第三十三章 新しい未来
「眠れないのですか?」
その日イラリオンは、夜中にぼんやりと月を見上げているテリルを見つけて声をかけた。
「イラリオン……」
何かを考え込んでいたらしいテリルは少しだけ驚いたように顔を上げる。
「ホットミルクでもどうです?」
「いいですね」
手を差し出した夫に向けて微笑む妻、夜中の誰もいない廊下を連れ立って歩いた二人は、厨房でコトコトとミルクを温めた。
「うふふ。温かくて甘いです」
両手で持ったカップに何度も息を吹きかけて口をつけるテリルを、愛おしそうに見つめるイラリオン。
「蜂蜜が入ってますから」
「お陰でよく眠れそうです、ありがとうございます」
「私も寝付けなかったので、ちょうど良かったです」
心まで温まるような優しい声で会話を交わし、ふわふわと立ち上がる湯気越しに目が合った二人は、同時に口を開く。
「「あの……」」
「あ、あなたからどうぞ、イラリオン……」
「いいえ、テリル。あなたから」
何度か譲り合いをした後に、根負けしたのはテリルだった。
蜂蜜のようにどこまでも甘やかしてくるイラリオンの言葉に甘えて、咳払いをしてから話し始める。
「実は……クルジェット家から手紙が届きました」
「クルジェット家から、ですか?」
イラリオンの眉間に皺が寄る。
「はい。一度、家に帰ってくるようにと。あなたとの結婚のことが広まってしまいましたし、改めて今後のことを話したいと書いてありました」
すぐに何かを言おうとしたイラリオンは、開きかけていた口をそっと閉じた。彼等の求めに応じる必要はない、一緒に行かせてほしい、言いたいことはたくさんあったが、今の立場でイラリオンがそう言ってしまっていいものか、一瞬だけ躊躇したのだ。
グッと力の入ったイラリオンの口元を見て、彼の優しさと気遣いを感じたテリルは、夜明け色の瞳に決意を込めた。
「そこで……たくさんたくさん考えて、決めたんです。私、クルジェット家をあの人達から取り戻そうと思います」
「本当ですか?」
それを聞いたイラリオンは、驚きに眉を上げながら身を乗り出す。
「はい。ずっと……どうでもいいと投げやりに思ってきましたけれど、あの人達は私だけでなく、お祖父様やビスキュイ公爵閣下の想いまで踏み躙りました。それに、あなたに言われて……私が今世であの人達にされてきた仕打ちをもう一度考え直してみたら、このままにしておいてはいけないと思えるようになりました」
テリルの言葉を噛み締めたイラリオンは、テリルが彼女自身のことを考えてくれたことに感激していた。そんなイラリオンの輝く瞳に勇気づけられたのか、テリルも瞳に力を宿してイラリオンを見つめ返す。
「でも、私だけではあの人達に太刀打ちできません。だから……イラリオン、どうか私を助けてください」
「勿論です。いくらでも、私が力になります」
すぐにテリルの手に手を重ねて頷いたイラリオンは、持ち上がる頬を抑えることができなかった。喜びが溢れ出すその表情を見て、テリルはクスクスと笑い出す。
「うふふ、どうしてあなたが嬉しそうなのですか?」
「嬉しいに決まってます。あなたがあなた自身のことを考えてくれたうえに、私を頼ってくださったんですから」
こんなに嬉しいことはない、と子供のように喜ぶイラリオン。そんな彼を見ていると、テリルはこれまでずっと、彼に迷惑をかけたくなくて彼からも自分からも逃げてきてしまったことを後悔した。
考えてみたら自分だって、イラリオンに頼られたら嬉しいに決まっている。彼が何かを決断したなら全力で応援したいし、誰よりも自分が彼の力になってあげたい。いつどんな時だって彼自身のことを優先してほしいし、心も体も健やかであってほしい。
テリルの気持ちとイラリオンの気持ち。今も昔もそれは全く性質の異なるもので、絶対に交わることなどないと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。
他でもないイラリオンのお陰でそのことに気づき始めたテリルは、より一層愛おしくなっていくイラリオンへ向けて柔らかく声をかけた。
「それで、あなたのお話はなんでしたか?」
目に見えるほどの喜びを噛み締めていたイラリオンは、テリルの問いかけに少しだけ考えを巡らせた。
そして静かに首を横に振る。
「……折角ですから、その話は今ではなく、全てが終わってからしてもいいですか?」
「終わってから?」
「ええ。先に決着をつけてしまいましょう。そうして他のことを考える余地をなくした時に、改めてお伝えしたいのです。どうせならそのことで頭をいっぱいにしていただきたいので」
