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第三十五章 過去と未来




『この現象を、どう思う?』


「想定内の術式の反作用だ。過去の改変と時空の歪みにより取り残された意識と記憶の残滓。その時が来たら、君は完全に消滅するだろう」


『なるほど。僕は君に送るはずだった記憶の塊でしかないと思っていたが、それがこうして一時的に自我を持てたのは興味深い。君の言うとおり、僕が存在できるのは、術を展開していたこの数時間だけだろうな』


 二人のイラリオンは、目も合わせず淡々と会話を続ける。


「このまま消えるつもりか?」


『テリルの新しい未来に、僕はいるべきじゃない。一刻も早く消えてしまうべきだ』


 その場に座り込んだ影のイラリオンは、眩しそうに月を見上げながら呟く。


『僕は君が羨ましいよ。この先の彼女の未来にいられるなんて。どうして同じ自分なのに、こうも違うんだろうか』


 その隣に同じように座り込んで、月を見上げるイラリオン。


「私は君が羨ましい。彼女と多くの時を共に過ごし、その記憶に深く刻まれているなんて。嫉妬でどうにかなりそうだ」


 テリルの過去と未来を挟んで対極にいる二人は、同じ外見に同じ格好で、憎しみをぶつけ合う。


『はは。そうだな。僕は君よりもずっと多くの時を彼女と過ごした。なのに僕は彼女を守れなかった』


「……」


『君は僕みたいにならないでくれよ』


 そこで漸く目が合った二人のイラリオン。鏡を見ているわけではないのに、そこにいるのは自分ではない自分。


 その考えも想いも手に取るように分かってしまう二人は、暫く互いを観察していた。



「なぁ、……私と一緒に来ないか」



 不意に、この先の未来を生きるイラリオンが、実体のない消えゆく自分に囁きかける。


『いいのか? 君は僕を恨んでいるだろう? 殴り倒したいくらいに』


「君も私を妬んでいるじゃないか。取って代わりたいと願うくらいに」


『当然だ。彼女を奪われるんだから。……滑稽だな。同じ人間なのに、互いを憎んで恨んで妬んで、こんなふうに張り合うなんて』


「まったくだ。しかし、このままじゃ君は私と勝負もせず消えることになる。そのくせ彼女の心に巣食い続けるなんて、狡いじゃないか。それに……彼女の中に、私の知らない私との思い出があるのは許せないからな」


 だから一緒に来い、と言う自分に、イラリオンは呆れた目を向けた。


『我ながら嫉妬深い奴だ』


 立ち上がり、イラリオンの前に立った影のイラリオンは、挑むような目をしていた。


『僕を受け入れたら、苦しむのは君だ。全てを諦めるような苦痛と挫折、絶望の記憶が一度に脳に刻まれる。耐える自信があるのか?』


 対するイラリオンも、挑むような目を自分に向ける。


「そんなものはいくらでも引き受けようじゃないか。彼女が私のためにそうしてくれたように」



『……じゃあ頼むよ、イラリオン』


 先に目を逸らしたのは、だんだん薄くなっていく影のイラリオンだった。


『僕を未来に連れて行ってくれ』


 彼はフッと笑うと、ゆっくりともう一人の自分に近づく。その姿はもう霞のように朧げだ。


『せめてもの意趣返しだ。この記憶を引き継いでせいぜい苦しんでくれ。そして絶望して……それを糧に、一生を賭けてテリルを幸せにしてやってくれ』


「望むところだ……ラーラ」











 その記憶の中のイラリオンは、ずっとテリルが好きだった。


 初めて会った瞬間から既に、一目惚れしていたのだと思う。


 明るくて大胆で、不思議で素直。彼女のコロコロ変わる表情も、自分にはない発想も。その夜明け色の不思議な瞳も。人生を変えてくれた彼女の全てが慕わしくて仕方なかった。


 最初はテリルの足の件もあり、義務感や罪悪感、そして彼女を守る使命感が大きかったが、テリルと過ごす時が増えるに連れ、イラリオンの気持ちは〝親友〟で留めておくのが不可能なほどに大きくなっていった。


