第七章 湖の出会い
イラリオン・スヴァロフとテリル・クルジェット。二人が初めて出会ったのは、十五年前の初夏のことだった。
当時九歳だったイラリオンと、八歳だったテリル。二人の出会いは偶然であり、必然でもあった。
「ねえ、悩みごとがあるの?」
貴族に人気の避暑地、ボンボンにあるスヴァロフ家の別荘近くで、静かな湖面を眺めながら物思いに耽っていたイラリオン少年は、突然上から声をかけられて我に返った。
慌てて頭上を見上げると、ふわふわとした淡い髪色の少女が木の上からイラリオンを見下ろしているではないか。
「あなた、ここに来てからずっと、湖を眺めてため息を吐いてたでしょう? 何をそんなに悩んでいるの?」
「あ……見てたんだ。ごめん、先客がいるとは思わなくて。僕は失礼するよ」
イラリオンが去ろうとすると、木の上にいた少女は枝から飛び降りて、イラリオンの前に立った。格好は貴族令嬢らしいドレス姿だが、地面に降り立ったその足は裸足だった。
「どうして? この湖はみんなのものだもん。私がいるからって、あなたがいなくならなくてもいいと思うよ」
立ち去ろうとしていたイラリオンは、気の抜けるような少女の言葉と行動に足を止めた。
道理や理屈ではなく、素直な瞳で自分を見る不思議な少女に、イラリオンは思いがけず、ずっとつかえていた胸の内を吐露する。
「迷っているんだ。父上のあとを継いで文官の道に進むか、剣の道に生きて騎士となり戦争に出るか。……他にも魔術にも興味がある。こんな僕は、もしかして移り気なんじゃないだろうか。父上は極めたいなら一つに決めろと言うんだ。中途半端になりたくないなら、今のうちから準備しないと間に合わないって」
こんなことを言われたところで、彼女は困るだろう。そう思いながらも口にしたイラリオンの悩みを、少女は一刀両断にした。
「あら。私には分からないわ。どうして一つに決めないといけないの?」
「え?」
「全部やったらいいじゃない、文官にもなって、騎士にもなるの。魔術も研究して、どうせなら宰相と騎士団長と魔塔主を全部やっちゃえばいいわ」
イラリオンは、陽の光に照らされた少女の、不思議な虹彩を呆然と見て呟いた。
「でも、これまでの歴史の中で、そんな人は一人もいなかったよ」
「ならあなたが最初の人になればいいのよ。そうすればあなたはきっと、この国の歴史上で最も偉大な人になるわ」
「そんなこと、できると思う?」
「どうしてできないと思うの?」
少女の瞳は、夜空の濃紺と朝焼けのピンクが混ざったような、二つの色が溶け合う不思議な色彩を持っていた。
まるで夜明け色のようなその瞳に真っ直ぐに見つめられたイラリオンは、なんだか急に悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
「君の言うとおりだ。やりたいことを、全部やる。それだけだ。一つじゃなくて、全部極めればいいんだ」
「そうよ。やってみて、全部は無理だと思ったら、その時にまた考えればいいのよ。でもね、私。あなたなら絶対できると思うの」
少女の言葉は自信に満ちていた。
「どうして? 僕たち、今日出会ったばかりだろう?」
首を傾げたイラリオンに、少女はソバカスの散らばる頰を緩ませて楽しげに笑う。
「だってあなた、昨日この子を助けてくれたんでしょう?」
少女の言葉に合わせるように、バサバサと木の枝の間からぎこちなく降りてきたのは、一羽のカラスだった。
まだ羽の生え揃っていない、モフモフとしたまだら模様の若いカラスは少女の肩に止まり、その真っ黒でつぶらな瞳をイラリオンに向けている。
「そのカラス……」
イラリオンには確かに覚えがあった。昨日、この辺りを散策中に、飛ぶのに失敗して蔦に絡まっていたこのカラスを助けてやったのだ。
ぎこちない羽ばたきで枝に飛び移り、ヨタヨタと去っていったあのカラスに間違いなさそうだが、なぜそれを彼女が知っているのか。
「この子が教えてくれたの。動けなかったところを黒髪の綺麗な男の子に助けてもらったって。あなたのことでしょう?」
「なんだって? そのカラスが、君に?」
「うん。私、動物の言葉が分かるの。今も『昨日はありがとう』って言ってるわ」
「……そう」
カァと鳴くカラスを見て、イラリオンは驚きつつも頷いた。
彼女の言葉は先程から大胆だが、決して支離滅裂なわけではない。虚言癖があるようには見えないし、頭がおかしいわけでもなさそうだ。
彼女がそんな嘘を吐く必要もないし、あのカラスが昨日のカラスだとしたら、カラスの話を聞いたという彼女の言葉には信憑性がある。
無論、彼女が昨日、イラリオンがカラスを助ける場面を目撃していた可能性もあるが、それならそう言えばいいだけのこと。わざわざ『動物の言葉が分かる』などと、正気を疑われることを豪語する必要はない。
王国屈指の名家に生まれたイラリオンは、この国の秘められた歴史の中で精霊と結婚した人間がいることを知っていた。
そんなおとぎ話みたいなことが起こり得るのだから、どういう原理かは不明だが、彼女が動物の言葉を理解できるのは本当なのかもしれない。そう瞬時に判断したイラリオンは、カラスに向けて微笑んだ。
「元気そうで良かったよ。早く飛べるようになるといいね」
「カァ」
