第三章 恋する英雄
「そういえば、最初はお前がメイドに求婚したと聞いたから驚いたぞ。どうしてテリル嬢に求婚した話がメイドに求婚の話になるんだか」
首を傾げる王太子に、イラリオンは淡々と説明した。
「それは彼女がクルジェット伯爵家でメイドの格好をさせられてメイドの仕事をしていたからだろうな」
「……は? なんだって?」
動きを止めたヴィクトルは眉を顰めて美貌の親友を見た。
「テリル嬢は伯爵家で冷遇されていた。とても令嬢としての扱いを受けてきたようには見えない。私がテリル嬢に求婚したいと言った時の、伯爵夫妻とソフィア嬢の形相といったら。私を狂人扱いまでしていた」
「待て。待て待て。情報量が多すぎる。彼女は変わり者と噂されているとはいえ、誰よりも正統なクルジェット家の令嬢だろう。メイド扱いとは……それに、お前を狂人? 天下のイラリオン・スヴァロフを? 俺の親友を?」
ふつふつと怒りが込み上げるかのように、青筋を浮かばせるヴィクトル。それに対してイラリオンは冷静な目を向けた。
「私はテリル嬢が求婚を受け入れてくれたら、すぐにでもクルジェット伯爵家から連れ出そうと思っている。婚約者であれば、私の邸宅に住んでも問題ないだろう?」
「それは……そうだが。そもそもお前の話が本当なら、クルジェット伯爵家には調査が必要じゃないか。だって現クルジェット伯爵は……」
「その件に関しては、どうか今は動かないでくれないか。テリル嬢が現状をどう思っているのか分からない。彼女がことを荒立てたくないのであれば、穏便に済ませてあげたい。本当はすぐにでも彼女をあの家から連れ出したかった。しかし、彼女の意に反することはしたくないんだ」
イラリオンの表情を見たヴィクトルは、言いたいことを呑み込んでただただ頷いた。
「……分かった。お前がそう言うなら」
「それに。出るところに出た時の準備はもうできているから問題ない」
淹れ直した熱い紅茶に口を付けながら恐ろしい一言を漏らしたイラリオンに、ヴィクトルはゾッとする。
そうだった。目の前の美貌の青年、先ほどまで自分自身を恋に落ちた愚か者呼ばわりしていた彼は、この国が誇る英雄だった。
その仕事の速さときたら。王室騎士団長として多忙を極めるくせに宰相補佐までこなして、更には魔塔の研究にも携わっているかと思えばこうしてヴィクトルとお茶する時間を確保するくらい、規格外な出来の良さなのだ。
そんなイラリオンが、初恋相手の事情を知って黙っているわけがなかった。既に手を打っているのか。それはそうだろう。当然だ。
親友のいつも通りの有能さにヴィクトルが感心していると、急にソワソワと揺れ出したイラリオンは、改まったように咳払いをした。
「コホン。それで……ヴィクトル。頼もしい王太子殿下に一つ、お願いがあるんだが」
ヴィクトルは、今日何度目かの驚愕に目を見開いた。あのイラリオンが。今まで王太子の親友という立場にもかかわらず、公私混同などしたことはなく、ひたすらにヴィクトルに尽くしてくれた男が。
初めてヴィクトルに何かを〝お願い〟してくれるだなんて。
親友から頼られて嬉しいヴィクトルは、咳き込みそうになりながら目を輝かせた。
「な、なんだ? なんでも言ってみろ!」
前のめりになったヴィクトルへと、イラリオンはもう一度咳払いをしてから口を開く。
「彼女を迎え入れるにあたり……調度品やドレスを揃えたいのだが、これまでそういったこととは無縁だったので、勝手が分からず……女性ものの商品に詳しい者を紹介してもらえないだろうか」
なんだそんなことか。少々拍子抜けしたヴィクトルだが、それでもあのイラリオンが自分を頼ってくれたのが嬉しくて、何度も頷いてみせた。
「すぐに手配しよう」
「助かる。ついでに屋敷も購入したから内装工事も必要なんだ。短期間で終わらせるには王都中の職人を雇わないとな」
それを聞いたヴィクトルは、今度こそ紅茶を吹き出した。
「おっ、お前……何を購入したって?」
「屋敷だ。結婚するなら、スヴァロフ侯爵家とは別の新居があったほうが彼女も気楽だろう?」
「…………」
あんぐりと口を開けたヴィクトルは、いよいよ目の前の麗人がイラリオン・スヴァロフのドッペルゲンガーではないかと疑い始めた。
いや、こんな超絶美男がこの世に二人もいるはずはないのだが、しかし。
