第五章 切実な想い
ラナンキュラスを挟んだテーブルの上には、重い沈黙が広がっている。
その沈黙を破ったのは、テリルの溜息だった。
彼女は手入れのされていないボサボサの髪を掻き上げると、吹っ切れたように前を見る。
「はあ……。あなたはそういう人でした。頭が良くて、鋭くて、いつも正しい答えを導き出してしまうんだから」
そうして困ったように眉を下げて笑い、不思議な色彩を放つその瞳を真っ直ぐにイラリオンへと向けた。
「そのように断言されるということは、今さら言い逃れしたって無駄なんでしょうね。相手は他でもない、イラリオン卿、あなたなのですもの。あなたに何もかもを隠し通せると思っていたなんて、自分の傲慢さに呆れてしまいます」
そこにいたのは、先ほどまで何かに怯えていた口数の少ない令嬢ではなかった。
強い瞳でイラリオンを射抜く、あの日出会った少女そのものの女性。
「では……」
「そうです。もう諦めて白状します。あなたが先ほどおっしゃったことは全て、私がやったことです。……ご迷惑でしたか?」
「とんでもないです。私がどれほどこの花に助けられたか、あなたには想像すらできないでしょう」
イラリオンは切々とその想いを訴えた。
「私が目指そうとする道を、当初は多くの人々が嘲笑いました。父の跡を継ぎ立派な宰相となりたい、剣の腕を磨き騎士となって戦争を終わらせたい、研究した魔術の新説を世に発表したい。同時に多くを望む私の夢は時に呆れられ、無理だ、無茶だ、無謀だ、と止められました」
今でこそその実力を認められ、多くの称号と功績を手にして誰からも讃えられるイラリオンだが、彼が今の地位を築くまでには、血の滲むような努力と絶え間ない絶望、そして挫折があった。
「このラナンキュラスの花を送ってくれた人だけは、私が世間に注目されるずっと前から、変わらずに花を送り続けてくれました。いつも私を応援し味方でいてくれる人がいる。そう思えたからこそ、私はここまでやってこれたのです」
その苦悩の中で、あの日出会った少女の言葉と、節目節目に届くラナンキュラスの花が、どれほど大きな救いをもたらしていたか。
真剣に語るイラリオンを見て、テリルは申し訳なさそうに目を伏せた。
「私には、花を送るくらいしかできることがなかったんです。あなたが孤独であることは分かっていました。毎日歯を食いしばって血反吐を吐くような努力をしてきたことも。人々はあなたの華やかな外見と才能だけを褒め称えますが、あなたが一日も鍛錬を欠かさないことや、寝る間を惜しんで必死に励んできたことを知ろうとする人なんていないんですもの」
イラリオンの目には、彼女が怒っているように見えた。イラリオンの外面ばかりを讃える人々に対して、イラリオンが経験してきた苦悩を知りもしないで、と。
そんなふうに怒ってくれている人がいる事実に胸が熱くなったイラリオンは、目の前の女性に再び巡り会えたことを神に感謝した。
「でも、どうして花の送り主が私だと気づいたのです?」
イラリオンが密かに感激していると、テリルは不思議そうに疑問を口にした。ふと笑ったイラリオンは、その問いに答える。
「ラナンキュラスの花は戦場にまで届きました。それも、戦地の真ん中にです。私は軍の総司令官として、食糧の配給や郵送物とは別ルートで届けられたその花の運び人を特定する必要がありました」
その先を察したテリルは、頭を抱えた。
「私にラナンキュラスを運んでくれていたのは人ではなく、一羽のカラスでした」
「あの子ったら……見つからないようにとあれほど言いつけておいたのに」
口を尖らせて小さな声で文句を言うテリル。その可愛さに胸を撃ち抜かれながら、イラリオンは問いかける。
「あのカラスは私たちが初めて出会った日の前日に、私が助けたカラスですね? あの時はまだ、飛ぶ練習をし始めたばかりの若鳥でしたが」
「……そうです。お陰様ですっかり元気に育ちました。今も定期的に私に会いに来るので、お使いを頼んでいるんです。けど、迂闊なところはあの頃からちっとも変わらないんです」
頬を膨らませて肩をすくめながら文句を言うテリル。そんな彼女を心の底から愛おしく思いながら、イラリオンは姿勢を正して真剣な目をした。
「なぜ今まで、私と直接会うことを避けてこられたのですか」
投げかけられたイラリオンからの問いに、テリルは首を横に振る。
「……答えたくありません」
それは、イラリオンの気質をよく理解した答えだった。
「あなた相手に隠しごとができないことはよく分かりました。ですから理由があった、とだけ言っておきます。ですが、その理由をお教えすることはできません」
隠されるわけではなく、真正面から答えたくないと言われてしまえば、イラリオンはそれを無理に暴こうとは思えなかった。
彼女が嫌がるようなことはしたくない。無理に問い詰めることも、聞き出すこともできなくなったイラリオンは、代わりに一番聞きたかったことを恐る恐る問いかける。
「……それでは、これからも私には会ってくださらないのですか?」
やっと巡り会えた彼女が、再び目の前から消えてしまったら。イラリオンは自分でもどうなるか分からない。その切実な想いが伝わったのか、テリルは眉を下げながらも慎重に考え込んだ。
「……分かりません。ただ、ここまでバレてしまったのなら、もう開き直ってもいいかなと思っています」
寂しそうなイラリオンを見てそう答えたテリルに、イラリオンは身を乗り出して懇願した。
「でしたらどうか、私の求婚の件も真剣にお考えください」
「それは……」
途端に揺れたテリルの瞳を見逃さず、イラリオンは慌てて付け加える。
「もちろん、私個人の私欲のためだけに申しているのではありません」
ここで断られてはイラリオンの心が折れてしまう。なんとしてもテリルに頷いてほしいイラリオンは、先ほどの伯爵の行動を利用することにした。
「あなたに対する伯爵のあの態度は目に余ります。このような家に恩人であるあなたを置いておくわけにはいきません。どうか私に、あなたを助けるお手伝いをさせてくれませんか」
「つまり、あなたの求婚を受け入れてこの家を出る、ということですか?」
「……そうです」
「ダメです。それは絶対に受け入れられません」
それは見事な即答だった。イラリオンの心が絶望に打ちのめされる。
しかし、どんな境地に立っても乗り越えてきた男、国宝級令息の英雄イラリオン・スヴァロフは、こんなことで諦めはしない。
イラリオンは、テーブルの上に置かれた一輪の花を見た。
「……ラナンキュラスには、『忘恩』という花言葉もあります。あなたは私に、恩を忘れるような恩知らずになれと? あなたに恩を返す機会すら与えてくださらないのですか?」
眉を寄せてその美貌を全面に出しながら、つらそうな顔をするイラリオン。
その言葉を聞いたテリルは、ハッとしてラナンキュラスに目を落とす。
そして意を決したかのように口を引き結び、その幻想的な瞳でイラリオンを射抜くと、彼女は衝撃的な一言を発した。
「イラリオン卿。私はあなたを愛しています。あなたのためならこの命を差し出してもいいと思うくらい、心から」
「……ッ!」