第六章 天国と地獄
「イラリオン卿。私はあなたを愛しています。あなたのためならこの命を差し出してもいいと思うくらい、心から」
「……ッ!」
イラリオンは、思わずクルジェット伯爵家の応接室を丸ごと破壊しそうになった。イラリオンが内に秘める魔力と剣気が暴走して爆発しそうになるくらい、テリルの言葉の威力は凄まじかった。
しかし、周囲一帯を吹き飛ばしてしまいそうになるほどのイラリオンの喜びは、束の間のものだった。
「ですから、あなたの求婚はお断りいたします」
「……は?」
まるで、天まで昇ってから一気に地面に叩きつけられたようなその衝撃に、流石のイラリオンも現実を受け止めきれない。
「な、何故ですか? 先ほどは私のことを、その、愛していると……少しでも私に好意を抱いてくれているのなら……」
「愛しているからこそ、あなたには幸せになってほしいのです」
「…………」
言葉が出ない。イラリオンの優秀な頭脳が、ぐるぐると頭蓋骨の中で空回っているかのようだった。
「恩義や同情で、私のような女を娶るなんて。そんなのはダメです。あなたはあなたの愛する人と結ばれなければなりません」
頭の回転が速いことで知られるイラリオンは、自分の思考回路が停止するのを感じた。
どうしよう。彼女の言っている言葉の意味が理解できない。
しかしそれでも、なんとか軋む脳を稼働させたイラリオンは、ある可能性に思い至った。もしかしたら彼女には、イラリオンが求婚した理由が正しく伝わっていないのではないだろうか。
イラリオンの言動が、彼女を誤解させてしまったのかもしれない。
「恩義や同情ではありません。私もあなたを愛しているのです」
真剣な表情で愛を告白したイラリオンに、テリルは嬉しそうに微笑んだ。イラリオンはホッと胸を撫で下ろす。しかし、再び彼女はイラリオンの思考を切り裂く爆弾発言をする。
「ありがとうございます。ですが、無理をする必要はありません」
頭を殴られたような衝撃だった。無理をする必要はない?
言葉の意味は理解できるのに、意味が分からない。
「私はあなたが優しくて誠実な人だと知っています。求婚した手前、あなたは私のような女を本当に愛そうと努力してくださっているのでしょうが、どうかそんな無駄なことはしないでください」
「…………」
イラリオンは、泣きたくなった。
愛そうと努力してる? なんの話だ。こんなにも狂おしいくらいに、目の前のこの人が愛おしくて愛おしくて堪らないというのに。
幼い日のイラリオンに生きる希望を与えてくれ、影ながら応援し、励まし、時には助け、ずっと見守り続けてくれた恩人。
他の多くの人々のようにイラリオンの表面だけを好き勝手に騒ぎ立てて評価することなどせず、その努力と苦悩を何よりも理解して大事にしてくれる、そんな女性は彼女しかいない。
むしろ、彼女を諦める努力をするほうが何億倍も難しい。やっと見つけた手の届くところにいる彼女を、今すぐにでも捕まえてしまいたいのに。
「私の想いを疑うのですか」
結局イラリオンは、情けないと思いつつも。涙ながらに彼女の情に訴えてみた。
その美貌を全面に押し出して物悲しげな顔をしたイラリオンに、テリルは動揺しながら慌てて口を開く。
「いいえ、そういうわけではありません。あなたは本当にそうできる人ですから。ただ、私なんかにお心を砕くのは時間の無駄です。愛するあなたにそんな無意味なことをさせて、ただでさえ惜しい時間を浪費させたくはないのです」
ダメだ。話が通じない。イラリオンは直感でそう思った。
いや、話は通じているし、想いだって通じ合っているはずだ。なのに、どうしてこんなにも噛み合わないんだ。
「そんなことは、ありません。……私はあなたを」
頭痛を覚えながら、なんとかこの身を裂くような想いを分かってほしくて言葉を選ぶイラリオンを遮り、テリルは首を横に振った。
「いいえ。イラリオン卿が本当に愛する人を見つけた時、私なんかに時間を無駄にしたこと、きっと後悔します」
切なそうにする彼女に、こっちの胸が張り裂けそうだ。
この世に終わりがあるのなら、それは今この時なのではないか。そう思うくらいに絶望したイラリオンは、もう思考を放棄したくなった。
しかし、国宝級とまで称される男イラリオン・スヴァロフには、優れた頭脳がある。
瞬時に頭を切り替えたイラリオンは、脳をフル回転させて現状を把握し、計算式を弾き出した。
ここは一つ、卑怯な手を使ってでも、彼女を繋ぎ止めておくべきだ。今を逃せば再びイラリオンの前から消えてしまいそうな彼女を、絶対に手放したくはない。
幸いにもイラリオンには、この短時間で見抜いた彼女の弱点を利用する奥の手があった。
イラリオンが見抜いたテリル・クルジェットの弱点。それは、イラリオン・スヴァロフへの愛だ。
どういうわけか彼女は、イラリオンのためならなんでもしてくれようとするのだ。いっそ病的なほど献身的に。そのせいで結婚できないと言うのなら、それを逆手に取ればいい。
もはや理性などかなぐり捨てたイラリオンは、痛む良心を無視して切実な目をテリルに向けた。
「それでは……窮地に立たされた私を助けると思って、どうか協力してください」
「あなたを助ける?」
イラリオンの窮地と聞いて眉を寄せたテリルは、真剣な表情でイラリオンを見る。好機とばかりにその美しい顔を歪めて悲痛さを演出するイラリオン。
「実は、とても断れないような相手から無理な縁談を押しつけられそうになっているのです。相手の女性には将来を約束した恋人がいます。この縁談が進めば、私も彼女も不幸になることは目に見えているのです」
「そんな……」
口を押さえたテリルは衝撃を受けていた。
「ですから私には、縁談を回避するために結婚相手が必要なのです。それも早急に。今すぐにでも」
「そういうことでしたの。それは確かに一大事です。どうしましょう、私としたことが、こんなことは想定外でした。……だって前はそんなこと……どなたか都合のよい令嬢は……」
なにやら呟いていたテリルは、そこでようやく当初の話を思い出す。
「……あ、なるほど。それで私なのですね。分かりました。そういうことでしたら、喜んで求婚をお受けします」
「え」
予想外の即答。
この展開に、天下の国宝級令息、王室騎士団長にして次期宰相と目される美貌の英雄、特別顧問魔術師、あのイラリオン・スヴァロフが出したとは思えないような、間抜けな声がイラリオンの口から飛び出した。
まさかこんなにあっさり了承してもらえるなんて。
「ほ、本当ですか?」
「はい。但し、この結婚は契約結婚にしましょう」
「契約……?」
先ほどからイラリオンを喜ばせては地獄に叩き落とすテリルに、イラリオンは警戒しながら首を傾げた。
「はい。いつでも好きな時に、イラリオン卿から契約解除をできる結婚にするのです。そうすれば、イラリオン卿に本当に愛する人ができた時、邪魔な私はいつでも排除できますから」
「………………」
イラリオンはこれまで、どんなに難しい問題に直面しても必ず解決してきた。しかし、彼女ほど難解な謎が、この世にあるだろうか。
静かに頭を抱えたイラリオンは、疲れ切った脳を再び回転させた。