物欲など皆無、無欲で散財とは無縁の男。仕事一筋、清廉潔白、質素倹約、勤倹小心。どんな大金を手にしてもすぐに神殿に寄付してしまうそんな男が。ヴィクトルの理解が追いつかない勢いで盛大に金を使っている。
それも、全ては王国一の変わり者令嬢のために。
「スヴァロフ家からも信頼できる使用人を連れて行こうと思うんだが、どんなに準備しても足りない気がしてならない。やはり使用人も新たに雇い入れて……そうなると優秀な人材をどこで……庭園には特に力を入れたいから庭師は……」
その後もブツブツと、真剣ながら幸せそうに結婚後の新居の話をするイラリオンは年相応の……というよりも、遅れてきた春を謳歌する少年のように見えた。
親友が結婚するという事実をだんだん実感してきたヴィクトルは、居ても立っても居られなくなる。
「あー、ついにお前が結婚か! その、式にはもちろん呼んでくれるよな? 当然、俺はお前の親友なんだから、新郎の友人代表としてベストマンを……」
ワクワクしながら親友の様子を窺うヴィクトルに、イラリオンは爽やかに微笑んだ。
「ああ。王太子殿下に依頼するのは気が引けるが、私の親友はヴィクトルだけだから。君さえよければ、ぜひお願いしたい」
誰からも大人気の親友からそう言われたヴィクトルは、静かに喜びを噛み締めていた。本当は叫びたいほど嬉しいが、王太子としての威厳がある。
「ふふん、楽しみだな」
ニヤける口元を隠して冷静さを装いながら式の日取りはいつがいいだろうか、と盛り上がるヴィクトルだが、イラリオンは紅茶を飲むとカップを置いて目を伏せた。
「だが、まずは彼女から色良い返事をもらえなければ意味がない」
浮かれるヴィクトルとは反対に、急に沈んだ声を出すイラリオン。その呟きを聞いたヴィクトルは、思わず笑ってしまった。
「はあ? おいおい、イラリオン。お前は国宝級とまで称されるイラリオン・スヴァロフだぞ? どこの世界にお前の求婚を断る令嬢がいるんだ?」
しかし、笑っていたヴィクトルは、イラリオンの表情を見て次第にその笑みを引っ込める。
「嘘だろ。まさか、お前……フラれそうなのか?」
「……正直に言うと、自信がない。私は彼女に不釣り合いじゃないだろうか?」
両手で顔を覆うイラリオン。
それを見たヴィクトルは、いよいよこれは夢ではないのかと疑い始めた。
あの天下のイラリオンが女にフラれる? それこそ悪夢もいいところだ。
いつも堂々と、戦場にあってさえ高貴な姿のイラリオンが、こんなふうにモジモジとして自信なさげにしている姿は新鮮だが、親友として看過できない。
テリル・クルジェット。噂でしか聞いたことのない変わり者令嬢の彼女は、どれほど魔性の女なのか。
イラリオンを泣かせたらただでは済まさない。
国宝級令息の親友である王太子は、心の中でそう誓ったのだった。
◇
「テリル! 我が娘よ!」
「ひっ!」
国宝級令息イラリオン・スヴァロフが衝撃の求婚をしたその翌日。いつものように朝から床磨きをしていたテリルは、自分を抱き締めようと手を伸ばしてきた父を全力で回避した。
ゾッと鳥肌を立てながら後ずさるテリル。そんな娘へと、伯爵は満面の笑みを向けてくる。
「なぜ逃げるんだい? 私の愛しい娘」
「お父様……いったいどうされたのですか?」
テリルの声には底知れぬ恐怖が宿っていた。長年虐げられ、空気よりも軽い扱いを受けてきたテリルにとって、この男から笑顔を向けられるのは背筋が凍るほどに悍ましいことだった。
テリルの前に立ち塞がる伯爵は、演技じみた声で話しながらにじり寄ってくる。
「今までお前には苦労をかけすぎてしまったと思ってな。もうそんな雑用はしなくていい。これからはお前をソフィアと同等に扱おう。部屋もあの屋根裏から新たな部屋に移してやる。ドレスも好きなだけ買ったらいい」
ニヤニヤとしたその下卑た笑みに吐き気さえ覚えながら、テリルは必死に首を横に振った。
「お気遣いは有り難いのですが、私は現状に満足しておりますので結構です」
「馬鹿を言うな!」
ニヤニヤしていたかと思えば突然怒鳴られて、テリルはビクリと身を固くした。
「あのイラリオン卿がお前に求婚したんだぞ! お前をこんなみすぼらしい姿のままにしておけば、私が悪者扱いされるではないか!」
そう叫ぶと伯爵は持っていたステッキを振り上げた。