第八章 誓いは仮初
親友から話がある、と言われていたヴィクトルは、騎士団の訓練帰りにやってくるというイラリオンのために、仕事を早々に切り上げて王太子の執務室でソワソワしていた。
多忙を極めるイラリオンが自らヴィクトルの元を訪れるのは珍しい。それも、大事な話がある、だなんて。
親友である自分にしか話せないような、重大な話に違いない。
思い浮かぶのは、先日見せつけられたイラリオンの浮かれた顔だ。初恋だなんだと、イラリオンらしくない言動ばかりしていたその理由である、一人の令嬢。
「十中八九、テリル・クルジェットに関することだろうな……」
親友が来るまでの間、ヴィクトルはずっと落ち着かない心持ちだった。
そうしてきっちり時間通りにやって来た国宝級令息イラリオン・スヴァロフは、簡単な挨拶を交わしてヴィクトルの前に座ると、そのまま一点を見つめ……黙り込んでしまった。
「…………」
ヴィクトルは、親友の様子に戸惑って声をかけるタイミングを逃してしまう。
今日のイラリオンからはいつものキラキラしたオーラが抜け落ちているかのようで、見たこともないその様子になんと声をかけていいか分からなかったのだ。
しかしその時、ヴィクトルが思わず跳び上がるような異常事態が起きる。
「!?」
なんと、イラリオンの美しい青色の瞳から、ポロリと涙が一筋こぼれ落ちたのだ。
「イ、イラリオン……!? ……その、大丈夫か?」
「…………え? ああ、すまない。気が抜けたようだ」
ふぅ、と息を吐いたイラリオンは、目元を拭うとその美貌に哀愁を漂わせた。
「おいおい、どうしたんだイラリオン……お前が泣くなんて。まさか、本当にフラれたのか?」
信じられないと驚愕のまま問いかけたヴィクトル。しかし、イラリオンは首を横に振った。
「彼女と……テリルと結婚することになった」
想像と違ったイラリオンの返答に一瞬だけ固まったヴィクトルは、次の瞬間に歓声を上げた。
「本当か! 良かったじゃないか、あんなに望んでいたんだから! そうか、さてはその涙は嬉し涙だな? そうかそうか、まったく驚かせるなよ。これは祝杯を上げなければ」
「……確かに。望んでいたことではあるし、嬉しいといえば嬉しい」
だが、上機嫌なヴィクトルとは対照的にイラリオンは難しい顔をしている。
「ど、どうしたんだよ」
親友の様子から異常なことが起きていると察したヴィクトルは、恐る恐る問いかけた。
「……彼女に愛していると言われた」
「はあ?」
なんだ、惚気か。とヴィクトルが呆れたのも束の間。続くイラリオンの言葉は理解不能なものだった。
「なのに、私の想いを受け入れてもらえない」
「………………はあ?」
「こんなに虚しい気持ちになったのは初めてだ」
片手で目元を覆い天を仰ぐイラリオン。何が何だか意味が分からないヴィクトル。
「イラリオン。頼む。頼むから、分かるように説明してくれないか。少々難解すぎてお前の言っていることが理解できてないんだ。なに? なんだって? つまり、彼女はお前が好きなんだろ?」
「あぁ」
「お前も彼女が好きなんだろ?」
「うん。ものすごく」
「……。そして、二人は結婚するんだな?」
「そうだ」
ヴィクトルは、自分の頭か耳がおかしいのかと思った。
「いったい何が問題なんだよ!?」
話を聞く限り、イラリオンがこんな状態になる理由が一つも見当たらない。思わず叫んだヴィクトルに、イラリオンは眉間に皺を寄せて口を開いた。
「君にだけ明かすが、この結婚は契約結婚なんだ」
「契約結婚……?」
ますますわけが分からなくなったヴィクトルは、なんだそれはと頭を掻きむしった。
◆
「一度、話を整理させてください。つまり、私と結婚はしていただけるということですね?」
クルジェット伯爵家の応接室で対峙しながら、イラリオンはテリルから持ちかけられた契約結婚について彼女の真意を探るように問いかけた。
「はい。ですが、これは仮初の結婚です。イラリオン卿が迫られているその無茶な縁談が白紙になるまでの、一時的な契約にするんです」
「……色々と言いたいことはあるのですが、まず、この結婚を仮初の結婚にしなければならない理由はなんでしょうか?」
「それは……あなたには、もっと相応しい女性が現れるからです」
テリルの瞳はどこまでも揺るがなかった。対するイラリオンの心は風前の灯だ。
好きな人が自分を好いてくれている。それが確かに分かるのに、彼女はイラリオンが別の女性を好きになると断言するのだ。
頭が痛い、どころの騒ぎではない。
「私はそのような不誠実な人間ではありません。結婚したら、……いえ。結婚せずとも、私があなた以外の女性を愛することは生涯ありえません」
ハッキリと直球でその想いを口にしたイラリオン。
「そう言っていただけるのは嬉しいです。ですが、人生とは何が起きても不思議ではありません。想定外の事態が起きた時に、私の存在が足枷となってあなたを苦しめてしまうのは嫌なのです」
直球さえも絡め取って変化球を投げ返してくるテリルに、イラリオンの心は今にも折れてしまいそうになる。
先ほどからフル稼働して火を吹きそうな脳に鞭を打って、イラリオンは別の角度からこの問題を捉えてみた。
「……おっしゃりたいことは分かりました。いえ、正直、まったく分かりませんが。しかし、あなたの言う通りにするとしましょう。この契約結婚は、私にしか利がないような、一方にだけ有利で不公平な契約になってしまいます。契約結婚にすることであなたにはどんなメリットがあるのでしょうか?」
テリルにとってとことん不利でしかない、まるで自分を利用するだけ利用して捨てろとでも言っているかのようなその契約の内容をイラリオンが指摘すると、あろうことかテリルは満面の笑みで自信満々にこう言い切る。
「私はあなたのお役に立てたらそれだけで満足なのです」
「………………うぅ」
イラリオンは、あまりの苦しさに思わず胸を押さえた。
「イラリオン卿!? どうしたのですか? どこか具合が悪いのでは!?」
「大丈夫です。申し訳ありません。少々取り乱しました」
イラリオンが言い繕う間に、すかさずテーブルを越えてイラリオンの元に飛び込んできたテリルは、至近距離でイラリオンを見上げた。
「ご無理をなさらないでください」
そうしてイラリオンの体調を確認するかのように、両手でその頰を掴んで額同士をくっつける。
「……ッ!」
硬直するイラリオン。
「熱はないようですね。でもお顔が赤いです。お忙しいくせに、二日連続でこんなところに来るからです。これからは私に用がある時はいつでも呼びつけてください。どこへだって駆けつけますから」
至近距離で想い人からそんなことを言われてしまったイラリオンは、ガシリとテリルの両肩を掴んで無理矢理笑顔を作った。
「テリル嬢」
「はい?」
「さっさと話を詰めましょう。……もうダメだ。早くなんとかしないと、危なっかしくて安心できない」
「なんとおっしゃいました?」
イラリオンの早口が聞き取れなかったのか、テリルは不思議そうに首を傾げる。
「もう契約でもなんでもいいですから、早く私のものになってくださいと申し上げました」
どうにでもなれと開き直ったイラリオンが、体裁を保つ余裕すらドブに捨てて本音を言えば、テリルはその不思議な色の瞳をパチパチと瞬かせた。
「まあ。そんなに早急に進めたいほど、その縁談が嫌なのですね……」
「…………」
イラリオンは、その場で泣かなかった自分を褒めた。




