時空探訪記
あれはもう20年近く前の話だ。
ある時、地元の廃線トンネルへひとりで出掛けた。
そこはミステリースポットにもならないマイナーな場所で、今では物好きのマニアくらいしか近づかない場所だった。
なんとなく、存在こそは知って居たが、これまで訪れた事もない。
そして、本当になんとなく、そのトンネルへと足が向いた。
そこはすでに人が分け入っている跡が色濃く残り、山菜採りか登山者が良く利用しているように思われたが、不思議と入口となる場所だけが不鮮明という違和感を覚えたのだ。
その踏み均された道を辿れば、寂れたトンネルが見えて来た。
他にも何箇所かある廃トンネルと似たレンガ造りの風景にどこか安心したのを覚えている。
中へ入ると風が吹いており、カーブした先もしっかり出口がある事を示していた。
トンネルを歩き、出口が見えてくると違和感に気付いた。
きれいに切り開かれ、建物が見えているのだが、こんな山奥にそんな建物があるハズが無かった。
それでも進んでいくと、人が居るのに気付いた。
「止まれ!」
アチラが先に声を掛けてくる。見るからに古めかしい軍服を着込み、それっぽいライフルを担いで居たが、こちらへ銃口を向ける事はしていない。
「そこで待て!」
そう言われて立ち止まる。あまりに事態が飲み込めず、硬直したのもあったかも知れない。
少し待つと声を掛けたのとは別の軍服が歩みよって来た。
「平成から来たのか?」
そんな、よくわからない事を言うが、確かに今は平成なのでそうだと答えた。
それから彼に連れられてトンネルを抜けると、まったく見知らぬ場所だった。
たしか、山中に掘られたトンネルで、川を渡ってもう一つトンネルを抜けなければ平野ヘ出られないはずだが、そこは見渡す限りの建物。工場といった方が適切だろう。
「あちらから来たのは君が初めてだよ」
といった人物に連れられ、近くの建物へと入る。
彼が言うには、ここは昭和4年だとかで、何を言っているのか分からなかった。
「まあ、そうだろ。我々も、それは同じだ。試験壕を掘ったら時代を超えたなんて、誰も信じやしない。が、事実だ」
彼は地元の新聞広告を見せながらそう笑った。
「あの隧道を訪れた『平成人』は君だけではなかったが、こちらへ超えて来たのは君だけだ。同じ様に、壕から平成へと渡れるこちらの人間も限られてはいるがね」
そう言って、平成に関する質問をされ、アレコレ答えたのを覚えている。
とくに広告の商品に関する質問が多かっただろうか。
洗濯機やエアコンなどの家電やオモチャに雑貨。
食品の産地などにも驚かれたりした。
今にして思えばとても怖い話だが、当時はそう思わなかった。
そして、促されるままに答え、次に来るときには何か歴史がわかる物を持って来る事となり、帰宅した。
次に向うと、やはり同じ様に出口前で誰何され、同じ建物へと案内された。
「うむ。大勢は変わらんが、小さな処で差異が見受けられるな」
歴史と聞いて、教科書を持ち込んだ訳だが、タイムトラベル系仮想戦記の様に相手が怒り出す訳でもなく、淡々と話が進んで行った。
気を良くした私は、三度訪れた際には第二次大戦期の戦車や戦闘機を扱った書籍を持参して彼に渡している。
やっている事はまさに仮想戦記の知識チートである。
彼はそれを喜んで受け取り、中身について幾つか尋ねてきた。
それらに卒なく答え、トンネルを後にしたのだった。
若かった。いや、思慮が足りないと批判されるかも知れないが、私は歴史改変というモノに歓喜していたのだ。
さらに私は多少専門的な書籍もいくつか持ち込み、喜ばれる事になった。
結局、私は大学進学のために地元を離れた事から、それから暫く訪れる事は無かった。
大学卒業後も、しばらく地元へ帰らずに居た事もあり、あの体験も夢か何かくらいにしか考えなくなっていた。
地元へ帰ったのは、それから10年も経っての事だった。
気になってトンネルを訪れてみれば、変わらずそこはあり、やはり人が通った形跡もしっかりとある。
地元へ帰った際、何か変わった事はないか時折聞いたりもしたが、とくに何事も起きていないと聞いて、もう塞がったのかと懸念していただけに、その踏み均され道に安心したのだった。