 二人の時間を誰にも邪魔されたくなかったし、テリル以外の人間に割く時間がとにかく惜しかった。


 幼いうちから自覚した恋心をイラリオンがすぐにテリルへ打ち明けなかったのは、イラリオンの目標の一つに戦争を終結させることがあったからだ。


 いつ死んでしまうか分からない戦場に身を投じようとしているのに、そんな状態でテリルに愛を告げるのは、母との死別を経験したことのあるイラリオンにとって無責任なことのように思えたのだ。


 だからイラリオンは戦争から生きて戻ったら、彼女に求婚しようと思っていた。真っ赤なラナンキュラスの花束を差し出して、永遠に一緒にいてほしいと。


 しかしイラリオンは、帰還したその足で訪れたクルジェット伯爵家の離れの庭で、信じられない言葉を聞いてしまう。



『絶対にイヤです! 私は……私は、彼とだけは何があっても結婚しません! 彼とだけは、絶対に!』



「…………ッ!」


 衝撃だった。他でもないテリルの声で、誰よりも多くの時を一緒に過ごしたあの庭で、自分との未来を否定された。自分がそれほど彼女から嫌われていたなんて、思ってもみなかった。


 ショックのまま彼女の前に出たイラリオンの手には、使い道のなくなったラナンキュラスの花束。


 それは?と他でもない彼女に聞かれ、咄嗟に王女に持って行くのだと適当な言い訳をして背中に隠した花束は、強く握りすぎたせいでぐちゃぐちゃになっていた。




 イラリオンは戦争の功績を讃えられて、英雄の称号と伯爵位を授けられた。


 国王からは王女との縁談を持ちかけられたが、イラリオンはやんわりとそれを断った。


 浴びるほどの賛辞の中で誰に褒められようと、愛する人からの拒絶がいつまでもイラリオンの心に暗い影を落とし続けていた。




「ねぇ、ラーラ。あなたは……そろそろ結婚を考えたりしないの?」


 ある日イラリオンは、テリルからそんな言葉を投げかけられた。


 巷では諦めの悪い国王が流したイラリオンと王女との結婚話が噂になっていて、それを耳にした彼女までそんなことを聞いてくるのかと思うと、イラリオンはどうしようもなく腹が立って彼女の顔を見れなかった。


「僕は結婚する気はないよ」


 口から出た言葉は自分でも驚くほどに素っ気ない。


「……どうして?」


 その時イラリオンは、少しだけでいいから自分の痛みを彼女に知ってほしいと思ってしまった。


「好きな人がいるんだ」


「え?」


「……けど、その人と結ばれることは絶対にないから。だから僕が結婚することはないよ。永遠にね」


 どんな反応をされても傷が抉られそうで、イラリオンは結局、彼女のほうを見ずにその場を去った。




「お前がアイツを殺したんだ!」


 グッと襟元を掴まれたイラリオンは、王太子ヴィクトルから憎悪の目を向けられていた。


「よくもエリックを……! アイツの恋人が誰か、知っていて見殺しにしたのか!?」


「……!」


「自分だけ助かって何が英雄だ、この卑怯者! そもそもお前のことは昔から気に食わなかった。いつも俺の誘いを断って見下して、散々馬鹿にして。お前のような奴に、アナスタシアは渡さないっ!」


