第二章 求婚と混乱
「どうして……」
メイドの姿でメイドの仕事をしていたテリルは、目の前に立つ美貌の青年から爽やかな笑顔を向けられて固まっていた。
イラリオンはパチンと指を鳴らして割れたカップを魔法で元に戻すと、その青く美しい瞳を真っ直ぐにテリルへと向ける。
「あなたに会いに来ました」
差し出された真っ赤なラナンキュラスの花束に、テリルは前髪の下に隠された目を見開いた。
「……!」
戸惑うテリルを前にして美麗に微笑むイラリオンは、どんな令嬢でも一瞬で腰を抜かすほどに甘く低く掠れる声でテリルの名を口にする。
「テリル嬢」
そうして跪くと、周囲の目も気にせずテリルを見上げ、美しい顔面を惜しげもなく晒しながら囁いた。
「あなたの夫となる栄誉を、どうかこの私にいただけませんか」
どう見ても下働きのメイドにしか見えない変わり者令嬢に、天下の国宝級令息イラリオン・スヴァロフが求婚した瞬間だった。
◇
「これはいったい、どういうことなの!?」
ソフィアは、父の前で髪を掻きむしりながら叫び声を上げていた。丹念に結い上げていたツヤツヤの金髪は見る影もない。
「どうして私じゃなくて、あんな女が求婚されるのよっ!?」
美しく着飾っていた姿は今や崩れ切って、その顔には醜い憤怒の表情が浮かんでいた。
あの突然の求婚劇の後。固まって身動きの取れないテリルを気遣ったイラリオンは、突然の訪問と求婚の無礼を詫び、返事はゆっくり考えてほしいと最後まで懇切丁寧に頭を下げて去って行った。
残されたクルジェット伯爵家の面々は、それはそれは騒然としていた。
家の中ではメイド以下の存在であるテリル。長年召使いとして虐げてきた娘が、誰もが憧れる天下の英雄から求婚されるだなんて。
あまりの事態に、クルジェット伯爵は開いた口がしばらく塞がらなかった。
「あなた、まさか本当に、あの娘をイラリオン卿に嫁がせる気じゃないわよね? 我が家の恥を晒すつもり!? さっきも見たでしょう、あの気味の悪い目! あんな卑しい血の混じった娘を表に出すっていうの!?」
娘の隣で金切り声を上げる妻に、伯爵は渋い顔で考え込んでいた。
「確かにあの小娘をのさばらせるのは不快だ。だが、考えてもみろ。あのスヴァロフ侯爵家と縁ができるんだぞ。あんな出来損ないの小娘が、こんなに高く売れることがあると思うか? イラリオン卿の趣味には驚きを隠せないが……悪い話でもないじゃないか」
「あなた!」
「お父様!」
乗り気な伯爵に、夫人と娘は悲鳴を上げた。
「あのイラリオン・スヴァロフが、私の娘婿になるんだぞ? 政財界、社交界、騎士団に魔塔まで。何もかもを思い通りにできるチャンスだ。これを逃す手はない」
「でも……! だったら私がイラリオン卿に嫁ぐわ! その方がいいに決まっているでしょ!」
叫ぶソフィアに、クルジェット伯爵は厳しい目を向けた。
「イラリオン卿はお前に少しの興味も持たなかったではないか。彼の趣味は相当変わっている。お前では無理だ」
キッパリとした父の言葉に、ソフィアは怒りと悔しさでワナワナと震えた。
「悔しい! 頭のおかしな穀潰しが、あのイラリオン卿の妻になるですって!? そんなこと、あっていいはずがないわ! 絶対、絶対に許さないから!」
淑女とは程遠い叫び声を上げるソフィアを、伯爵は無視し、伯爵夫人は涙ながらに抱き締めたのだった。
◇
その頃、屋根裏の部屋というよりは寝床という表現の方が適切な自室でぼんやりと座っていたテリルは、握り締めた花束に目を落としてその身を震わせていた。
「どこで間違ったの? うまくやってきたつもりだったのに……」
