第三十四章 二つの決着
「テリル、待っていたぞ……!」
「お父様、お母様、ご無沙汰しております」
約束の日にクルジェット伯爵家を訪れたテリルは、表面上だけは和かな伯爵夫妻に歓迎されていた。
「急に出て行って何も言ってこないから心配していたのよ」
グイグイと中に通されて、強引に座らされたテリルの向かいに座る伯爵夫妻。夫人の嫌味な挨拶もそこそこに、伯爵は前置きもなく話を切り出した。
「早速だが、妙な噂が出回っていてな。私達がお前を冷遇して世間を欺いていたと。無論、お前はそんなことがなかったと誰よりも承知しているだろうが、煩い連中を黙らせてくれないか」
伯爵の横から夫人もまた、今まで一度だってテリルに向けたことのないような笑顔を向けながら早口で喋り出す。
「そうよ。あなたのせいで私達がどれほど誤解されていると思ってるの? まるで悪人扱いよ。この前なんかビスキュイ公爵に脅されたのよ。こんなに迷惑をかけたのだから、私達のために世間へ向けて弁明して頂戴」
まるでテリルが自分達に協力するのは当然とでも言いたげなその主張に、テリルは無表情のまま口を開いた。
「それの何が誤解なのですか?」
「は?」
「へ?」
まるで予想していなかった答えに驚いたのか、テリルの言葉に固まる伯爵夫妻。
「私がこの家で冷遇されてきたことも、メイド以下の扱いを受けてきたことも事実です。時には暴力だって振るわれましたし、暴言も散々吐かれました。それを公表すればよろしいですか?」
「なっ……!」
「何を言い出すの、この恩知らず! 私達がいつそんなことをしたのよ!」
途端に笑顔を引っ込めた夫人がテリルに金切り声を上げる。
「私は事実を言っただけです。そして、今の私とあなた達、世間はどちらの主張を信じると思いますか?」
少しも動じないテリルの物言いに、伯爵夫妻は怒りを露わにした。
「なんだその態度は! さてはイラリオン卿の入れ知恵か!?」
「たまたまいい男を引っかけたからって、いい気になるんじゃないわよ、卑しい血の混じった小娘のくせに!」
「……私のことをどうこう言うのは構いませんが、彼を悪く言うのは許しません。それに、私は何一つ間違ったことを言っていません」
怒り狂う夫妻に対し、テリルはピシャリと言い放つ。
「今日は、もう二度と私と私の夫に関わらないでほしいと伝えに来たのです」
「……!?」
そこで伯爵夫妻は初めてテリルの変化に気がついた。二人の前に座っているのは、これまで伯爵一家が使い捨てのように粗末に扱ってきた華奢な小娘ではない。夜明け色の瞳を少しも揺らすことなく、背筋をピンと伸ばして堂々と話す高貴な貴婦人。
伯爵家にいた時はボロボロのメイド服を着ていたが、今のテリルは次期侯爵夫人に相応しい洗練されたドレスを身に纏い、揺るぎないオーラを醸し出している。
自分達の知る娘とは全く違うその姿に気圧されながらも、伯爵夫妻が尚も言い募ろうとした時だった。
「だ、旦那様、奥様! お客様が……」
メイドの慌てた声と共に入って来た人物を見て、伯爵が掠れた声を上げる。
「イ、イラリオン卿……!?」
「そろそろ話が終わった頃かと思いまして。妻を迎えに来ました」
優雅に頭を下げたのは、他でもないテリルの夫、国宝級令息と名高いイラリオン・スヴァロフだった。
「何をおっしゃいますの! 今来たばかりで、話はまだこれからですわ!」
信じられないとばかりに叫ぶ夫人へと、イラリオンは感情のない目を向ける。
「これ以上、妻があなた達と話すことはないと思いますが」
「な、何ですって!?」
伯爵夫妻を無視して妻の前まで来たイラリオンは、その青い瞳に愛おしさを滲ませて問いかけた。
「テリル、言いたいことは言えましたか?」
「はい。同行すると言ってくださったのに、我儘を言って一人で来てごめんなさい。もう話は終わりました。行きましょう」
「お、おい! 待て、テリル!」
イラリオンの手に掴まって本当に帰ろうとするテリルを止めようとした伯爵。そんな伯爵からさらりとテリルを守ったイラリオンは、思い出したように告げた。
「ああ、そうそう。伯爵閣下。ついでに、私の親友が閣下にお話があるようです」
「は? 何をわけの分からないことを……」