 罵倒を浴びせられ、投げ飛ばされ殴られても、イラリオンは抵抗しなかった。


 最後までイラリオンを侮辱し続けた王太子が帰っていくと、聞き慣れた車椅子の音がした。


「ラーラ……」


「テリル? どうしてここに……」


 滅多にクルジェット家から出してもらえないテリルがスヴァロフ家の邸宅にいることに、イラリオンは何よりも驚いた。


「あなたのお父様が、最近あなたが塞ぎ込んでいるからって、私を呼んでくださったの」


「父上が……?」


 それだけでイラリオンは、父のお節介を理解した。イラリオンが、誰を想っているか。父に気づかれていたのかと思うと、父の気遣いが有り難くも憎らしい。


「ねぇ、さっきの王太子殿下の話……何があったの?」


 誰よりも見られたくない人に、情けない姿を晒してしまったイラリオンは、もう何もかもがどうでも良かった。





 イラリオンとエリックは、互いに信頼できる戦友でもあった。


『俺、身分違いの恋をしてて……でも、彼女のために必ずこの戦争で手柄を立てて出世したいんです』


 戦場でそんな話をする彼に、イラリオンもつい口を滑らせてしまった。


『実は僕も、生きて帰れたら想いを告げたい人がいる』


『ええっ!? そうなんですか! じゃあ必ず二人で生きて帰りましょう、団長!』


 しかし、手柄を急ぐあまり無茶をするエリックを、イラリオンは止めることができなかった。


『団長……俺のせいですみません。もう俺は助からないだろうから、どうか一人で逃げてください』


『馬鹿なことを言うな! 部下を見捨てて逃げるわけないだろう!』


『団長も、想いを告げたい人がいるんでしょう……? どうか生きて帰って、俺の分まで幸せになってください』


 エリックは自分を見捨てられないイラリオンを逃がすため、その場で自分の胸に剣を刺した。


 王太子の言動から、エリックの恋人が王女だったと悟ったイラリオンは、改めて自分の犯した罪の重さを知る。


 部下の命を犠牲にしてまで生還したのに、イラリオンは想いをテリルに伝えることすらできていない。情けない自分に心底嫌気が差した。


「僕は……部下を犠牲にして生還した。殴られて当然のことをしたんだ」


 折角気遣ってくれたテリルに、イラリオンはそう言うのがやっとだった。




「イラリオン! そろそろ例の件、いい返事を聞かせておくれ」


 王宮に呼び出されたイラリオンは、相変わらず国王から王女との縁談を迫られていた。


「陛下、大変有り難いお申し出ですが、やはり私に王女殿下は勿体無いと……」


「遠慮するな! アナスタシアと結ばれた暁には、そなたは大公だ! 誰にも謙遜しなくていいような地位を得られるぞ!」


 愉快に笑う国王の大声と、失意のまま無気力なイラリオンの会話を聞いたビスキュイ公爵は、鋭い目を二人に向けていた。

 



 その日、新聞の一面を飾った文字に多くの人々が祝福の声を上げた。双方の意志など関係なく、イラリオンと王女の婚約を、国王が大々的に公言したのだ。


 しかし、翌日。その紙面は真っ黒な内容に変わる。アナスタシア王女の突然の訃報。


 死因は公表されなかったが、イラリオンには王女が自ら命を絶ったのだと容易に想像できた。


「お前のせいだ!」


 王女の葬儀の場で、イラリオンは涙を流す王太子ヴィクトルに公衆の面前で罵倒されていた。


「お前のせいでアナスタシアは死んだ。俺は絶対にお前を赦さない。どんな手を使ってでも破滅させてやる!」


 


 それ以来、事ある毎にイラリオンを目の敵にする王太子派と、イラリオンを擁護する派閥で社交界は割れた。イラリオンには王太子と対立する理由がなかったが、イラリオンを英雄視する周囲の声が勝手に王太子との対立を助長していく。


「イラリオン、お前に罪はない。全ては私の責任、そしてヴィクトルの逆恨みだ」


 娘を失ったことに絶望しながらも、国王はイラリオンの立場に理解を示してくれた。


 しかし、タイミング悪くスヴァロフ領が嵐の被害に遭う。王都から距離を置きたかったイラリオンは率先して領地に出向き、予想以上の被害と食糧危機に直面した。


 同様の被害を受けた近隣領地から反感を買うのを覚悟して他領から食糧を買い漁り、領地の危機を脱して王都に戻ったイラリオンを待っていたのは、さらなる窮地だった。


 スヴァロフ家への牽制で王太子の味方についたビスキュイ公爵。心労がたたったのか、国王は以前のような快活さを失い、王太子派の力が増大していた。


 それに対してイラリオンは、特に手を打たなかった。元々イラリオンは王太子と張り合うつもりもない。ただもう放っておいてほしいと思っていたからだ。




 だが結局、イラリオンの願いは叶わなかった。


「イラリオン。……陛下が崩御された」


 父に呼び出されてその話を聞いた時、イラリオンは己の運命を恨んだ。


「王太子殿下はお前が陛下を弑したと主張して、逆賊に仕立て上げようとしている」


 王太子がイラリオンを破滅させるためにここまでするとは。自分が立ち向かわなければ、父にまで迷惑がかかる。無理矢理王太子との対立に引き摺り出されたイラリオンの元には、もう支持者は残っていなかった。


