくりと歩き出す。
雨が馬車の幌を打つ音がする。
黙って乗っていたクラリスはすすり泣きを始めた。
御者は最初、何も言わなかったが、クラリスがずっと泣き続けていることに気づき、声をかけた。
「話したくなければ、話さなくて構いません」
「……」
「ですが、話して楽になる夜もあります」
クラリスはすすり泣きをしたまま、何も話をしなかった。
御者もそれ以上は何も言わなかった。
やがて、クラリスが少し落ち着いたようで、息を整えるように、大きく深呼吸をした。
「お名前は何と仰るのですか?」
クラリスが御者に尋ねた。
「……僕ですか? アルトと言います」
「そう、アルトさん……。自分の恥を晒すようで話したくなかったのですけれど……」
雨に濡れる窓を見ると、王宮の灯りはすでに遠くになっていた。
「どうせ明日には王都中に知られることだわ」
クラリスが大きくため息をつく。
「私はクラリス・レーヴェンハイトと言います」
「レーヴェンハイト公爵家……名家ですね。確かご令嬢は王太子の婚約者でしたよね」
「つい先ほどまではね」
アルトはそれ以上、尋ねなかった。
王宮の夜会。
ただ一人だけの早い帰宅。
公爵令嬢の涙。
そして、「つい先ほどまで」という言葉。
それだけで十分だった。
「私がその公爵令嬢で、つい先ほど王太子殿下に婚約を破棄されたのです」
「理由をお伺いしても?」
「……私、冷たいんですって」
「冷たい、というのは?」
「聖女候補……ミリア・フローレンスという方がいらして……とてもお優しい方で、王都の民の方々にも人気があるんです」
またクラリスがため息をつく。
「その方に比べて、私は民の方々と向き合わず、実務ばかり気にする冷たい女だと言われて……」
「実務、ですか」
クラリスは続ける。
「孤児院の毛布を、冬の前に百枚増やしました」
「炊き出しには、毎日パンが二百個届くように手配しました」
「薬草商との契約を見直して、施療院の薬代を下げました」
「戦死した兵士のご遺族へ、補償の費用を計算し、支給が遅れないよう予定を組みました」
「他にも、私にできる限りのことを……」
クラリスは自嘲するように小さく笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「私がすることは人を癒しもしなければ、励ますことでもない。ただ書類仕事をしているだけなんですって……。王太子妃に相応しいのは、私ではなく、ミリアのような女性だとはっきり言われたんです」
「炊き出しにパンを必要なだけ手配することが冷たい人のすることなのでしょうか?」
「え?」
「毛布が百枚あれば、百人が夜を越せます。薬代が下がれば、薬を受け取れる人が増える」
アルトは前を向いたまま言った。
「それは、本当に冷たいことでしょうか」
クラリスは答えられなかった。
「私は、誰かを救えるほど立派な人間ではありません。ただ、親のいない子供も、病に苦しむ人も、お腹を空かせている方も、夫を亡くされたご婦人も、明日を諦めずに済むようにしたかったのです」
「では、なぜそれが冷たいと?」
「私はミリア様のように、民の手を取って一緒に涙を流すことはできませんでした。
私は、哀れな民を見て泣くより、明日のパンや毛布や薬が途切れないようにしたかったのです」
クラリスの声が少し震える。
「けれど、王太子殿下にとって、大切なのは『心』なんですって。そう言われてしまったら……正直に言うと、私は王太子殿下を愛していなかったわ。心がない、というのはそのとおりかもしれない。婚約破棄されて当然ね」
声の震えが止まる。クラリスは少し落ち着いたようだった。
「聞いてくださってありがとう。少しすっきりしたわ」
「ではお帰りになりますか?」
「……いえ、もう少しだけ走ってくださる?」
「かしこまりました」
馬車はまた、雨の王都を進んだ。
しばらくして、クラリスは窓の外を見て眉をひそめる。
濡れた街灯。
閉じたパン屋。
薬草の絵が描かれた看板。
見覚えがあった。
「アルトさん。この道、先ほども通らなかったかしら」
「三度目です」
「三度?」
「はい」
「……迷っているの?」
「迷っているのは、馬車ではありません」
アルトは手綱を握ったまま、静かに言った。
「あなたは迷っていらっしゃるようだ」
「私が?」
クラリスが少し驚いたように言った。
「この馬車には、少し変わった力があるのです」
「どういうことですか?」
「探しものの馬車というものを、ご存じですか?」
「……いえ」
「ときおり、クラリス様のように、行き先をお持ちでないお客様がこの馬車に乗られます。そういった方の本当の探しもののある場所へ連れていってくれる馬車のことです」