意味深なイラリオンの言葉に狼狽えた伯爵は、扉口に立った人物を見て目を見開いた。
「王太子殿下!?」
鋭い目で伯爵を見下ろした王太子ヴィクトルは、淡々と宣言した。
「ビスキュイ公爵から告発があった。先代クルジェット伯爵の遺言状を、現伯爵が意図的に破棄した疑いがあると。公爵は自らの爵位を賭けて証言すると言っている。筆頭公爵家の当主にそこまでされてしまえば、王室としても黙っていられない。徹底的に取り調べさせてもらおう」
「……っ! 先代の遺言状ですと? い、今さらではありませんか……そんな昔のことっ!」
怯えた表情の伯爵が搾り出した言葉を、ヴィクトルは一蹴した。
「調査して何も出なければそれまでだ。やましいことがないのなら問題ないだろう?」
有無を言わせぬ王太子の合図により、クルジェット伯爵家にはイラリオンの部下である王室騎士団が詰めかけた。
「ちょっと! なんなのよ、いきなり入って来て!」
テリルが来ると聞いて部屋に閉じこもっていたのか、押し入って来た騎士達に叫び声を上げるソフィア。
抵抗する伯爵一家を押し除けて行われた捜査はそこまで時間がかからずに終了した。
「この家の離れに、タラス・クルジェットの遺したもう一つの遺言状が隠されていた」
あの日テリルの瞳を見て記憶を思い出したヴィクトルは、タラスとの約束を果たすために率先してクルジェット家の離れを探し回った。
そうしてテリルの記憶とイラリオンの推測を元に、動物達が寄りつかない離れの庭の一角で、保護魔法をかけられ埋められていた遺言状を見つけ出したのだ。
遺言状にはテリルをクルジェット家の後継者として指名し、全てを相続させる旨と、もし他の者がクルジェット家を掌握し家門の財産を得ていた場合、先に遺した遺言状を意図的に隠匿または破棄された可能性があると記載されていた。
「筆跡鑑定も済んだ。魔塔の魔術師により偽装魔法がなされていないのは検査済みだ。その内容は事前に告発のあったビスキュイ公爵の証言とも合致する。王室はこの遺言状を本物と認める」
新たな遺言状を突きつけられた伯爵は、目を血走らせて怒鳴った。
「こんなのは馬鹿げている! これは家門の問題だ! いくら王太子でも、こんな横暴は……」
「十八年前、王室が貴様をクルジェット伯爵として認めたのは、建国時からの功臣クルジェット家門の存続に関わる問題だったからだ」
かつて先代伯爵に暴れん坊とまで称されたことのあるヴィクトルは、冷静な声でクルジェット伯爵の主張に反論する。
「当時テリル嬢は幼く、先代からの正式な指名がなかったことを理由に貴様は自らが爵位を継ぐのに適任だと主張した。唯一の直系であったテリル嬢を引き取り保護すると誓った貴様に爵位と財産が継承されたが、それが偽証で先代の指名した正統な後継者がテリル嬢だったと分かった今、キュイエール王室はクルジェット伯爵家の事情に介入する義務がある」
「ぐっ……!」
何も言い返せない伯爵に向けて、ヴィクトルは国王から預かったという勅書を堂々と読み上げた。
「長年王室の忠臣であった先代伯爵タラス・クルジェットの遺言状により、テリル・スヴァロフ……旧姓テリル・クルジェットこそがクルジェット家の正統な後継者であり、伯爵位を継承するに相応しいと考えるのが妥当である。また、王室に対し虚偽の宣言をし、先代伯爵の遺言を破棄した伯爵一家の罪は重い。現クルジェット伯爵からは財産と爵位を没収、その後クルジェット家の全ての財産と爵位はテリル・スヴァロフに授けるものとする」
この短時間であまりにも用意周到に全てを奪われた伯爵は、両手両膝を地面につけて項垂れた。
「ふざけるな……こんなことで、全部終わるなんて……」
絶望する伯爵を見下ろして、ヴィクトルはテリルを振り返った。
「本来であればこれは王室を欺いた侮辱行為。彼等は斬首刑、良くても終身刑だ。だが、今回は特別にテリル嬢の意向を反映するようにと陛下からお達しがあった。テリル嬢、君はどう思う?」
一度イラリオンと目を合わせたテリルは、心配そうな彼に向けて頷いて見せた。そして三人の前に立つ。
「お父様、お母様、ソフィア」
テリルが呼びかけると、三人は憎しみと不安の入り混じった目を長年虐げ続けてきた娘に向けた。