 それでもイラリオンとスヴァロフ侯爵は王太子の主張に真っ向から対抗した。


 どんなに潔白を証明しても難癖をつけてくる王太子側に辟易しながらも、決して屈さなかったイラリオンはある日、テリルが倒れたという話を聞いてクルジェット家を訪れた。


 グッタリと眠って動かないテリルを見舞ったイラリオンに、クルジェット伯爵が声をかける。


「イラリオン卿とは長い付き合いですが、今後我が家門には関わらないでいただきたい」


「…………」


 クルジェット伯爵が王太子に取り入ろうとしている、と情報を得ていたイラリオンは、特に驚きもせずその言葉を聞いていた。


 しかし、その後に続いた伯爵の言葉には、反応せずにいられなかった。


「卿のせいで、テリルは婚期を逃してきました。まあ、あの足ですからな。元からまともな嫁ぎ先は期待していなかったが、なんとこの度、バーフ子爵がアレを妻に娶りたいと申し出てくれましてね」


「それは……っ!」


 バーフ子爵はイラリオンの父よりも歳上だ。好色家として有名で、彼の元に嫁いで心身を壊した婦人があまりにも多いことは有名だった。


 見るからに取り乱したイラリオンを見て、伯爵はニヤリと笑った。


「陛下暗殺の件ですが、素直に罪を認めた方がよろしいですぞ。アレは今、私の手の内にある。イラリオン卿がこれ以上王太子殿下を煩わせるのなら、アレがどんな目に遭うか。賢いイラリオン卿ならお分かりでしょう」





 邸宅に戻ったイラリオンは、真っ先に父に頭を下げた。


「やってもいない罪を認める気か? そんなことをすればスヴァロフ家は今度こそ終わりだ。家門を捨てるのか?」


「……」


「よく考えろ、イラリオン! 家門と彼女、どっちが大事なんだ!」


 父に怒鳴られても、イラリオンの心は変わらなかった。


 頭を上げようとしない頑なな息子に、スヴァロフ侯爵は背を向けた。




 呆気なく罪を認めたイラリオンは英雄から一転、逆賊と罵られて処刑を待つ身となり牢に入れられた。


 そんなイラリオンを助け出したのは、父とテリルだった。


「逃げろ、イラリオン」


 二人を逃がすために盾となる侯爵。


「父上っ!」


「行きましょう、ラーラ!」


 テリルに手を引かれたイラリオンは、そのまま空間移動の魔法によって、ボンボンの湖に飛ばされた。


「いったいどうやって……」


「あなたのお父様が、これをくれたの」


 テリルが差し出したのは、幼い頃に父を説得するため作ったスクロールだった。


 魔力さえ込めれば遠くにも移動できるそのスクロールを開発して、父に魔術の腕を認めてもらいたかった。イラリオンの想いがこもったそれを、父は保管し続けてくれていたのか。