イラリオンから渡されたラナンキュラスの真っ赤な花束。それはまるで、これまでの行いを全て知っていると仄めかされているような、言い知れぬ恐怖をテリルに感じさせた。
「違う。そんなはずないわ。私のことが、彼にバレるはずないじゃない。彼は何も知らないのよ」
自分に言い聞かせたテリルは花束を部屋の外に出そうとして……手放すことができず、結局その腕の中に抱き寄せた。
柔らかな花弁を優しく撫でるその指先には、確かに愛情が感じられる。
「ラーラ……」
毛布と蝋燭一本しかない薄暗い屋根裏には、ラナンキュラスの甘い香りが満ちてテリルの胸を詰まらせるようだった。
◇
一方のイラリオンは、呼び出された王宮で親友と茶を飲んでいた。
「イラリオン。本当にあのテリル・クルジェットに求婚したのか?」
信じられない、という目で自分を見る王太子ヴィクトルに向けて、イラリオンはカップを手にしたまま堂々と頷いた。
「ああ。まだ返事はもらえていないが」
「よくやるよ……俺がテリル・クルジェットの話をした途端飛び出して行ったかと思えば、あれから三日と経たず求婚だなんて。お前のことはいつも規格外だと思ってきたし、その超人ぶりにはもう慣れたと思っていたが。今回は別の意味で驚愕したぞ」
嫌味を言ったはずの王太子に対して、イラリオンは邪気のない満面の笑みを向けた。
「ヴィクトルのお陰で彼女を見つけることができた。本当に感謝している」
その笑顔に何も言えなくなったヴィクトルは、毒気を抜かれて嘆息するほかない。
「代わりに俺は、国中の令嬢から恨まれることになるんだろうな。天下のイラリオン・スヴァロフの嫁候補に、よりによってテリル・クルジェットを勧めたんだから」
「何を言っているんだ。恨まれるだなんてとんでもない。私にとっては恩義しかないというのに。この心臓をかけて君に生涯の忠誠を誓いたいほど、今の私は浮かれているんだけどな」
言われてみれば、確かに今日のイラリオンはいつにも増してキラキラと輝いていた。肌も髪も、いつも以上にツヤツヤしている。見たこともないほど上機嫌な親友の様子に、ヴィクトルは彼が冗談を言っているわけではないのだと感じて慄いた。
「……それ、本気で言ってるのか? テリル嬢を勧めたことが、お前にとってはそんなに重要なことだったのか?」
ニコリと笑ったイラリオンは、カップを置くと長い脚を組み、男であり親友である王太子さえも赤面するほどの美貌を惜しげもなく晒して頷いた。
「うん。あんなに可愛い人を、私は知らない」
美貌の国宝級令息の形のいい唇から飛び出した言葉に、ヴィクトルは耳を疑った。
「……可愛い? 可愛いって言ったか? 相手はあのテリル・クルジェットだぞ? 社交界に顔すら出さない、気が触れていると噂の変わり者令嬢……」
ヴィクトルは、そこまで言って言葉を止めた。止めざるを得なかった。普段はすこぶる穏やかなイラリオンの目に、鋭い殺気が宿っていたからだ。
最年少ソードマスターで王室騎士団長で宰相候補の英雄で特別顧問魔術師だなんて称号まであるイラリオンを相手に、たかが王太子風情でしかないヴィクトルが勝てるわけがない。
その殺気を向けられた途端、容易に首を切られる自分の姿が脳裏に浮かんでヴィクトルは震え上がった。
「ヴィクトル。いくら君でも、彼女を侮辱するなら私の敵と見做す」
これにはヴィクトルも思わず飛び上がった。
「ど、どうしたんだイラリオン……! お前が俺にそんなことを言うなんてよっぽどだろう!」
清廉潔白、いつも生真面目で礼儀正しいイラリオン・スヴァロフが、王太子を威嚇するだなんて。これまでの長い付き合いの中で一度としてなかったことだ。