「この馬車が、その馬車なのですか?」
「はい」
アルトが言葉を続ける。
「この馬車が同じ道を巡っているということは、クラリス様ご自身が、まだ何を探しているのか分かっていないのでしょう」
「……私は何を探しているのでしょう」
「それを探すために、走っているのかもしれません」
馬車は夜の王都を走り続ける。
やがてまたクラリスが口を開く。
「あなたも、何か探しているものがあるの?」
アルトは少しの間、沈黙した。
「不思議なもので、この馬車は、御者の僕の探しものは見つけてくれないのです」
「何を探していらっしゃるの?」
「……婚約者です」
クラリスは息を呑んだ。
「十年前、僕にも婚約者がおりました。リディア・エーヴェルトという女性です」
アルトの声は、雨音に消え入りそうなほど静かだった。
「その頃の僕は、アルト・ヴェルナーという名の、侯爵家の令息でした」
「ヴェルナー侯爵家……。確か……」
クラリスが言い淀む。
「はい、もうありません。父は王宮の不正を調べていたのですが、逆に横領の罪を着せられました。家は潰れ、僕も貴族ではなくなりました」
「そんな……」
「婚約者のリディアは、侯爵家の容疑を晴らすため、王宮へ向かいました。証拠を持って戻る、と言って」
アルトは濡れた夜道を見つめた。
「それきりです」
雨が、幌を打っていた。
「僕はそれから、辻馬車の御者になりました。王都中を走っていれば、いつか彼女に辿り着けるのではないかと思って」
「十年も?」
「ええ」
「それでも、まだ探しているのですか?」
「はい。探している間だけは、まだ終わっていない気がするのです」
その言葉は、雨の音とともに、クラリスの胸の奥へ落ちた。
自分もそうだったのだ。
王宮を追い出されたあと、アルトにどこにも行きたくないと言い、止まらないでほしいと願った。
止まれば、終わってしまう気がしたからだ。
王太子妃になるはずだった自分も。
王太子妃になるため努力してきた自分も。
民のために積み上げてきたものも。
手配や支払いのことばかり気にする冷たい女だったと決まってしまう気がしたからだ。
「私も……終わらせたくなかったのかもしれません」
クラリスは、雨に濡れた窓の向こうに、夜の王都を見た。
「王太子殿下の愛を探していたわけではありません。婚約者の地位を取り戻したかったわけでもない。公爵家へ帰りたかったわけでもない」
雨に滲む街灯が、遠くに揺れていた。
「私は……私の心が、どこにあるのか知りたかったのかもしれません」
その瞬間、車輪の音が変わった。
アルトは手綱を強く引いていない。
ただ、握り直しただけだった。
それなのに馬は、初めて行き先を知ったかのように、雨の王都を駆け出した。
※
馬車は王都の中心から外れた古い橋の上で止まった。
「ここは……?」
クラリスは窓の外を見た。
眼下に、小さな火が灯っていた。
夜の炊き出しだった。
大鍋から、白い湯気が上がっている。
木椀を並べる子供がいた。
パンの入った籠を運ぶ少年がいた。
両手で椀を包み、火のそばで肩を寄せる人々がいた。
雨を避けるための小さな庇が、橋脚の間に張られていた。
クラリスは息を止めた。
あれは、自分がつけさせた庇だ。
あのパンは、自分が手配した二百個のうちの一つだ。
あの鍋の火は、冬を越すために準備しておいた薪で燃えている。
誰も、クラリスの顔を知らない。
誰も、彼女に頭を下げない。
誰も、感謝の言葉を口にしない。
それでも、そこにあった。
クラリスが紙の上で整えてきたものは、温かいスープになり、パンになり、雨を避ける庇になり、暖を取るための火になった。
「……あったのね」
「何がですか?」
アルトが静かに尋ねる。
「私の心」
クラリスは、窓の向こうの火を見つめた。
「こんなところに、あったのね」
アルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、雨音に紛れるほど静かに言う。
「少なくとも、あの鍋の火は、クラリス様を冷たいとは思っていないでしょう」
クラリスは答えなかった。
代わりに、静かに涙が頬を伝った。
「降りますか?」
「……いえ、結構です」
降りて、自分がパンや薪を手配したのだと告げれば感謝されるかもしれない。
けれど、自分は感謝されたくてやったのではない。
誰かに認められたいわけでもない。
ただ、自分の心が、この人々とともにあるのだと分かっただけで十分だった。
「もう少し、この馬車の中にいたいわ」
「かしこまりました」
アルトは手綱を軽く鳴らした。
馬車は再びゆっくりと動き出す。
橋の下の火が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