 二人を庇い血を流す父の背中を思い出して、イラリオンは奥歯を噛み締めた。


「ラーラ、今ならまだ追っ手が来ないわ。侯爵様が別荘に必要なものを準備してくれているから、それを持って早く逃げて!」


「君も……」


「私は行かない」


「どうして」


 振り返ると、移動の衝撃でテリルの車椅子は壊れていた。地面に座り込んだテリルは、動く気配すらない。


「逃げるのよ、ラーラ。お願いだから、逃げて」


「君も一緒じゃなきゃダメだ!」


「無理よ。この体じゃ、あなたの足手纏いになるだけだもの。いいから早く行って」


「できるわけないだろ! 君を置いて行くなんて……!」


「もう嫌なのよ!」


 振り解かれた手は、妙に痛かった。


「いつもいつも、私ばっかりあなたのお荷物で……今回のことだって、私がいなければあなたはいくらでも対処できたはずよ」


 夜明け色の瞳から零れ落ちるテリルの涙が、月の光に反射する。


「あなたが陛下を殺害するはずないでしょう……どうしてやってもいない罪を認めたの?」


「それは……」


 イラリオンには言えなかった。どんな状況でも彼等を家族だと言っていたテリルに、本当のことなど。


 しかしテリルは、自分の身に起きたことを知っていた。


「ソフィアに全部聞かされたわ。私のせいだって……私は、あなたにそんなことをしてもらうような人間じゃないのに!」


 テリルの悲痛な叫びが、湖面に響き渡る。


「あなたには言えなかった。けど、……私はもう長く生きられないの。ずっと飲んでいたあの足の薬ね、実は足を動かなくする毒だったの……あなたを私に縛りつけるために、伯爵がすり替えていたんですって」


「なっ……!」


「その毒のせいで、私、もうすぐ死ぬの」


「嘘だ、そんな……君が、死ぬだって?」


「お願いだから、あなたの足枷にしかなれない、この苦しみから私を解放して!」


「テリル……」


「ねぇ、ラーラ。私、あなたが大好きよ」


「……ッ!」


 それはイラリオンが、何よりも彼女の口から聞きたかった言葉だ。


「心から、愛しているわ」


 しかし、決してこんな状況で聞きたかったわけじゃない。


「だからもう、バイバイしましょう」


 可愛い顔で笑ってイラリオンの心をズタズタに引き裂いていくテリル。


「あなたには、幸せになってほしいの」


 イラリオンは、自分の中の何かが壊れていくのを感じた。


「君は残酷だな……愛する者が誰もいない世界で、どうやって幸せになれって言うんだ」


 涙さえ出ず、呆然と立ち尽くして惨めな自分を嘲笑う。


「何を、どこで間違えたんだろう。ただ僕は、好きなことをやりたいと願って、君と一緒にいたかっただけなのに……」


 絶望の中でこれまでの人生を振り返ったイラリオン。父の跡を継ぐため必死に勉強して、剣を鍛錬して、そして魔術の研究を続けて……そこでふとイラリオンは、禁断の手を閃いてしまった。


「ああ、なんだ。あるじゃないか、方法が」


「ラーラ……?」


「テリル、次は必ず上手くやってみせるよ。僕達二人とも幸せにすると約束する。だから、僕に君の魔力をくれないか」


 顔を上げテリルの肩を掴んだイラリオンの瞳には、狂気が宿っていた。それに気づきながらもテリルは、微笑を浮かべて頷く。


「あなたが望むなら、私はなんだってあげるわ」


「ありがとう。これで全部やり直せる。いや、違うな。なかったことにするんだ。今この時を。こんな結末は、永遠に葬ってしまえばいい」


 湖面に目を向けたイラリオンは、壊れたように笑っていた。


「僕達が出会ったあの日からの全てを、造り替えるんだ」


 その一言を聞いたテリルは、イラリオンが何をしようとしているのか察して息を呑んだ。


「まさか、あなたの研究を……? でもそれは、とっても危険だって」


「関係ないよ。だって僕はもう、こんな世界がどうなったっていいんだ。僕にとって大切なのは、僕と君、それだけだ」


「ラーラ……」


「記憶を送って過去を変えたら君の足だって、自由に立って歩けるようになってる。君は健康で、長生きして。僕はこんなに惨めな思いをしなくて済む」


 イラリオンは自分の指に傷をつけると、溢れ出てきた血で長い長い魔術式を書き出した。


「……あなたの今の記憶を、幼いあの日のあなたに送りつけるつもりなの?」


「そうすれば過去の僕が上手く未来を変えるはずだ」


「でも……あんなにキラキラしてた小さなあなたの心が、その記憶で傷ついてしまわない?」


「当然傷つくだろうし、こんな記憶を植え付けられたら精神が崩壊するかもしれない。けど、それがなんだって言うんだ?」


 一心不乱に血で術を書き記しながら、イラリオンはただただ美しく笑っていた。


「邪魔者は排除して、何もかも僕達に都合の良いように造り替えるんだ。そのためには精神くらいいくらでも壊してしまえばいいさ。そしていっそのことこんな国、滅ぼしてしまえばいい」