「私はあなた達の減刑を嘆願しようと思っています」
「なっ!?」
「どんな形であれ、私を育ててくれたことに対する最低限の恩義からです。その代わり、一つだけ条件があります。これまでのことを……誠心誠意謝罪してください。それで全てを水に流します」
慈悲深さすら感じるテリルの言葉に、真っ先に飛びついたのは伯爵だった。四つん這いで地べたを這い、テリルの前に縋りつく。
「テリル、私が悪かっ……」
「嫌よ!」
そのまま地面に頭を擦りつける勢いで詫びようとした伯爵を押し除けて、ソフィアが自慢の金髪を振り乱しながらテリルを睨みつけた。
「どうして私が、あんたなんかに謝らなければいけないの! 格下のくせに……っ! 出来損ないのくせにっ、ちょっとイラリオン卿に見初められたからって偉そうに! あなたはいつだって、私の下にいなきゃいけないの! 私があなたより下だなんて、絶対にあり得ない!」
「おい、ソフィア……!」
「やめなさい、ソフィア!」
慌てた伯爵夫妻が止めようとするが、そんな両親をソフィアは鬼の形相で睨みつける。
「なぜ止めるの!? お父様もお母様も、私のほうがあの女よりずっと優れてるっていつも言ってたじゃない! 穢らわしいテリル、自分を見てみなさいよ! 本当にあんたなんかが彼に釣り合うと思っているの!? 身の丈を知ったらどうなのよ、この……っ」
絶叫し続けるソフィアの口を塞いだのは、王太子ヴィクトルだった。
これ以上は聞くに耐えない、と思ったのも勿論あるのだが、それ以上に王室騎士団長にしてソードマスターである親友の動きが目に入ったのが大きかった。
ヴィクトルは、燃えるような目をしたイラリオンが剣に手をかけたのを見てしまったのだ。ヴィクトルがソフィアを止めなければ、彼女の首は一瞬で天高く飛んでいたかもしれない。
なんらかの刑は免れないとはいえ、罪状が確定していない令嬢を英雄が惨殺、は流石にまずい。
それでも静かな怒りを滲ませるイラリオンに対して、当のテリルはどこまでも落ち着いていた。
「残念だわ、ソフィア。私は最後のチャンスを与えたのに、あなたはそれすら踏み躙るのね……」
その後三人に背を向けたテリルは、ずっと後ろに寄り添ってくれていたイラリオンに手を伸ばした。
「イラリオン、もう行きましょう」
「はい。あなたがこれ以上ここにいる必要はありません」
イラリオンの手に引き寄せられたテリルは、去り際にヴィクトルへと頭を下げた。
「殿下、ご尽力ありがとうございました。あとのことは王室にお任せします。規定どおりにあの人達を裁いてください」
「テリル! 待っておくれ、テリル! 私が悪かった! ソフィアのことはいくらでも斬り捨てて構わん、だから私だけでも助けてくれ!」
「この状況で私達に背を向けるなんて、なんて残忍な娘! 私達に死ねとでも……っ」
叫び続ける彼等の声は、途中で何も聞こえなくなった。代わりに優しく温かな気配がテリルを包み込んでいる。
イラリオンが魔法で音を遮断してくれたのだと察したテリルは、どこまでも自分を甘やかしてくれる愛しい人の腕にガッチリと捕まえられて、思わずクスクスと笑っていた。
自分以上に怒り、悲しんでくれる人がいる。それが何よりもテリルの心を軽くしてくれるのだ。
「過保護ですね、私の旦那様は」
「……当然です。王国一の愛妻家を目指してますので」
「あら。それは初耳です。また新しい称号を得るつもりですか」
「ええ。今に見ていてください。そのうち私のことを〝英雄〟や〝国宝級令息〟と讃える声よりも、ただの愛妻家だと称する声のほうが多くなるでしょうから」
真面目な顔のイラリオンが言う冗談に、テリルはどこまでも励まされる。
前を向く二人が後ろを振り返ることはない。
その後、伯爵一家がテリルの前に現れることは二度となかった。
◇
「本当に……大丈夫ですか?」
馬車の中で向かい合ったイラリオンが心配そうに問いかけると、窓の隙間から月を見上げていたテリルは微笑みを浮かべた。
「ええ。なんだか、スッキリしました」
「スッキリですか……?」
