学園での思い出と、今
その言葉は、学園にいた頃から、何度も向けられてきた。
『シルティア様、お願いです。どうかもうエリアル様を自由にしてあげてください』
思い出すたび、胸の奥に小さな棘が刺すそれを、シルティアは静かに仕舞ってきた。
あれは、学園の回廊だった。
「シルティア様!」
背後から駆け寄ってくる足音に、シルティアはわずかに足を止めた。
制服のスカートの裾を蹴り上げるように走ってくる、セミロングの桜色の髪。
振り返った先にいたのは、クレア・ハートだった。
「……クレア様」
ほんの少し目を丸くしてから、シルティアはすぐに表情を整えた。
「淑女が校内を走るのは、いかがなものでしょうか」
落ち着いた声音でそう注意すると、クレアは一瞬だけ気まずそうに目を伏せたが、すぐに首を振り、真剣な顔で言葉を重ねてくる。
「そんなことより……シルティア様、また、エリアル様のところに行かれていたんですね?」
「……ええ」
体の向きを変え、静かに肯定すると、クレアは唇を噛みしめた。
「昨日、あれだけお伝えしましたのに……エリアル様は、ご迷惑に思っておられると」
その声音には、煽るような調子も嘲るような態度も混ざっていない。ただ純粋な悲しみだけが乗っていた。
「いったい、どうしてなんですか……?」
「はあ……」
思わず、息が漏れる。
「どうして、と言われましても……」
そう口にしたところで、クレアは遮るように言葉を続けた。
「いえ、わからないわけじゃないんです。シルティア様にとっては、認められない話ですよね」
一拍、置いて。
「……私なんかに言われて、聞く気になれないのも、当然だと思います」
そう言いながら、彼女は両手を祈るように組み、まっすぐこちらを見つめてくる。
「でも……休憩時間のたびに、生徒会室やラウンジでご一緒されている今のままだと……同じ生徒会の一員である私も、まともに仕事ができませんし……」
声が、少しだけ震えていた。
「なにより、エリアル様が……その……ス、ストレスに感じておられるんです」
一応、言葉を選ぼうとした様子はあったが、結局、選びきれてないまま、そんな風に言う。
「だから、勇気を出して……お伝えしたんです、私」
その空色の瞳に、邪心はなかった。
本気で、“エリアルのために代わりに発言している”と思っている顔だった。
──だからこそ、厄介だ。
(これは……説明したところで聞き入れられないでしょうね)
シルティアは眉をひそめ、ゆっくりと息を吸った。
「……あなたが、何かを誤解されているのは理解いたしました」
静かに、粛々と。
「ですが、わたくしがあなたの忠告を、わざわざ受け止める理由はございません」
それだけ告げると、え、という表情をするクレアから顔を背け、踵を返す。
「……もし、何か仰りたいのでしたら。
せめて礼儀を身につけてから、改めてお越しくださいませ」
しかし、背を向けて一歩、彼女から離れたその瞬間。
「そんな、シルティア様──!」
縋るような声が、背にかかった。
「お願いです……どうかもう、エリアル様を、自由にしてあげて……!」
それは、あまりにも──物語のヒロインさながらといった言葉だった。
それからも、何度も、何度も。
『殿下は、あなたを愛していません』
『あなたと一緒にいると、息が詰まるんだそうです』
繰り返し、繰り返し、シルティアは善意のその言葉を聞き続けた。そしてあの日。
『本当は……私の方を──』
その続きを言われる前に、乾いた音が、学園の回廊に響いた。
掌がじんじんとする。自分の手が、相手の頬に触れていたことを、シルティアは遅れて理解した。
「……っ」
頬を押さえ、目を見開いたクレアの瞳に、唖然とした表情の自分が映っているのを見た。
クレアは震える唇で何か言おうとして──けれど、結局、声を出さずに視線だけを落とした。
(……しまった)
シルティアが思ったのは、それだけだった。
次の瞬間には、周囲の視線が突き刺さっていた。
⸻
それで、何かが新しく始まったわけではない。
学園の空気は、もともと、そうだった。
