5.恋する乙女は不安なの?
その後、両親と共に伯爵邸を辞去し馬車に乗ったけれど、先程のクリストファー様の様子が気に掛かり外の景色は少しも目に入らなかった…。
──レオナルド・ゲシェンク。
先妻の産んだ優秀な二人の兄に比べ、伯爵家の財産を食い潰す後妻の産んだ三男。
学生時代も王城の文官見習いの今も、聞くのは放蕩三昧の噂と、その輝く美貌だけを称えるものばかり。
(本当に噂通りの人物なの……? 何だか変だわ)
「…………はぁ」
思わず溜息をつくと、隣に座る母が扇子越しに目を細めた。
「ふふ、分かるわシャルロッテ。貴方の婚約者ったら、輝くばかりの美貌なんですものね」
まだ婚約者には決まっていない……。
レオナルド様が「少しだけお時間を頂けないでしょうか、準備が整い次第、必ずこちらからご挨拶に伺います」と婚約の正式な書類に署名をなさらなかったから。
「…………婚約、して下さるかしら」
「まあまあ、シャルロッテったら。きっと大丈夫よ、自分にもっと自身をお持ちなさいな。でも、恋する乙女は不安になるものなのよね」
「お母様はわたくしよりも社交界の噂にお詳しいはずなのに、どうしてレオナルド様の事に反対なさらなかったの……?」
「そうねぇ、だってあなたが誰かに恋するなんて初めてでしょう?
お母様はそれがとっても嬉しかったのよ。それにリーベンには娘の政略結婚で得られるものなんて、少しも必要でないもの」
こうして一人娘の初恋に喜んでくれている母に本心を隠しているなんて、と胸が傷んだ。
(ごめんなさい……。だけど、わたくしの初恋はレオナルド様ではないんです)
恥ずかしくて両親に伝えられなかっただけで、初恋は小さい頃に済ませている。
そう頭にフッと浮かんだものの、その肝心の初恋の相手が思い出せず、狐につままれたような気分になる。
(えっ?……わたくしに初恋なんてあった? 相手ってどなただったかしら……?)
思い出そうとするとツキンと胸にせつない気持ちが広がるだけで、その顔も名前も浮かばない事に困惑する。
(……レオナルド様の事も、あの贈り物だったターコイズ色のリボンも、あれだけ印象深かったのにすっかり忘れてしまっていたし。変よね……でも、何だか思い出したく…ない……)
「シャルロッテ? 顔が真っ青よ、大丈夫?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないわ」
慌てて頭を降って、嫌な記憶の欠片を追い出していると、
「そんなに不安にならずともいいんじゃないか」
ふいに、先程まで黙って考え込んでいた父から声を掛けられる。
馬車に乗ってからというもの、ずっと難しい顔をして腕を組んだままだったけれど、母の言葉を聞いてわたくしに視線を向けたようだった。
「お前が自分の目で選んだ青年なんだろう? 時間が欲しいと言われたなら、少しだけ待ってあげなさい。何か事情でもあるんだろう」
「…………お父様は、今日お会いしてみてレオナルド様をどう思われましたか?」
「私は気に入ったよ、てっきり顔だけが取り柄の若造かと思っていたがね。
帰り際に少し話をした時には、なかなか見応えのあるいい目をしていた」
「えっ?」
「あらあら、旦那様にしては珍しい事もあるものね」
「正直、シャルロッテの夫として迎えても公爵家の執務には一切触らせぬつもりだったんだが……。
もしかすると、リーベンの婿として鍛えてやっても良いかもしれん」
「ええっ!! お父様ったら耄碌してしまったの!?」
思わずとんでもなく失礼な事を言ってしまった。
(だって……! まさかお父様がそんな事を言い出すなんて。でも、結婚後すぐに駆け落ちされちゃいますよ、なんて伝えられないし……)
公爵家当主として鋭い観察眼を持つ父の、思わぬ発言に衝撃を受ける。
「耄碌なんぞしとらん!!」
「でも……」
「何だ、自分で選んでおいてそんなに驚くとは。良からぬ噂は勿論知っているが…… 。むしろお前の未来の夫はお飾り人形だ、リーベンの一員とは認めんと言われた方が嬉しいのか?」
「それは……そんな事はありませんが……」
「ふふふ、『リーベンの婿にはレオナルド様を措いて他にはおりません!』ってお父様に婚約を頼み込んだのですものね。