そしてトンネルへ入り出口へと歩いて行けば、誰何の声。
当然だが、誰何したのは知らない兵士であった。
「おや、令和の世界からとは珍しい」
そう言って見知らぬ士官が現れ、昔をなぞる様に建物へと案内された。
昔、ここを訪れた事を話すと大変驚かれ、外へと連絡される事になった。
しばらくすれば、別の高級将校らしい人物が現れた。
「おお、帰って来たのかね?」
その将校は、以前私の相手をした人物であった。
今更の話だが、ここは令和日本とは繋がっていない昭和日本だった。
その事は彼らも調べており、主にゴミを持ち帰って確認作業をしたらしい。
「私の世界にタイムパトロールというものがあれば、私も君も犯罪者だな」
などと、ゴミあさりから得たのであろう知識を披瀝する将校であった。
こちらは今、昭和15年だという。
「君の齎した書籍は大変役立ったよ。空力が一気に20年は進んだ。アメリカやドイツを抜き去る程にね」
そう、顔を綻ばせる将校。
「ちなみに、あのジェットエンジンと云うのもすでに開発されている。見るかね?」
そう言われて断る選択はない。
将校に連れられて建物から別の建物へと移動し、暫く歩けば、一基の円筒が見えて来た。
近付けば円筒の周りを這う配管類も確認出来る。
「君の世界で完成したネ20より性能は上でね、空中試験も終わっている。世界が違うとはいえ、すでにドイツでは飛行している頃合いだろうか」
などと感想を述べる将校に付き従い、さらに別のエンジンも見学する。
「なかなか奇抜だろう?書籍にあった液冷星型を試作している。こんなモノが形になったのも、君のおかげだろうな」
と、もはや単なる円筒にしか見えない金平糖の様なエンジンの説明を受けた。
何でも40リットル程度で三千馬力を狙うために作られたらしいが、一体どんな機体に載せるのだろうか。
いくつかのエンジンや飛行機を見学した後、その日は帰宅し、何か細かな技術的な書籍でもあればと、いくつかの技術書籍を持って訪れたのは季節が変わった頃になっていた。
二度目の訪問はもはや慣れたもので、こちらから要件を伝え、書籍を引き渡す事が出来た。どうやら将校は忙しかったらしく、長く話すことは出来なかった。
それからしばらく後、こちらの世界では真珠湾攻撃の日に訪れてみれば、まだまだ戦争は始まっていなかった。
「そちらとは違ってね。シナを巡る対立は小さなものなんだよ。だからと言って良好な関係にはほど遠いのだけど」
などと情勢について教えてもらい、試作が進むジェット戦闘機を見学する事が出来た。
「イーグルとやらにはほど遠いのだが、今、こちらで必要な性能は満たしているはずだ」
というそれは、三角翼を持った双発機。双発にしたスカイホークといった造形をしていた。
さらにプロペラ機も見学出来た。
「これは例のエンジンを載せた迎撃機だ。そちらではひと足早く制式化された『鍾馗』に当たるだろうか」
との説明を受けたが、この機体は液冷エンジンを製造し、液冷戦闘機を手掛ける川崎が担当しているそうで、通常の液冷戦闘機とは別に、この施設で実証された空力技術を用いた特別な機体との事だった。
「目指しているのは、書籍にあったキ64だよ。多くの機構や機能が書籍にあったフォッケやマスタングの記事を解析して採用されている。初飛行はもう少し先だがね」
その翌春、ちょうど液冷戦闘機の試験飛行に巡り合う事が出来た。
世界が違う事から写真撮影も許される大盤振る舞いに浮かれて撮りまくる。
「なにせ、君の齎した成果だからね」
と、将校も喜んでいる。
試験時に記録した最高速度は、時速688km。武装分のウェイトを載せての記録だとかで、速度記録だけを狙えばゆうに700kmを超えるらしい。
その写真をネットでアップしてみれば、日本に限らず反響が寄せられた。
もちろん、その多くは画像加工の批評となったのは仕方がないが。
ジェット戦闘機の飛行は慎重に進められ、星型液冷の機体は『飛天』の名で量産が始められたと教えられた。
それからすぐ、戦争が始まったと教えられる。
昭和17年6月の事だった。
ただし、相手はアメリカではなくソ連であると言う。
その事にも驚かされた。アメリカについては、批判はして来たが自分から手を出す事はしてこないらしい。