それでもクラリスは、じっとその火に目を凝らしていた。
「アルトさん」
「はい」
「私、明日から何をすればいいのか、まだ分からないわ」
「そうですか」
「公爵家へ戻るべきなのか、王宮に抗議すべきなのか、それとも、すべてを忘れてしまうべきなのか」
「……」
「でも……少なくとも、あの火を消してはいけないと思うの」
アルトは、わずかに微笑んだようだった。
「それが、クラリス様がたどり着いたところなのですね」
クラリスは、濡れた窓に映る自分の顔を見た。
泣き腫らした目。
乱れた髪。
夜会用のドレス。
王太子妃にふさわしくないと断罪された、公爵令嬢がそこに映っていた。
けれど、その女性は決して惨めではなかった。
「ねえ、アルトさん」
「はい」
「もう少しだけ、走ってくださる?」
「どちらまで?」
クラリスは少し考えた。
今なら、公爵家へ帰れるかもしれない。
それでも、まだ少しだけ夜の中にいたかった。
「どこにも」
そう言ってから、クラリスは小さく笑った。
「でも、さっきとは違うわ」
「はい」
「今は、逃げているのではないもの」
アルトは何も言わず、ただ手綱を握った。
雨はすでに上がっていた。
馬車は雨上がりの王都を走る。
橋の下の火は遠ざかった。
それでも、クラリスの胸の中には、まだその火の灯りが残っていた。
そしてその翌日、王宮は知ることになる。
自分たちが「冷たい」と切り捨てたものが、王都を動かしていたのだと。
※
数日後、王都は晴れ上がっていた。
その夜、クラリスは再び辻馬車に乗った。
今回は夜会服ではなく、簡素な外套を羽織り、書類の束を手にしていた。
「こんばんは、クラリス様」
「こんばんは、アルトさん」
御者は普段どおりに尋ねる。
「どちらまでですか?」
クラリスは少しだけ考え、静かに答える。
「どこにも行かなくていいわ」
アルトが、わずかに目を細めた。
「また、ですか?」
「ええ。でも今夜は、逃げるためではないの」
「かしこまりました」
アルトは手綱を軽く鳴らした。
馬車は、雨のない夜の王都を静かに走り出す。
数日前と同じ馬車だった。
同じ御者で、同じ夜の王都だった。
ただ、雨は降っておらず、クラリスの胸にあるものも、あの夜とは違っていた。
「王宮は、落ち着きましたか?」
アルトが前を向いたまま尋ねた。
クラリスは膝の上の書類に視線を落とす。
「ええ。落ち着くまでに、ずいぶん騒がしかったようだけれど」
「騒がしかった……?」
「私が王宮を出た翌日、橋の下の炊き出しに届くはずのパンが、危うく止まりかけたそうよ」
アルトは何も言わなかった。
「支払いの確認が済んでいなかったの。十日ごとに支払うよう手配していたのだけれど、誰も承認をしなかったようで……。承認印がどこにあるかも誰も知らなかったのよ」
「それは、困りましたね」
「ええ。パン屋の方が前日に仕込みを済ませてくださっていたから、ひとまず届けてくれたそうよ。でも次はない、と言われたそうで」
クラリスは書類の一枚を指でなぞった。
「孤児院の毛布も、配布日に間に合わない。施療院の薬草商からの問い合わせにも答えられなかったようで……」
「……たった一日で、そんなことに?」
「一日で、というより」
クラリスは窓の外へ視線を向ける。
「一日も止まらないように、私が整えていたのよ」
その言葉に、アルトは静かに頷いた。
「聖女候補の方は?」
「ミリア様は、民の前で涙を流されたそうよ」
「涙を」
「ええ。『皆さん、おつらいでしょう。私も胸が痛みます』と」
クラリスの声には、怒りではなく、疲れがあった。
「けれど、鍋は涙では満たされない。火は涙では燃えない。パンは涙では届かない」
馬車は王都を走り続ける。
「それから、少し困ったことも分かったの」
「困ったこと?」
「ミリア様は、孤児院へ配るはずだった毛布を、ご自分の慰問の日まで倉庫に置かせていたそうなの」
「なぜです?」
「その日に手渡した方が、民が喜ぶから、と」
アルトの手綱を握る指が、ほんの少しだけ止まった。
「その間、子どもたちは寒さに耐えなければなりませんね」
「ええ」
クラリスは小さく息を吐く。
「ミリア様は、きっと本当に民を慰めて、喜ばせたかったのだと思う。でも、慰めを待つ間にも、夜は来るのよ」
しばらく二人は沈黙した。
「王太子殿下は?」
「私を呼び戻そうとなさったわ」
クラリスの声は、もう震えていなかった。
「戻れば、昨夜の件は水に流してやる、と」
「それで?」
「お断りしたわ」
クラリスは窓の向こうに流れる街灯を見た。
「流せるほど軽い罪なら、なぜ私は王宮を追い出されたのでしょう、と申し上げたの」
アルトが、ほんの少しだけ笑った。