「あのね、動物に優しい人に悪い人はいないのよ! それに、カラスはあんまりよく思われていない鳥だもん。助けようとしてくれる人はなかなかいないの。だからあなたはとってもいい人。きっと、幸運な人生を送って素敵な大人になるわ」
ニコニコと微笑む彼女を、イラリオンはとても眩しく思った。その屈託のない笑顔に胸がドキドキする。イラリオンにないものを、彼女は持っている。
「そう言ってもらえると……なんだか本当に、なんにでもなれる気がするよ」
気づけば心から笑っていたイラリオンは、ここに来る前の悩みごとを完全に払拭していた。
「そうと決まったら、作戦会議ね。だって考えてみたら、あなたの夢ってとても大変そうだもの」
カラスを肩に乗せたまま、少女は岩の上に腰を下ろした。
「ふっ……そうだろうな。誰も成し遂げたことのない、茨の道になるだろうね」
イラリオンもまた、その隣に座って笑う。
「でも、意外といいかもしれないわ。騎士には体力のある若いうちにしかなれないし、宰相になるのは経験を積んだおじさんになってからしかなれないでしょ?」
「ああ、確かに。順番なら騎士になるのが先だね」
「アカデミーはぜったいに首席じゃないとダメよ。あと……魔術はどうすればいいかしら?」
イラリオンのために真剣に考えてくれる彼女が可愛くて、イラリオンはずっとその横顔を見ていたいとさえ思った。
「伝説の大魔法使いオレグ・ジャンジャンブルは、アカデミーにいた時から既に魔塔に声をかけられていたらしいよ」
悩み出した少女にイラリオンがそう言うと、彼女はその瞳を輝かせる。
「あら、そうなの? じゃあアカデミーに通っているうちから、魔塔とのつながりを持たなきゃ」
まるで自分のことのように真剣に小さな指を折りながらイラリオンの未来を語る少女。
イラリオンは、彼女の言う通りに歩む未来を想像してみた。
そこには夢や理想だけでは乗り切れない困難が数多くあるだろう。しかし、それらを一つずつクリアしていけば、不可能ではないはずだ。
何よりも。彼女の言葉通りに未来を歩んで全てを成し遂げたイラリオンを見たら、大人になったこの少女はどんな顔をしてくれるだろうか。
「ねえ、聞いてるの?」
あなたの話をしてるのに、と頰を膨らませる少女。
「うん、聞いてるよ」
嬉しそうに目を細めて答えるイラリオン。
その時だった。
どこまでも青い瞳に目の前の少女を映し、湖面に反射する光を背に微笑む美少年。
その光景が少女の不思議な虹彩の奥に焼きついたその瞬間、彼女は急に震え出し、両手で口を押さえてうずくまった。彼女の肩に乗っていたカラスが、下手くそな羽ばたきで飛び上がる。
「どうしたの!?」
慌てて手を伸ばしたイラリオンが問いかけると、少女の顔は青ざめていた。そしてイラリオンと目が合うと、震える声でそっと呟く。
「ラーラ……」
「え?」
それは、とても不思議なことに。亡くなった母がイラリオンを呼ぶ時の愛称だった。
母が亡くなってからは、イラリオンのことをそう呼ぶ人はいなかったというのに。どうして彼女がその愛称を知っているのか。
そもそもイラリオンは、少女に自分の名前を名乗った覚えがない。
「なんで……」
しかし、疑問を口にしようとしたイラリオンは、少女の尋常ではない汗を見てその疑問を自分の胸にしまい込んだ。
「ねえ、大丈夫? 人を呼んでくるよ。いや、僕の別荘に来て。医者に診てもらおう」
「……ダメっ!」
「え?」
急に声を張り上げた少女は、イラリオンの戸惑いに気づいてハッと口に手を当てた。
「あ、わ、私……もう行かないと」
「でも」
「それじゃあ、さようなら」
「待って! 名前だけでも」
「名前は教えられない!」
再び声を張り上げた少女にイラリオンが目を見開いていると、少女は申し訳なさそうに立ち去りかけていた足を止めてイラリオンを見た。
「あなたは絶対、自分のやりたいことを成し遂げられる」
イラリオンはわけが分からなかった。
何故なら、目の前の少女がつい数分前まで見せていた純粋さを消し去り、その瞳に影を宿していたからだ。
「そのために、必ず王室を味方につけて。特に王太子……ヴィクトル王子とは仲良くして」
あまりにも必死に訴える少女に、イラリオンは圧倒されて頷くしかない。
「それから、持ちすぎる人は持たない人から妬まれるのよ。だから、あなたは人より多くを手にする分、謙虚に生きなきゃいけないわ。自分のものを人に分け与えて、誰にでも丁寧で、誰からも尊敬されて、好かれるような。そんな人になってね」
切羽詰まったようなその瞳が母の死に際の瞳と重なって見えたイラリオンは、彼女を引き留めようと手を伸ばした。
しかし小柄な少女はそのふわふわの髪を靡かせながら、イラリオンの手をするりとかわしてしまう。
「お願い。私のこと、探さないで。私たちが会うのは今日が最初で最後よ」
「どうして? いやだよ。僕、また君に会いたい」
「でも、ダメなの。その方がいいの。約束よ、絶対に私を探さないで」
「待って……!」
少女を追いかけようとしたイラリオンは、周囲から飛び出してきた鳥や小動物達に行く手を阻まれた。
バサバサと動物達が去り、静けさを取り戻した湖畔には、すでに少女の姿も手がかりも何ひとつ残ってはいなかった。
それから十五年、イラリオンはあの時の少女の言葉を胸に刻んで生きてきた。
彼女から一方的に告げられた、〝私を探さないで〟という約束を忠実に守りながら。
彼女と再び出会える日を信じて。