幼少期のヴィクトルがイラリオンの才能に嫉妬して意地悪した時も、モテまくるイラリオンが気に入らなくて理不尽な言いがかりをつけた時も、劣等感が爆発して嫌がらせをした時も。イラリオンはいつも穏やかに笑って受け入れてくれた。
次第にイラリオンに対して意地を張るのが馬鹿らしくなって、無二の親友となって数年。捻くれ王子だったヴィクトルは、イラリオンに感化されて勉学や鍛錬に励み、立派な王太子となった。
(問題児の王子を更生してくれたこともまた、国王がイラリオンを評価する理由の一つだったりするのだが。ヴィクトルはそのことを知らない)
そんな親友として彼と苦楽を共にしてきたと自負するヴィクトルでさえ、イラリオンが怒っているのを見るのは初めてだった。
絶句するヴィクトルを前に、イラリオンはバツが悪そうに下を向いた。
「彼女は私の初恋の相手なんだ。長年望んでやっと会えたのだから、有頂天になって周りが見えなくなるのも当然だろう」
高潔の騎士が。美貌の英雄が。国宝級と讃えられる令息が。どんなに美しい令嬢に囲まれても全く異性としての興味を示さなかった男が。その辺の少年のように恥じらい恋を語る姿は、とても奇妙だ。
「初恋だって!? お前……本当に俺の知っているイラリオン・スヴァロフか?」
ヴィクトルの掠れた声に、イラリオンは恥ずかしそうに頰を掻く。
「恋をした男ほど愚かな者はいないと、君も常々言っているじゃないか」
「それにしたって……」
確かにそれはヴィクトルの口癖の一つだったが、ヴィクトルがその言葉をイラリオンによく聞かせていたのは、この親友にだけは当て嵌まらないと思っていたからだ。
「どうやら私は本当に、その愚か者になってしまったらしい」
頰を染めて溜息を吐くイラリオンは、発光するほど美しかった。
まだ自分の目が信じられないヴィクトルだったが、長年国のために献身してきた親友がただの男として恋に翻弄されているのだと思うと、無性に応援したくなってくる。
「分かった。俺はこの件に関して、親友であるお前の気持ちを全力で応援する」
ヴィクトルが本気でそう言ってくれていることを察したイラリオンは、ホッとしたように微笑んだ。
「ありがとう、ヴィクトル。十五年間、一途に彼女を想い続けてきた甲斐があったよ」
紅茶に手を伸ばしていたヴィクトルは、危うくカップを取り落としそうになった。
「十五年間!? まさか、お前がずっと結婚を避けてたのって……!」
驚愕するヴィクトルに、イラリオンは照れながら頷く。
「お、お前ほどの能力があれば、もっと早く彼女を探し出せていたんじゃないのか? どうして今まで何もしなかったんだ?」
声を裏返らせる親友に対して、イラリオンは何かを懐かしむような目をして答えた。
「探さないでと言われたから」
「……は?」
そうしてもう一度カップを手に取ったイラリオンは、冷めた紅茶を飲みながら初めてテリルと出会った幼い日のことを思い出し、胸の奥が熱くなった。
『全部やったらいいじゃない、文官にもなって、騎士にもなるの。魔術も研究して、どうせなら宰相と騎士団長と魔塔主を全部やっちゃえばいいわ』
『あなたは絶対、自分のやりたいことを成し遂げられる』
あの日彼女に出会っていなければ、今のイラリオンはなかった。
イラリオンが手にしてきたものは全て、彼女が授けてくれたものだ。
「彼女の願いを無視したわけじゃない。私が彼女を探したんじゃなく、君が彼女のことを私に教えてくれただけだ。そうだろう?」
茶目っ気を乗せた国宝級令息の青い瞳に、ヴィクトルはただただ呆れ果てて天を仰ぐのだった。