「それは、よい返事ですね」
「ええ。少しだけ、胸がすっとしたわ」
クラリスは、膝の上の書類を一枚持ち上げた。
「国王陛下は、王太子殿下をしばらく政務から外されたそうよ」
「そうですか」
「理由は、婚約者選びを誤ったからではなくて、王都の暮らしを支えていた仕組みを、感情ひとつで断ち切りかけたから」
クラリスの声に、勝ち誇った響きはなかった。
「そして王太子殿下は当面、救済事業の補佐を命じられたわ」
「補佐、ですか」
「ええ。決裁権は、私に預けられたまま」
アルトは前を向いたまま、静かな声で言った。
「大変なお役目です」
「そうね」
クラリスは、少しだけ口元を緩めた。
「王太子殿下は今、毎日パンの数を数えていらっしゃるそうよ」
「それは、大切なお仕事です」
「ええ。二百個のパンを、ただの二百という数字だと思わなくなるまで、少し時間がかかるでしょうけれど」
二人の間に、静かな笑みがこぼれた。
それは、決して誰かを嘲るための笑みではなく、寒い王都の夜を、小さく温める笑みだった。
「クラリス様は、王宮へお戻りになるのですか?」
アルトが尋ねた。
クラリスは、すぐには答えなかった。
王宮へ戻る道はある。
名誉は回復した。
公爵家からも、戻るように言われた。
国王からは、王都救済事業の正式な監督役として力を貸してほしいと言われている。
けれど、あの夜の橋の下の火を見てから、クラリスの中で何かが変わっていた。
「私は、戻る場所を探していたのではないみたい」
クラリスは呟いた。
「では、何を?」
「行く場所を探していたの」
クラリスは馬車の窓の外を見た。
そこには、王宮の窓からは見えない、小さな路地と、低い屋根と、夜風に肩をすくめる人々の暮らしがあった。
「私は、王太子妃候補には戻らないわ」
「はい」
「でも、王都救済事業には携わっていたい。橋の下の炊き出しも、孤児院も、施療院も、戦災遺族の共同住宅も、自分の足で見て回りたいの」
クラリスは、手元の書類を見る。
「これまでは、書類の向こうに人がいると信じていた。でもこれからは、その人たちの顔も見たいの」
「それは、よい行き先ですね」
「ええ」
クラリスは少し笑った。
「ようやく、そう思えるようになったわ」
馬車は橋の上にたどり着いた。
橋の下では、今夜も火が灯っている。
クラリスは馬車の窓越しにそれを見つめた。
今夜は、涙は出なかった。
「アルトさん」
「はい」
「あなたの探しものは、まだ見つからないの?」
アルトは少しの間、沈黙した。
「まだです」
「そう」
クラリスは橋の下の火を見た。
「見つからないものを探し続けるのは、無駄なのかしら」
アルトは、手綱を握ったまましばらく考えた。
「無駄かもしれません」
クラリスは彼を見る。
「ですが、無駄なものがなければ、人は夜を越せないこともあります」
アルトがそこで少し言葉を止め、再び口を開く。
「私も、この十年、リディアを見つけられませんでした」
アルトは、橋の向こうを見ていた。
「けれど、誰かを乗せて走っている間だけは、彼女を失ったあの夜から、少しだけ進めている気がするのです」
クラリスは、その横顔を見つめた。
「……クラリス様をお乗せして、少しだけ分かりました」
「何が?」
「僕は、リディアを失ったあの夜に戻りたかったのではなく、あの夜の先へ進みたかったのかもしれません」
彼はまだ、探しものを見つけられてはいない。
けれど、完全に止まっているわけでもない。
「それでも……いつか、見つかるといいわね」
「ええ」
アルトは微かに、少し寂しそうに笑った。
「あるいは、見つからないまま、別の何かに辿り着くのかもしれません」
馬車は橋の上からゆっくりと動き出す。
橋の下の火が、窓の端へ流れていく。
「今夜は、どちらまで行きましょうか?」
アルトが尋ねた。
クラリスは少し考えた。
公爵家へ帰ることもできる。
炊き出しの場へ降りることもできる。
王宮へ戻り、書類を片づけることもできる。
けれど今夜は、もう少しだけ走っていたかった。
逃げるためではない。
迷うためでもない。
自分の行き先を、自分で選ぶために。
「決まったところはないの」
クラリスは小さく笑みを浮かべた。
「でも、少し遠回りしてくださる?」
アルトは手綱を軽く鳴らした。
「かしこまりました」
馬車は夜の王都を走り続ける。
失くしたものは、戻らないかもしれない。
それでも、探し続ける道の上で、灯りを見つけることがある。
夜の辻馬車は、今夜も王都を走る。
行き先を失った誰かが、もう一度、自分の行きたい場所を見つけるまで。
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