第三十二章 絡まる指先
「な、なんだよおい……いきなり、照れるだろ!」
顔を真っ赤にしたヴィクトルに対し、イラリオンは一瞬だけ見せた優しい空気を引っ込めて辛辣な目を向けた。
「別に。ただ言っておきたくなっただけだ。それより、早く帰ってくれないか。彼女と大事な話の途中だったんだ」
「いや、俺これでも王太子だぞ!? ひどくないか、来て早々帰れなんて……せめて彼女に挨拶させてくれよ」
「勝手に来ておいて何を言うんだ。図々しいと思わないのか?」
いつもの軽い掛け合いを始めた二人。そこへ、扉をノックする音が響く。
「失礼します」
「……!」
その声を聞いた瞬間、イラリオンは勢いよく立ち上がった。
「あの、ご挨拶をと思いまして……」
顔を覗かせたテリルに慌てて駆け寄り、ヴィクトルから隠すように立ったイラリオン。
「テリル、待っていてくださいと言ったではないですか!」
着替えてきたのか先ほどのような無防備な格好でないとはいえ、まだ目元がほんのり赤いテリルは、困ったようにイラリオンを見上げた。
「ですけれど、王太子殿下にご挨拶しないと……」
テリルの目は明らかにヴィクトルを警戒していた。イラリオンと二人きりになんてできないとでも言いたげだ。
テリルの頭の中のヴィクトルがどんな人間か分かる気がして、イラリオンは諦めて渋々ながら彼女とヴィクトルを引き合わせることにした。
ようやっとイラリオンからお許しが出たと察したヴィクトルが、王太子らしく優雅に手を差し出す。
「改めてご挨拶を、テリル嬢……いや、スヴァロフ夫人。イラリオンの親友のヴィクトルだ。よろしく頼む」
「……〝親友〟……」
ぼそりと呟いたテリルは、その夜明け色の瞳で挑むようにヴィクトルを見上げた。
「イラリオンの妻のテリルです、どうぞよろしくお願いいたします、王太子殿下」
「妻……」
テリル自ら『イラリオンの妻』と口にしてくれたことが嬉しくて、静かに悶えるイラリオン。
デレデレのイラリオンに若干引きつつも、ヴィクトルがテリルの手を取ろうとしたその時だった。
挨拶のために触れそうになった二人の手を遮るように、イラリオンが横からテリルの手を掻っ攫う。
「……おい、イラリオン」
顔を引き攣らせたヴィクトルが親友にドン引きの目を向けるも、涼しい顔の国宝級令息は開き直ったかのように無視を決め込んだ。
「それで。挨拶もしたし、もういいだろう? 早く帰ってくれ」
「お前……彼女が絡むと本当に人格が変わるな? この前から冷た過ぎないか? 俺をこんなにぞんざいに扱うなんて。いつもはもっと優しくしてくれるのに!」
「悪いが今日は非番なんだ。何よりも大事な妻との私生活を優先させていただきたい」
「俺だってテリル嬢と久しぶりに会ったんだから、ゆっくり話をさせてくれよ!」
そのヴィクトルの叫びに驚いた声を上げたのは、イラリオンに手を取られたまま戸惑っていたテリルだった。
「え? 私、殿下とお会いしたことがあるのですか?」
「あ、流石に覚えてないか。あんた……ゴホン、君はあの時幼かったうえに、両親が亡くなったばかりでショックを受けていたから」
テリルを〝あんた〟呼びしそうになったヴィクトルに鋭い睨みを効かせたイラリオン。どういうことか説明しろとも言いたげな親友のその視線にビクつきながら、ヴィクトルは慌てて口を開いた。
「彼女の祖父のタラス・クルジェットは、俺の最初の教育係だったんだ。まあ、小さい頃の俺はなんというか奔放で……彼には随分と世話になった。その縁で、彼が亡くなる前に見舞いに行ったことがあってな。そこで引き取られたばかりのテリル嬢を見かけたことがあるんだ」
その話を聞いたイラリオンは、妙に納得した。というのも、以前から少しだけ気にかかっていたことがあったのだ。
「だから君はあの時、私が言った女性の特徴を聞いて、すぐに彼女だと分かったんだな」
それは、イラリオンが好みの女性を聞かれてテリルの特徴を挙げた時のこと。
変わり者の噂や特徴的な目を不気味と揶揄する噂はあっても、その詳しい容貌は広まっていなかったはずのテリルを、イラリオンの条件に当て嵌まると勧めたヴィクトル。
ヴィクトルはどこかで彼女のことを見たことがあったのではと、密かに疑念を抱いていたイラリオンは、漸くその答えを知った。
「いやー、そのおかしな色の……ゴホン、不思議な色の目が特に印象深かったから、イラリオンに言われた変な条件を聞いた時にテリル嬢のことだとピンときたんだ」
イラリオンの睨みを気にしながら、そう言ってテリルの目を真正面から見たヴィクトルは、ふと忘れていた当時の記憶を思い出した。
「あれ……そういえばあの時、タラス爺さんが何か言ってたな。俺に頼みがあるとか……孫娘がどうのとか……」
「……! それは本当か? 前伯爵はなんと言っていたんだ?」
何かを察したイラリオンが問い詰めるも、ヴィクトルは困ったように頭を掻いた。
「いやぁ……なんだったかなぁ……」
「世話になったんだろう。ちゃんと思い出せ」
「そう言われても、もう二十年近く前の話だぞ? えーっと……」
自分の知らない祖父の話にテリルも興味を引かれたような目を向ける中、ヴィクトルはなんとか古い記憶を辿った。
「あ! そうそう、困った時はクルジェット家の離れを探せとかなんとか!」
「離れを……?」