王子の婚約者は冷たく、聖女の少女は守られるべき存在だと。いつのまにか、真実のように語られていた話があった。
だから、あの出来事は──噂を生んだのではなく、噂を「確定させただけ」だった。
同級生たちは、それまでと同じように、ひそひそと囁いた。
「やっぱり、シルティア様ってエリアル殿下にベッタリで、他の女に厳しいのね……」
「嫉妬深いのかな……殿下も大変だなあ。本当は聖女こそお相手になるべきなのに」
「ちょっと怖くない? この間まで殿下に懐いてた子も、シルティア様に呼び出されてから、もう目すら合わせてないって……」
ベッタリの真実は、エリアルが、シルティアから離れたくない、とそばに呼んでいるだけだ。
他生徒を呼び出したのは、エリアルがシルティア以外の女性に近づかれるのを嫌うため。
学園や外では“優しい王子”の猫を被っているエリアルだが、ストレスが溜まれば、苛立ちを彼女たちにぶつけるかもしれない。そういうのを回避するための、シルティアの事前の配慮で、言い方も「貞淑に」と軽く注意しただけ。
──しかし、噂は、話す子たちに好きな顔をする。
シルティアも、否定しなかった。
(ちょうどいいわ)
胸の内で、そう結論づけた。
(殿下の評判さえ、保たれていれば)
──それでも。
手を出したのは、紛れもない失態だったことも自覚していた。
「……いけませんわね」
小さく息を吐き、シルティアは歩き続けた。
そして現在。王城の一角。クレアが仮保護されている部屋の前で、シルティアは足を止めた。
(……混乱しているでしょうけれど)
それでも。向き合わなければならない。
後から思えば、あれは彼女の自意識が過剰だったから起きた無礼──では決してなかった。
この国において“聖女”は、祈りによって、結界を張り、人を癒す特殊な力を持つ女性のことだった。
初代の王が、“はじめの聖女”とともに建国したという伝説以降、数年〜数十年おきに現れては、国に起きる災を退けてきた歴史があり、また法律も、聖女の保護を最優先にしている。
(そして、クレア様は今世で久しぶりに現れた“聖女”。彼女自身が肥大したのではなく、周囲が彼女を特別視する土壌の上に、裏では偽王子に接近されていた)
──となれば、クレアの中では、あの言葉たちは彼女が受け取った“正しい事実”だったのだろう。
決して「非がない」とはいわない。しかし、また、許されない邪悪でもない。
ノックをすると、控えめな声が返る。
「……どうぞ」
部屋に入ると、クレアは椅子に座っていた。
目元は腫れているが、取り乱してはいない。あの卒業パーティーが終わってから数日。もう事情も真実も十分に聞かされていた。
「失礼いたしますわ、クレア様」
「……シルティア、様」
一瞬、身構え──すぐに、それは消える。
「…….来てくださって、ありがとうございます」
「体調はいかがですか」
「……大丈夫です。まだ少し、混乱はしていますけれど……」
視線が揺れ、そして、躊躇うように口が開閉したあと、ゆっくりと言葉が続いた。
「……殿下は、私を愛していたわけじゃないんですよね」
シルティアはほんの少し肩を落とした。
「それをわたくしに聞くのですか」
ほんの少し呆れて返しても許される気がした。
「っ……すみません」
クレアが眉間をぎゅっと寄せる。
「……浅はかでした。今はもう、わかっています」
「……」
「殿下のことも、シルティア様が、悪い人じゃなかったことも」
沈黙。
その中で、シルティアは、まっすぐにクレアを見た。
「……学園でのこと、謝罪いたします」
静かな声で。
「どのような理由があっても、手を出すべきではありませんでした。ごめんなさい」
クレアが顔を上げ、ゆっくりと首を振った。
「……いいえ。失礼を重ねたのは私です。こちらこそ申し訳ありませんでした」
そして、ぽつりと。
「……今思うと、あの時の私は、誰かの言葉を、自分の願いだと思い込んでいただけでした」
それを聞いて、シルティアは、ほんのわずかに目を伏せた。
「……ええ」
それだけ答えた。
まだ、すべてが解決したわけではない。
しかし、誤解のまま、終わる関係でもなくなった。




