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第四章 秘密の花色




 ステッキを振り上げた伯爵は、思い出したように息を吐いて自らを落ち着かせた。


「やれやれ。危うく嫁入り前の娘に傷をつけるところだった。これからは気をつけないとな」


 身構えていたテリルは殴られなくて済んだことにホッとしつつも、父の言葉にドキリとする。


「お父様。その件ですが、私にはとてもあのお方の妻は務まりません。どうかお断りを……」


「まだふざけたことを抜かす気か!?」


 ステッキの先を向け、伯爵は娘を威嚇した。


「いいか、相手はあのイラリオン・スヴァロフだぞ!? この縁談がどれほど我が伯爵家に利をもたらすか、そんなことも分からん小娘が! 貰い手のない出来損ないが! 勝手なことをほざくな!」


「……ッ!」


 髪を引っ張られ、テリルのクセ毛に隠れていたその顔が顕になる。


 その瞳を見た伯爵は、吐き捨てるように言った。


「何度見ても気味の悪い目だ。卑しい血の混じったお前を引き取って育ててやった恩を忘れたのか、この恩知らずめ!」


「ッ!」


 思い切り投げ飛ばされたテリルが床に叩きつけられそうになったところで、すかさず力強い腕がその体を受け止めて助け起こした。


「大丈夫ですか?」


「えっ?」


 驚いたテリルが目を見開き、伯爵はステッキを取り落とす。


「あ、あなたはっ!」


 そこには国宝級令息のイラリオン・スヴァロフが、跪いて気遣わしげな瞳をテリルに向けているではないか。


「どこか、お怪我はありませんか?」


 テリルに怪我がないことを目視で確認すると、イラリオンは伯爵にその清廉な青い目を向けた。


「伯爵閣下。これはいったい、どういうことでしょう?」


「な、なぜイラリオン卿がここに……」


 たじろいだ伯爵は、しどろもどろになりながらも呟く。


「玄関先でお取り次ぎをお願いしていたところだったのですが、尋常ではない怒鳴り声が聞こえ緊急事態かと思い、不躾にも上がり込んでしまいました」


 テリルを丁寧に支えながら立ち上がったイラリオン。その真っ直ぐな視線に耐えきれず、伯爵は汗を流した。


「この無礼はお詫びいたします。ですが、あまりにも穏やかではない場面に居合わせてしまい私も混乱しています。この状況をご説明いただくことは可能でしょうか?」


「ご、誤解です……! あー、その。よくある家族間の小さな問題です。少々力が入りすぎてしまったようだ。テリル、すまなかった。怪我はないか?」


「…………」


 白々しい伯爵の言い訳と呼びかけに、テリルは答えなかった。突然現れたイラリオンに驚いて、答えている余裕がなかったのだ。イラリオンはテリルを庇うように前に立つと、伯爵に向けて丁寧に口を開いた。


「伯爵閣下。本日はテリル嬢をお誘いしたく参ったのですが、この様子では外出は難しそうです。代わりに令嬢と二人でお話をさせていただきたいのですが、お許しくださいますか?」