不思議そうに首を傾げたテリルと顔を見合わせたイラリオンは、要領を得ない親友に再び鋭い目を向けた。
「何を探せと言われたんだ? そこに何があると?」
「確か、何かを隠したって……もしもの時のために……なんだったかな……あの爺さんいつも回りくどくてさ……あの時の俺には難しかったんだ。とにかく孫娘の力になってやってほしい的なことを言われた気がする」
恩人から死に際にそんな大事なことを言われたくせに、今の今まですっかり忘れていたらしいヴィクトルに、イラリオンは心底呆れた目を向けた。
テリルもテリルで、ヴィクトルが思っていたのとは何か違う人間な気がして、警戒の色をほんの少し和らげる。
「な、なんだよ二人してその目は……仕方ないだろ、あの時はまだ幼かったんだ。それに、爺さんの言葉もよく分からなかったし……」
ヴィクトル自身も、テリルの顔を見なければ忘れたままだったであろうことが申し訳なかったのか、心底バツが悪そうにしていた。
◇
「大丈夫ですか?」
その後も茶を飲み終わるまでと言い張って居座ったヴィクトルの相手をした夫妻。
ヴィクトルが帰り、並んで座った状態でグッタリする妻を気遣ったイラリオンが問えば、テリルは困ったように眉を下げた。
「はい。ただ、少し気が抜けてしまって……」
考えてみればテリルは、倒れたばかりなのだ。その後記憶の話をして、ずっと警戒していた王太子と会って。疲れるのは当然だろう。
「今日はもう、このまま休んでください」
イラリオンがそう言うと、テリルはフラフラしながら首を横に振った。
「でも、お話の続きが……」
王太子に邪魔された話の続きをしなくては、と眠たそうな目を擦る妻を見て、イラリオンは苦笑してしまう。
「私達には、たくさんの時間があります。この穏やかな日々は、他でもないあなたが与えてくれたものです。無理に急ぐ必要はありません。ですからどうか、慌てずゆっくり進みましょう」
無理をしなくてもいいと言われて、テリルはホッとした。思えばテリルは、未来の記憶を無理矢理脳に押し込まれたあの幼い日から、ずっと生き急いできた気がする。
いつも何かに追われているようで、ただ自分の犠牲になった彼を救いたくて奔走してきた。
その中で、初めて休んでいいと言われた気がしたテリルは、安心して体の力を抜いた。
「ねぇ、イラリオン……」
「はい、どうしました?」
「ここで……あなたの横で、眠ってしまってもいいですか?」
愛する人のその甘えた声に、イラリオンの胸もまた甘く疼く。
「勿論です。触れることを許してくださるのなら、私があなたを寝室まで運びますよ」
そっと手の甲でテリルの頰に触れたイラリオンがそう言うと、テリルは嬉しそうにクスクスと微笑んだ。
そしてイラリオンの肩にもたれた彼女は、イラリオンの腕に抱き着いて猫のように体を丸める。
「あなたはいつも、お日様の匂いがします。あなたとこうしていられることが、不思議で擽ったくて、でも……愛おしくて仕方ありません」
「テリル……」
色々と堪らなくなったイラリオンが手を伸ばすと、テリルは既に寝息を立てていた。
「…………」
仕方ないなとばかりに笑みを漏らしたイラリオンは、伸ばした手で彼女のふわふわの髪を撫でてみる。テリルの体がさらに寄ってきて、ラナンキュラスの花のような甘い匂いがした。
イラリオンの袖を握る彼女の小さなその手に、指を重ねてみる。
仮初なれど、揃いの指輪を嵌めた指が、イラリオンの指に絡まりギュッと握られる。
他の人間に対して怯えたり不安がったり、警戒したり、投げやりだったり。そんな彼女が身を預けてこんなふうに眠ってしまうところを見ると、イラリオンを信頼しきっているのがよく分かった。
そして今の彼女なら、戸惑わずにイラリオンの想いを受け入れてくれるだろうと予感させてくれる。
どうしようもない幸福を噛み締めるイラリオンは、そんな彼女の寝顔を眺めながら、同時にふとあることに考えを巡らせた。
彼女の知るもう一人のイラリオン。別の時空に置き去りにされた、情けないその男がテリルのことを、本当はどう思っていたか。
そもそも〝彼〟が記憶を送ろうとした過去が、テリルと出会ったあの日だという時点で、その答えは明白だ。
全てを捨ててやり直そうと決意したにも拘らず、テリルとの出会いだけは消したくなかった、その心理が如実に現れている。その行動一つだけ見ても、その時空のイラリオン・スヴァロフがテリルに寄せていた想いを、嫌でも推察できた。自分の分かりやすさと情けなさに呆れてしまいそうだ。
「……そんなに好きだったのなら、不安になんかさせず幸せにすればいいものを」
過去といっていいのか、未来といっていいのか分からないそこにいる自分に、イラリオンは苦言を呈した。
しかしイラリオンには、それをわざわざテリルに伝えて〝ラーラ〟を擁護してやる義理はない。
彼女を幸せにできなかった馬鹿な男の幻影にこれ以上付き纏われるのは、もう御免なのだ。
仮令相手が自分自身であっても、彼女を渡したくない。
今ここにいるテリルの温もりは、今ここにいるイラリオンだけのものだ。
自分にすら嫉妬してテリルを独占したいと思う、ともすれば危うさすら感じさせる自身の思考を自嘲しながらも、イラリオンは半身にかかる愛しい温もりを、永遠に手放したくはないと願わずにはいられなかった。