わたくしも、何だか彼はシャルロッテにぴったりだと思うわ。この先が楽しみね」
「…………………………」
噂に惑わされない両親の人物評価が、自分の印象と同じ事に、心のどこかで安堵するものの──
わたくしが前世で嗜んでいた乙女ゲームにおいて、ヒロインが学園で社交界の噂話として耳にする「麗しき美貌の伯爵家子息が仕出かした駆け落ちの顛末」
それを知っているからこそ、信じ難い。
彼はこの先、両親から放蕩を止め真面目に領地で働くか、金満未亡人の元へ婿入りするかの決断を迫られる。
そして結局結婚を選ぶものの、すぐにメイドと駆け落ちしてしまうのだ。
ゲシェンク伯爵家に莫大な借金を残して……。
(そんなレオナルド様だから、わたくしにぴったりで、ちょうど良い相手だと選んだのに……)
自分の断罪回避の為だけに、強引にリーベンに巻き込んでしまう結婚相手。
だからこそ、悪名高いレオナルド様ならあまり罪悪感を感じずに済むと思ったから……。
それに、レオナルド様がそのメイドとの駆け落ち後は、お金に不自由せず幸せに暮らせるよう、自分の個人資産から金銭援助するつもりだった。
(わたくしなら路頭に迷うのを助けてあげられると思ったのよ……。
……それに、準備の為の時間って一体何をなさるの? ……あっ!!)
レオナルド様が乙女ゲームの中で、ゲシェンク伯爵家へ婚約申し出があった時にした事と言えば一つ。
(まさか、駆け落ちの準備……?)
わたくしは未婚の令嬢だから、決して金満未亡人では無い。
ないけれど、ないんだけれど、ある意味お金で婿を買おうとしている金満令嬢……!?
───────────
「なるほど、それで俺が呼ばれたんですね」
わたくしは「リーベン公爵家の影」の一人、アダンに事情を説明した。
「そうなの。だからお願いよ、レオナルド様の周辺に変な動きが無いか調べてくれる?
ほら、うーん、例えば宝石を売ったりして金貨に換えてるとか、遠くに住む親類や友人と連絡を取ってるとか……」
「…………」
テーブル越しに立つアダンは、その短く整えられた黒髪をポリポリと掻くと、腕を組んで眉間にシワを寄せる。
「はぁ…。影を気軽に使わないで下さいよ。それに、庭師として働いてる時は、直接呼びに来るの禁止って言ってあるでしょう!」
「それは、トピアリーの大事な剪定中にごめんなさい……。
でもしばらく時間が欲しいって言われて、もう二週間なんだもの。急いで調べて欲しいの」
アダンがドカッとソファに座ってしまった。これはお説教が長引きそうだと顔が引き攣ってしまう。
「お嬢様には口が酸っぱくなる程言ってますが……。
何でもかんでも影に調べさせてたら、観察眼も人間力もなんも磨けないんですよ。
もっと、お相手を自分の目でよく見て判断しないと」
「でも……」
「影のモットーはご存知ですよね?」
「…………信頼と功績」
「そうです。功績は我々の日々の鍛錬と努力で作り上げるものですが、信頼は相互の物でしょう。
リーベン家の皆様の為なら、毅然と諌めたり諭したりもする。それが我々の誇りでもあるんです。
仕える主が転落すれば、こちらも諸共なんですから」
「…………そうよね、いつも本当に有難う」
「それに、調査の過程で知った情報も全部お嬢様にお伝えしてる訳じゃないですから」
「えっ!! そうなの?」
驚いて思わずアダンに詰め寄ってしまう。
「全部教えてくれないなんて、酷いわアダン!」
「申し訳ありませんが、これ以上は調査はお受けできません。旦那様からも、お嬢様の依頼については現場の判断を許されてますんで」
「そんな……!だってリーベンとわたくしの未来が懸かってるのよ」
「だからこそですよ、ご自分でしっかり婚約者の方と向き合わなきゃ駄目です。じゃ仕事に戻りますんで」
「ちょっと待って、アダン!」
「……陰ながら応援してますんで、影だけに」
にっこり笑いながら定番の駄洒落を残し、さっさと仕事に戻って行くアダンの背中を、恨めしく見送るしか無かった。
( まだ婚約して貰えてないから、こんなに困ってるのに!)
公爵「ちょっとシャルちゃんに厳し過ぎじゃないか?」
影「旦那様が甘やかすなってうるさく仰るから、こっちは涙を呑んで心を鬼にしてるんですよおぉぉ!」