「もっと、辛くなったり悲しくなったりすると思ったのですが、あなたがいたから……少しも怖くありませんでした。今はただただ解放されたような気分です。本当にありがとうございました」
ビスキュイ公爵とヴィクトルに話を持ちかけ、王室騎士団の精鋭達を指揮し、遺言状の隠し場所を予め推測して、筆跡鑑定や魔塔の検査が必要になることまで見越して準備し、さらには国王にさえ事前の根回しをして勅書をもぎ取っていたイラリオン。
こんなにも早く彼等との決着がついたのは他でもないイラリオンのお陰だと知っているテリルは、夫の敏腕ぶりが誇らしくて仕方なかった。
「テリル、あの……ソフィア嬢の言葉ですが」
イラリオンが一つだけ心に引っかかっていたことを確認しようと口を開くが、しかし。
「気にしてません」
目が合ったテリルは微笑んでいた。
「あなたが時間をかけて私に教えてくれましたから。私があなたに相応しいかどうかを決めるのは、あの子じゃありません。だから私は気にしてません」
何かが吹っ切れたのか、これまでずっと悲観的で自己肯定感の低かったテリルは、彼女が本来持っている前向きさを取り戻しつつある。
そのことが何よりも嬉しいイラリオンは、正面から自分を見てくれるテリルの夜明け色の瞳に向かって、満面の笑みを向けたのだった。
「それより、本当にこのままボンボンに向かうのですか?」
暗くなった道を行く馬車に揺られながら、テリルは首を傾げて問いかける。
「はい。でないと間に合いませんから」
窓から見える満月。そこから目を離して夫の顔を見たテリルは、眉を下げながら困ったように口を開く。
「実は……あなたの用意してくれたこの馬車、ふかふかで眠ってしまいそうなんです」
本当に困ったようにそう言うテリルが可愛くて、思わず笑ってしまうイラリオンは優しい目をしていた。
「ボンボンまで少々距離がありますからね。あなたに快適に過ごしていただきたくて、特注した馬車です。今日は疲れたでしょうし、思う存分眠ってください」
枕と毛布まで差し出してくれるイラリオンを見て、テリルは心配になった。
このままでは本当に、イラリオンが愛妻家を通り越して妻バカと言われてしまう日が来るのではないだろうか。
しかし、それはそれで悪い気がしない。どんな悲惨な記憶を持っていたって、ここまでされてしまえば流石のテリルも嫌というほど分からせられてしまっていた。
イラリオンは他の誰でもなく、テリルのことを想ってくれている。
彼がテリルだけに向ける甘い声も、静かなのに熱心な青い瞳も、言葉の端の一つ一つ、いつだってテリルを気遣う指先も、テリルに関わることにだけ見せる怒りや悲しみも。
イラリオンの言動や態度全てが、テリルのことを好きだと言ってくれているようで、最近のテリルは何をやっても擽ったい気持ちになってしまう。
まだほんの少しだけ、テリルの中には臆病な気持ちが残っている。しかし、それすらもいつかイラリオンが消してくれるだろうと確信するほどの愛を注いでくれる彼に、テリルもまた、応えたいと思っている。
「じゃあ、お言葉に甘えて……別荘に着いたら起こしてくださいね」
「分かりました。……良い夢を」
この旅で、あの夜明けを越えたら。話があると言われているテリルは、甘い予感を感じながら馬車の揺れに誘われて目を閉じた。
馬車が別荘に到着しても、テリルは眠ったままだった。結局彼女を起こさずに、別荘の部屋まで運んで寝かせたイラリオン。
すやすやと安心しきったように眠る愛しい人を見下ろしたイラリオンは、そのふわふわの髪が顔にかかるのを直してやりながら、窓から見える湖に目を向けた。
「私も……決着をつけないとな」
深夜に別荘を抜け出したイラリオンは、薄暗い森を抜けてひとり、湖に向かう。
この時間、その場所で、別の次元のイラリオンとテリルは過去に記憶を戻す術を使った。だとしたら……イラリオンの計算が正しければ、そこにいるはずなのだ。
イラリオンがどうしても決着をつけなければならない相手が。
「やはり、いたのか」
十五年前、テリルと出会ったその場所に立ったイラリオンは、そこに佇む背中へと、声をかける。
『……なんだ、来たのか』
億劫そうに振り向いたのは、月の光に溶けそうな半透明の姿をした、もう一人のイラリオン・スヴァロフだった。