「それは……っ!」


 テリルに余計なことを言われては困る伯爵は焦ったが、かといってここで断れば伯爵の行為が怪しまれてしまう。


 伯爵はテリルを睨みつけると、イラリオンに対して愛想の良い笑みを浮かべた。


「もちろんですとも。準備しますのでどうぞこちらへ」


 応接室を用意した伯爵は、余計なことは何も言うな、と小声でテリルに釘を刺して大人しく部屋を出て行った。


 あろうことか伯爵は、部屋の中にイラリオンとテリル二人だけを残して完全に扉を閉めた。


 本来であれば、未婚の……それも婚約すらしていない男女を密室で二人にするなどあり得ない。


 最低限の礼儀として、こうした場では扉は開けておくものだ。それを閉め切ったということは、伯爵は娘を好きにしてくれと言っているようなもの。


 今ここにいる男が自分じゃなかったら、イラリオンは怒りに任せて伯爵を吹き飛ばしてしまったかもしれない。


 だが今は、せっかく会えた目の前の人との時間を大切にしたかった。


 伯爵に対する憤りは一旦抑え、イラリオンはテーブルを挟んだ向かい側に座る彼女に改めて体を向けた。


「申し訳ありません。返事は急がないと言いつつ、待ちきれずにこうしてテリル嬢に会いにきてしまいました」


「いえ……助けてくださりありがとうございます」


 丁寧なイラリオンに対し、テリルは目を合わせず礼を言う。


「何があったのか、お聞きしても?」


「……特別なことがあったわけではありません。父の申していたとおり、少々誤解があったのです」


 下を向いたまま淡々と答えるテリルを、イラリオンは静かに観察していた。


「そうですか。……もしかして私の行動はご迷惑でしたか?」


 急に沈んだ声を出すイラリオンに、テリルは慌てて顔を上げた。


「そ、そんなことはありません!」


 そして自分を見つめる美貌の英雄と正面から目が合う。


「やっと、その瞳を見せてくれましたね」


 微笑んだイラリオンは、どこからともなくオレンジ色のラナンキュラスを取り出してテリルに差し出した。


「ッ!」


 その花がラナンキュラスであること。オレンジ色であること。テリルは怯えながら、恐る恐るその花を受け取る。


「私達がこうして面と向かってお会いするのは四度目です」


 テリルが花を受け取ってくれたのを見て、イラリオンは目を細めながら囁いた。四度目、という言葉にテリルは大きく反応した。


「初めて出会ったあの幼い日に、あなたは私の進むべき道を照らしてくれました。あなたがいたから今の私があるのです。私はずっと、あなたに感謝して生きてきました」


 大袈裟なイラリオンにギョッとしたテリルは、彼の言葉を全力で否定した。


「それは……っ、違います。全てはあなたの実力で、私は関係ありません!」


 否定するテリルを見て、イラリオンは嬉しさを抑えることができなかった。


「やはり、覚えてくれていたのですね」


「あ……」


 咄嗟に手で口を覆ったテリルだが、テリルがあの日の少女であることも、あの日のことを覚えていたことも、イラリオンに確信させてしまった。


 しかしイラリオンは、戸惑ったように怯える彼女が忍びなく、すぐに話題を変える。



「テリル嬢。突然ですが、私の昔話にお付き合いいただけますか?」


「…………」


 ゆっくりと頷いたテリルの、その細い手の中に握られたラナンキュラスの花に指を伸ばして、イラリオンは話し始めた。


「私はこのラナンキュラスの花が好きです。私の人生の節目にはいつも、この花がありました」


 懐かしむようなその眼差しに柔らかさを乗せて、イラリオンは黙り込むテリルに自分の話を聞かせる。


「それはとても奇妙で、そして不思議な縁でした。例えば論文を初めて魔塔に認められた時、アカデミーを首席で卒業した時、騎士団に入り実力を認められた時、父の改革を手伝い成功した時、ソードマスターになった時も、騎士団長に就任した時も、特別顧問魔術師の称号をいただいた時も、戦争で勝利した時も。まるで私の活躍を祝ってくれているかのように、私の元にはいつも、送り主不明のラナンキュラスが届いたのです」


 ビクリ、と反応するテリルを愛おしげに見つめながら、イラリオンは更に続けた。


「時には緑、時には紫、時には黄色、ピンクに赤に……とにかく色とりどりのラナンキュラスが、その時々の私を癒し、励ましてくれました」


「…………」


 テリルは何も言わなかった。想定内のイラリオンは更に続ける。


「ラナンキュラスが運んでくれていたのか、私はいつだって強運に恵まれてきました。いつもいつも、思ってもみないような幸運が訪れては、私を導いてくれるのです」


 イラリオンは、これまで誰にも話したことのないその話を、テリルに語って聞かせた。


「現魔塔主のグレゴリー氏が私の論文を目にしたきっかけは、とある匿名の手紙に熱心に勧められたからだとか。その熱意に押されて論文を読み、私に声をかけてくださいました」


「…………」


 テリルの肩が、ピクリと揺れる。


「アカデミー卒業後、騎士団への入団を希望した際は、少々物議を醸してしまったこともあります。宰相を多く輩出した文官の一族であるスヴァロフ家から騎士が育つのかと。そんな時、公明正大を謳う騎士団には血筋や家柄で騎士の素質を判断しようとすることに対する抗議文が届いたそうです」


「…………」


 テリルは拳を握り締めた。


「他にも私は一度、命を落としかけたことがありました。戦争で負傷した部下を救出するため、単身で敵地に乗り込んだ時のことです。重傷の部下と共に逃げ惑い、私自身も怪我を負った中で、誰かが私達を助け、安全な洞窟に導いて夜通し看病してくれました」


 あの日負った傷跡が残る自らの肩に触れて、イラリオンはテリルを見た。


「意識は朦朧としていましたが、私はあの日、確かに夜明け色の瞳に向けて感謝を伝えた記憶があります」


「…………」


「その日の朝、すっかり軽くなった体で目を覚ますと、そこには誰もおらず、一本のラナンキュラスだけが残っていました」


 ここまで黙って話を聞いていたテリルは、イラリオンが話し終わるとオレンジ色のラナンキュラスをテーブルに置き、背筋を伸ばして彼に向き直った。


 イラリオンもまた、背を伸ばしてテリルを見る。正面からピタリと合わさり、逸らされないその瞳に安心しながら、イラリオンは確信を口にした。



「私を助けてくれていたラナンキュラスの送り主は、あなたですね?」







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