祈り
人の死は、いつ決まるのだろう。医学的に死亡と認められた時だろうか。葬式が済み、骨になり、骨壺に収められた時だろうか。それとも、誰からも忘れられてしまった時だろうか。もしも、誰からも忘れられた時であり、仮に私しか父のことを覚えていないとしたら、私が死んだ時に父もまた再び死ぬのだろうか。
そんなことを一日の終わり、夕暮れ時に流れ去って行く電車を見ると考える。電車の行き先、線路の先は、父の家の方角に繋がっている。そのせいか、思考が誘われる。そして最近、気が付いたことがある。小さい頃、実家の最寄り駅で、私は父の帰りを待っていたことを。駅の改札口付近、鈍い銀色の柵の外側で。かんかんという踏切の音と点滅する赤い光が始まるたび、次の電車に父は乗っているだろうかという期待を持って私はそこにいた。どうして今もその光景が繰り返し思い出されるのか。
――おそらく私は父が死んだという現実を認めたくない、あるいは、未だ認められていないという事実があるのだろう。
父が死んだ連絡を受けたのは、夕方、明かりの点けられていない実家の冷えた廊下でのことだった。交流を失って久しい父の姉に当たる人物が、私へ携帯電話越しにそれを伝えた。室内同様、心情が明かりを失って行く様を私は今もありありと覚えている。その感覚を忘れることはないだろう。
父の葬式へは一人で行った。私は、ただ一人でその場に向かいたかったのだ。父のことだけを考えて。
――父は癌で市内の病院に入院していたが、やがて県外の癌専門の病院へと移った。おかしな話だが、私は今も父の病について詳しくを知らないままだ。父が癌だということも母から聞いて知ったことだ。父とは入院前に何度か会っていたし、見舞いも行ったが、父は自分が癌だということを私に言わなかった。胃や肝臓の調子が悪いとは聞いていた。もしかしたら父本人も癌だということは入院後に知ったのかもしれない。しかし、転院の時点で、父がそれを知らなかったというのは考えづらい。何故、父は私に告げなかったのだろう。父は「そのうちに良くなる」と言っていたし、治ったら私と一緒に住みたいと言ってくれた。だから私はその言葉を信じた。転院先が癌専門の病院だということも私は知らず、どこに一緒に住もうかということを真剣に考えていた。
父が転院してから一度、私は手紙を出した。元気かどうかということ、退院後はどこに住もうかということなどを書き、返信用の切手を入れた。けれど、その一週間程後に私は父が死んだという知らせを受けた。そして、それを母に話した。そこで初めて私は父の病名、転院先の詳細を知ったのだ。
父と母が離婚してから、私は何とか母から父の携帯電話の番号を聞き出し、母には隠して父に会っていた。私は自転車で父の家に行き、私の好きなお菓子を一緒に食べたり、父の好きな洋楽を一緒に聴いたり、近くの和食屋で一緒に夕食を食べたりした。父の日には、飛行機をかたどった真鍮製の鉛筆削りや、携帯ストラップを私は父に贈った。ささやかだが、私はそういうことが出来ることを嬉しく思っていたし、父が喜んでくれたことも嬉しかった。
父の日のことは、父の死後、いわゆる形見のようにして出て来た絵と手紙に残されていた。また、それが小さなコンクールに入賞していたこを私は知った。そこには「今日は父の日で娘が遊びに来ました。手紙とプレゼントを持って来ました。娘が帰ってから読んだら泣けました。」と書かれていた。私はその時、父が死んでから初めて泣いた。
――父の遺体が焼かれた後、喉仏の骨が残っているということ、それはとても珍しいということを火葬場の方が説明してくれた。私は、その骨を拾った。骨を拾っても、骨壺の中の骨を砕く音がしても、全ては嘘のようだった。
後日、遺品を整理したと父の姉から連絡があった。だが、遺品を受け取っても、声を出して泣いても、父が死んだことはまるで現実ではなかった。現実ではないのに、何故、泣くのか? 本当のところでは私は分かっていたのだろう。しかし、私はただ少しばかりの間、誰かのみる夢に入り込んでしまっているだけではと思っていた。その時間が終われば、私は私の現実に帰って行くのだと。当時の心情を言葉にしてみると、そういう表現になる。けれども真実の現実は、私と父が会う時間はもう二度と生まれることはなく、一緒に暮らすという話も煙のように消えたということだった。死ぬということは、そういうことだ。二度と会えず、話せず。もしかしたら父はどこかに行っただけなのかもしれないと思う時もある。しかし、それがどこであるかは私にも誰にも分からない。
父が死んだということを、私は良く分かっているつもりだ。だが、同時に、私は良く分かっていないのかもしれない。未だ、父と暮らす話の行方を探しているようにも思う。電車の走る先にある父の家に行けば、以前のように父が出迎えてくれるような気がする。そして私は、今までの父の死に関する全ての事柄が――勿論、父の死そのものも含めて――嘘であったと理解する瞬間を待ち望んでいるように思うのだ。そんな瞬間など、来ないというのに。それでも私は私を笑うことは出来ない。
父は死んだ。父の心はどこに行ったのだろう。父は、私のことを忘れてしまっただろうか。私が父の娘であり、家族であり、一緒に聴いた歌があったこと、一緒に食べた料理があったこと、一緒に見た絵があったこと。会話の全て。思いの全て。父は、そのかけらすら持つことを許されないところに行ったのだろうか。死について永遠に考えることが出来たところで、答えなど永遠に分からないように思える。人間は皆、こうした別れを経験し、それに伴う答えの出ない考えを思い続けるのだろうか。
真に忘れるということは、恐ろしいことだ。事柄の残滓すら心に残らない。確かに経験したこと、確かに考えたことでも、忘れてしまえば最初からなかったことと同義になる。また、人は望まずとも関係なく忘れるという事態に陥ることもある。自分自身、その経験もある。忘れられた記憶はもはや私のものではなく、場合によっては人から指摘されて、かろうじてその影を認める程度になる。本人の意思が働いているのかは分からないが、実際、意に反して忘れるということは誰にでも有り得ることなのだろう。時間がそこに関わることもある。
たとえば十年後、私は今の心のまま、父を思っているだろうか。分からない。だが、忘れたくない記憶については何度も思い出すことで忘却を防げるという。勉学でもそうだ。繰り返し学ぶことで忘れないように出来る。私は夕暮れに染まる電車を見ては父を思い出している。それ以外でも、折に触れて父を思う。その時の感情を、心を、ずっと忘れずにいたい。
私は一生涯、父の娘だ。その揺るがせない事実が私の現実であり、喜びだ。この心が父に伝わってほしい。私は、それを言葉にして父に伝えたことがなかった。どうか、どうか伝わってほしいと切に思う。私の父でいてくれてありがとう、と。