どこか意地悪な笑みを浮かべるイラリオンに見つめられて、テリルは甘い予感に火照る頬を、隠すことすらできずに頷いた。
「わ、分かりました。じゃあ、その時に、あなたの話を聞かせてください。でも私……どんな時だっていつも、あなたのことで頭がいっぱいです」
「……ッ!」
優勢だと思っていた状態から急に形勢が逆転したイラリオンは、赤くなっているであろう頬を必死に隠した。
冷めはじめたホットミルクを挟んで赤面する二人は、初々しい恋人同士のような甘い雰囲気を醸し出している。
二人のおこぼれに与れないかと、こっそり厨房を覗いていたネズミ達が肩をすくめて寝床に戻って行く。
なんとも言えない甘酸っぱい空気が落ち着いてくると、漸く気を取り直したイラリオンが咳払いをして口を開いた。
「あの、お伺いしてもいいですか?」
「はい、なんでしょう?」
パチパチと目を瞬かせて自分を見上げるテリルに、イラリオンは問いかける。
「随分と悩まれていたようですが、クルジェット家のこと、どうして考え直す気になったのですか?」
その問いに少しだけ黙り込んだテリルは、窓から見える月を見上げた。
「……もうすぐ満月ですね」
「はい……」
テリルにつられてイラリオンもまた、月を見上げた。まだ丸には遠いが太り始めた月が夜空に浮かんでいる。
「次の満月の、翌日。夜明けのことでした。私の頭の中にある記憶が過去に送られたのは」
「あ……」
その言葉の意味を理解したイラリオンは、青く真剣な目をテリルに向ける。
「その先の未来を、私は知りません。今まで自分の手で変えてきたとはいえ、ずっと未来を知っていましたから。その先に進むことが、ほんの少しだけ怖くて……でも、あなたと進む未来を、楽しみにしたいと思ったんです」
「テリル……」
「だから。新しい未来のために、心の中の憂いにちゃんと向き合って、取り除こうと思いました」
素直な心の内を明かしたテリルは、月明かりに照らされて微笑んでいた。
「今は……イラリオン。あなたと迎えるこの先の新しい未来が、とても待ち遠しいのです」
イラリオンの目には、そのテリルの微笑みがこの世のものとは思えないほどに美しく、眩しく見えた。
何よりも彼女の未来に自分がいることが、奇跡のように嬉しくて仕方ない。
その新たな未来の夜明けが、彼女の瞳のように輝いているであろうことを想像したイラリオンは、そこに在るはずのあるものに思い至りハッとする。
「テリル。私も……あなたと一緒にその未来を見たいです。なので教えてください」
真剣な瞳をテリルに向けるイラリオン。
「あなたの記憶の最期、記憶を過去に送ったその瞬間、あなたと私がいたのはどこですか?」
そう聞かれたテリルは少しだけ戸惑い、それでも記憶を思い起こすように遠くを見て答えた。
「……私達が出会った、あのボンボンの湖です」
ボンボン……と呟いたイラリオンは、顎に手を当てて何かを考え込むと、納得したように表情を和らげてテリルを見る。
「では、その日はボンボンの別荘で一緒に過ごしませんか」
「え? ボンボンの別荘で、ですか?」
「あの場所で新しい朝を二人で迎えられたら、その先の未来により希望を持てると思いませんか?」
優しく微笑むイラリオンに、テリルはその瞬間を想像してみた。
悲惨な最期を迎えたあの場所で、あの日とは違う美しい朝を二人一緒に迎えられたら。テリルの中にある悲痛な記憶も、少しは癒されるだろうか。
「確かに。……あなたと一緒にまたあの場所に戻れるなんて、とても素敵です。思えば私、記憶の中にあるだけで、今世ではスヴァロフ家のあの別荘には行ったことがないんですよね……ですから是非、一緒に連れて行ってください」
楽しそうな顔をするテリルに、イラリオンもつられて笑顔になる。
「では決まりですね。私は初夏になると毎年あそこに行っているので、案内は任せてください」
胸を張るイラリオンの発言に、テリルは不思議そうな顔をした。
「え? 毎年、初夏にですか? どうして……?」
記憶にはない話を聞いて驚く彼女へと、イラリオンはその青い瞳に茶目っ気を覗かせた。
「決まっているでしょう。幼い初夏の日にその場所で出会った初恋の誰かさんに、また会いたかったからです」
国宝級令息の完璧なウィンクに見事に撃ち抜かれたテリルは、その言葉の意味が分かるにつれて再び顔を赤くしていった。
読んでいただきありがとうございます。
あと2話+エピローグで完結予定です。
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