聖女の父
その日の王城の回廊は静かだった。
厚い石壁が外の音を遮り、足音だけが淡く響く。
シルティアが角を曲がった、その先に見慣れない男とクレアの姿があった。黒い外套に白の細線が入った袖と裾。背に、聖印の刺繍。質素な聖職者の衣だ。
思わず立ち止まる。
「……あ」
先に気づいたのはクレアだった。
「シルティア様」
呼ばれる。と同時に、彼女の隣の男も振り向いた。
歳は四、五十くらいだろうか。ところどころ灰色混じりの黒髪に、穏やかな笑い皺の入った目と口元。
「こちら……私の父です」
少しだけ緊張を含んだ声で、クレアが彼の方に掌を向ける。
(ああ、先日のお話の)
シルティアは一歩進み、静かに一礼した。
「初めまして。
シルティア・フォン・ルネライトと申します」
神父は、ゆっくりと目を細めた。目元の皺が深まる。
「これはご丁寧に……殿下のご婚約者の方ですな」
低く、はっきりとして聞こえるのに落ち着いた声だった。教会で教えを説き慣れている者の抑揚だ。
穏やかな口調には、探る様子も敵意も感じられない。
「はい」
短く答えると、神父は小さく頷いた。
「……本当は、この子を連れて帰りたかったのですが」
何気ない調子で言う。
「今はまだ難しい、と。そうお話を伺いました」
「ええ」
シルティアは静かに応じた。
「安全が確認できるまでは、王城でお預かりすることになっております。クレア様にまた敵方が接触しないとも限りませんので」
クレアが、申し訳なさそうに神父を見上げる。
「ごめんなさい、お父様」
「いいんだ」
神父はすぐに首を振った。
「顔が見られただけで十分だ。……元気そうで安心したよ」
少し寂しそうに、しかし、安堵を含んだその声色は、なんら普通の父親と変わらなかった。
クレアの肩に、とん、と軽く手を乗せてから、シルティアへと視線を戻す。
「この子は、小さな頃から素直な子でしてな。教会でも、いつも皆のために祈る子でした」
少し誇らしげに言う。
「聖女の力が現れた時も、驚きはしましたが……やはり、神のお導きだったのだろうと、腑に落ちたくらいでね」
迷いのない言葉だった。クレアも神父の横顔を見上げて嬉しげに頷く。
「はい。父は、ずっとそう言ってくれていました。私のことも大変な誇りだと。……今思うと、少し、大袈裟でしたけど」
「いや、大袈裟などではない」
神父はそこだけ少し強く首を振った。
「聖女は、この国にとって特別な存在です。王国の始まりから、女神の加護を現世に繋ぐ役目を担ってきた」
自然な流れで続ける。
「だからこそ、聖女が王家と婚姻関係を結ぶのが法でもあるのです。聖女が国を守り、国が聖女を守る。それくらい信仰の対象でもある」
教義を述べるような調子だった。
しかし、そこでクレアがくすっと笑う。
「はい。ですが……シルティア様は私よりもずっと素敵な方です。シルティア様が殿下と愛し合っておられるのなら私は身を引く気でいます、お父様」
神父はそれを聞くと、「そうか」と、ただ穏やかに目を細めた。
「愛は何よりも大切な芯だ。たしかに、それを無くしてはいけない」
「ただ、聖女が正しく国に迎えられることは、それ自体が、世界への祝福になる。うまく落とし所を見つけなくてはね」
その言葉のやり取りを、シルティアはそのまま胸に落とさずに聞いていた。それから、ただ一度、呼吸を置いた。
「ご心配なされませんよう。殿下は、誰に対しても誠実なお方ですわ」
それ以上でも、それ以下でもない返し。
神父は、その言葉をゆっくり噛みしめるようにしてから、頷いた。
「今日は、ありがとうございました」
丁寧に礼をして、クレアに向き直る。
「無理をするな」
「はい、お父様」
親子のやり取りに、シルティアは一礼した。
「どうかご安心ください。クレア様は、責任をもってお預かりしております」
「ええ。
……殿下にも、よろしくお伝えください」
神父はそう言い残し、廊下の向こうへ、控えていた城の兵士と歩いて行った。
⸻
その背中を見送ってから、シルティアはクレアに一礼する。彼女はそのまま背後の扉から部屋の中へと戻った。
部屋の前の兵士のほか、誰もいなくなった廊下が静まり返る。
(悪意は、ありませんでした)
おそらく挑発でもなかった。
ただ、あれをこの場で口にすること、それ自体が。
「……はぁ」
シルティアは一息だけのため息を溢す。
ぎしり、とそばの兵士が鎧を鳴らした。




