事件を起こす──起きない
王都外れの、使われなくなった小さな礼拝堂。
夕暮れの光が、割れたステンドグラスの隙間から差し込み、床に色の影を落としていた。
「……呼び出しに応じてくださって、ありがとうございます」
神父はそう言って、深く頭を下げた。
その前に立つのは、エリアル・ライトリング・アーチボルト。
護衛の姿は見えない。たった一人で現れた王子は、穏やかな笑みすら浮かべていた。
「ううん、問題ないよ」
軽い調子でエリアルが言う。
「神父さまから、どうしても僕に話したいことがあるって聞いたら、来ないわけないよ」
「……ええ」
神父は一歩、近づいた。
胸の奥で、鼓動が速くなる。
(ここだ)
娘の未来のため。
聖女のため。
国のため。
神に与えられた正義を、遂行する時。
神父は、懐から例のペンダントを取り出した。
淡い光が灯る。
空気が、歪む。
幻影の魔術が発動する──はずだった。
だが。
「……?」
何も、起きない。
魔力は確かに流れている。
呪式も、間違っていない。
対象も、目の前にいる。
それなのに。
「……なぜ」
神父の声が、わずかに掠れた、その瞬間だった。
床を蹴る音のあとに扉が勢いよく開くと、「確保!!」と叫んだ近衛兵が四方から飛び出し、神父に一斉に取り押さえにかかる。
「な、な……っ!?」
床に押し伏せられ、腕をねじ上げられながら、神父は叫んだ。
「なぜだ……!! なぜ、かからない……!!」
その問いに、エリアルは首を傾げた。
困ったように。でも、その表情はどこか楽しげだった。
「んー……」
一歩、近づく。
「もう、遅かったんじゃないかな」
紫の瞳が、静かに細まる。
「だってさ」
神父の耳元で、囁くように。
「僕の“意思”って──もう、とっくに」
少し間を置いて、こう続けた。
「あるひとに、奪われてるから?」
神父の目が、見開かれる。
「……なに、を……」
「操るなら、空いてる場所を狙わないと」
エリアルは笑った。胸の上を、大きく開いた手で撫でながら。
「僕の中はね、もうぎゅうぎゅうなんだよ」
白い手袋の指先だけが神父の視界に残る。
近衛兵が、拘束を強めた。
「王子に対する不敬罪、並びに王権侵害の疑いで身柄を預かる」
その声を、神父はほとんど聞いていなかった。
頭の中で、ただ一つの名前だけが、反響していた。
──シルティア。
連行されていく背中に、エリアルは手を振った。
「呼んでくれてありがとう」
心底、楽しそうに。
「でもね」
扉が閉まる直前、最後に呟いた目は笑ってはいなかった。
「彼女のことに関しては──僕、最初から、誰にも渡す気なかったんだ」
礼拝堂に残ったのは、静けさだけだった。