「ラーラ……」


 数十分かけて複雑な魔術式を完成させたイラリオンは、テリルの手を取った。素直に母の形見の指輪を外したテリルから、凄まじい魔力と涙が溢れ出す。


 その魔力を取り込んだイラリオンの手で、術式が発動した。


「成功したら君は今頃、幸せに笑ってるはずだ。そんな涙はもう流す必要がなくなってる」


 現れた時空の亀裂にイラリオンが手をかけた、その時だった。


 繋いだ手を強く引かれた反動で、イラリオンとテリルの位置が入れ替わる。


「テリ、ル……?」


「待っていて。きっと私が、あなたを幸せにしてみせるから」


 微笑んだテリルが時空の狭間に吸い込まれていくのを最期に、記憶は途絶えた。









「イラリオン!」


「……テリル?」


 テリルの声に目を覚ましたイラリオンは、夜明けの光を浴びながら湖畔に横たわっていた。


「心配しました。あなた、目を覚まさないんですもの……」


 震えるテリルが、涙ぐみながらイラリオンを見下ろしている。


「別荘に着いたら起こしてくれると言ったじゃないですか。一緒に朝を迎えようって。なのに、一人でこんなところに来て倒れてるなんて。あんまりだわ。……ひどいです、こんなに心配させて」


「すみません。……夢を見ていました」


 まだ夢の名残りが残る頭で、イラリオンはテリルの濡れた頰に手を伸ばす。


「夢?」


「はい。とても長くて苦しい夢でした。ですが、その夢を見ることができて良かったです」


「え?」


 起き上がったイラリオンは、夜明けの空とテリルの瞳を交互に見てその眩しさに目を細めた。そして静かに口を開く。


「テリル。別にこれは、あの男のために弁明するわけでもなんでもないのですが。一つだけ、誤解を解かせていただいてもいいですか?」


「えっと……?」


 急なイラリオンの話についていけず、困惑するテリル。しかしイラリオンは、彼女の混乱も承知の上で話を続けた。


「あの日、あなたの庭に散ったラナンキュラスの赤い花束は、王女殿下ではなく、あなたのために用意されたものでした」


 一瞬、なんのことを言われているか分からなかったテリルは、庭に散る赤い花弁の記憶を思い出して目を見開いた。


「…………ッ!」


「あの花束を後ろ手に隠して逃げた情けない男はあの庭で、あなたに愛を乞うつもりだったのです」


「それって……イラリオン、まさか、あなたが見ていた夢というのは……」


 テリルの夜明け色の瞳が、瞬く間に潤みだす。


「テリル」


 名前を呼ばれたテリルは、小さな嗚咽を上げた。


「あなたが代わりになってくれて良かった。あなたに苦労をかけてしまいましたが、あの時過去に戻っていたのが()だったら、こんなに穏やかな未来は待っていなかったはずです」


 震える彼女を抱き寄せながら、イラリオンは自分の中にいるもう一人の分まで想いを告げた。


「今も昔も、過去も未来も、時空さえ飛び越えて、私が愛するのはいつだって、あなた一人だけです」


「……っ」


「愛しています。心から。この愛を、信じて受け入れてくれますか?」









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― 新着の感想 ―
この偽物の正義感で国を乱し人を踏みつぶした王太子ヴィクトル様は、どこかで真実を知ってきちんと慟哭するのでしょうか。それとももう無い未来でこのまま愚かな王太子ヴィクトルは消えていなくなったのでしょうか。…
[良い点] オーマイガー [気になる点] なし [一言] サイコー
[良い点] なるほど、二人とも過去の記憶と同化したことで、過去に取り残されて不幸になった奴はいなくなったということか。 これは真のハッピーエンド。素晴らしい。
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