なぜなのか不思議だったが、経緯を聞いて納得した。
「同じ日本だが、我が国と君の日本では歴史が違う。些細なものではあるがね」
と教えられたところに拠れば、満州事変こそ起きはしたが、盧溝橋事件後の事態が違い、中国側の挑発に乗っていない。さらに、国民党による上海租界襲撃である第二次上海事変に際し、日本は共同租界の防衛を各国に呼びかけ、中国の描いた構図をひっくり返してしまっていた。
無差別に租界を襲撃した中国軍の行為に対し、英仏が非難声明を出し、居留者に多数の被害を受けた米国も参戦せざるを得なくなり、中国の目論見は脆くも崩れ去った。
この結果、抗日に焦点を絞った国共合作の意味は喪失し、天津をはじめとする他の租界でも外国人襲撃が増加、国民党を支援するドイツへの風当たりが強くなる結果を招き、ドイツによるオーストリア、チェコの併合は辛くも成功したものの、英仏の警戒心が高まる結果を招いている。
そして1939年にはポーランドと対立するドイツはソ連と不可侵条約を結ぶ。
その年の9月、まずポーランドヘ銃口を向けたのはソ連だった。
ドイツは数日様子を伺い、英仏が手を拱いている姿を確認の後に侵攻を開始している。
ソ連はさらに冬にはフィンランドヘ侵攻し、英仏はドイツへの宣戦布告を思いとどまり、ソ連批判を叫ぶ道を選ぶ。
その翌年春、ドイツがデンマークヘ侵攻し、フランスがドイツへ宣戦布告を行い戦争が拡大していくが、この宣戦布告で英仏の溝が生まれ、宣戦布告を躊躇した英軍の展開が無い状態でフランス侵攻がはじまり、こちらの世界と同じく、瞬く間にフランスはドイツに席巻されてしまった。
日本は三国同盟には踏み切っておらず、ノモンハン事件でも優秀な戦力を配備して善戦したらしい。
「戦車は書籍にあった様に山砲を搭載したよ。将来的な不安もあって、ヘッシュだったか、対ベトン弾を搭載する様にしている。あのT34が現れても対処出来る様にね」
との頼もしい話を聞いた。
その年は日本軍がイルクーツクまで進んだという話を聞いたが、暮れになると凶報を聞くことになった。
「アメリカは一体何を考えているのか分からん」
面会した将校から聞かされた話は凶報としか言えなかった。
アメリカが揚子江に浮かべたパナイ号という砲艦があったそうだが、国民党による度重なる上海への攻撃に対して反撃した日本軍の攻撃がパナイ号を直撃。船は沈み、乗り組んでいた軍人や外交官多数が亡くなる事件が起きると、日本を非難して仏印や上海を巡る合意を破棄して日本へ宣戦布告して来たらしい。
それからの戦争は日本の敗色濃厚となっていった。
『飛天』は活躍しているらしいし、本土防空にはジェット戦闘機『火竜』も活躍しているらしい。
しかし、海軍はマリアナ沖でアメリカの物量に押しつぶされ、小笠原へ攻め込まれている。
ドイツもモスクワを陥落させたものの、アメリカに倣う様に宣戦布告して来たイギリスに背中を刺されてフランスを奪回され、国境付近での攻防が始まったらしい。
「海軍は沈めたと言うが、小笠原に押し寄せるアレは何だ。話にならん!」
そんな不満をぶち撒ける将校を宥め、帰宅した。
こちらの世界で終戦の日というその時、我が家へと来客が訪れた。
「近く、壕を発破の予定につき、お知らせに参りました」
というまだ少年らしき人物。
私は彼とともにあちらへ向かった。
「来てしまったか。どうやら長く持ちそうには無い。敗北の前に壕を発破し、ここの研究を無かった事にすると決した。ただ利用したに過ぎんのに、気を使わんでも良かろう」
将校にそう言われ、私は大きな鞄を記念にと手渡された。
「そちらでは何の役にも立たん時代遅れだろうが、これまでの対価だと思って受け取ってくれ」
中身は見ずに鞄を受け取り、その場を後にした。
後に確認したところ、鞄の中には『飛天』や『火竜』の資料が詰まっていた。
確かに、こちらでは何の役にも立たないだろう資料であった。
数日後、件のトンネルを訪れてみれば、出口の先には鬱蒼とした藪が広がり、かすかに川の流れや対岸が見えるばかりとなっていた。
あちらの日本がどうなったのか、もはや知るすべは残されていない。
願わくば。こちらと同じ様に復興出来ることを願ってやまない。