第二十七章 時空の狭間
「すみません。こんなふうに詰め寄るつもりはありませんでした。もっと慎重に、あなたの心の準備ができた頃に話し合おうと思っていたのですが……」
幾分か落ち着いたのか、イラリオンがテリルから離れて謝罪を口にすると、その赤くなった目元を見たテリルは悲痛に眉を寄せた。
「ごめんなさい。イラリオン、私……あなたをずっと、傷つけていましたよね」
今度はテリルが、その細腕でイラリオンを掻き抱く。
「……ッ!」
「あなたはもう、私の知っている彼ではないのに。どうして私、そんな簡単なことに気づかなかったのでしょう。あなたの想いは、ここにいるあなただけのものなのに……」
ぎゅうぅっと、その小柄な体で自分を抱き締める愛しい人に、イラリオンは表情を和らげた。
「それはつまり……私の愛を、やっと信じてくださる気になったということですか?」
「そんなふうに言わないでください。あなたの涙を見て目が覚めました。私がこんなにもあなたを追い詰めていたのだと。これでも反省しているのです」
ムッとした時に見せる、彼女のその膨らんだ頰。テリルの夜明け色の瞳と真っ向から目を合わせたイラリオンは、真面目な顔をした。
「教えてください。あなたはその心に、どんな傷を抱えているのですか。どんな絶望を知り、私のために尽くそうとしてくれるのですか」
そんなイラリオンに対して、テリルは窺うような目を向けた。
「その前に……あなたはどこまで気づいているのですか?」
既に色々なことを知っているようなイラリオンに、至極当然の疑問を投げかけるテリル。
自分の推理をどこまでテリルに話すべきか思案したあと、イラリオンは核心に触れた。
「あなたは、別の次元で生きたあなたの未来の記憶を持っている。幼い日に……恐らく、私と出会ったあの日にその記憶を得た。と、考えています」
「……そんなことが本当に可能だと思いますか?」
「はい」
即答したイラリオンは、続けてその根拠を話す。
「私が考案し、魔塔で研究を続けている術式は、時空操作の新術ですから」
それは、イラリオンが魔塔主にと望まれるまでになった論文の研究内容だった。
「ただ、時空を操る……特に時間を過去に戻す術に関しては、理論上は既に可能な域まできています。しかし、現段階では三つの問題からこの術の使用を断念しました」
「その問題とは、なんですか?」
「一つは、倫理的な問題です。僅かな時間を戻し、ほんの少しのズレを生じさせる。それだけでも未来に与える影響は計り知れない。個人のために多くの時間を戻し未来を変えることは、倫理的に見て非常に危険な行為です」
それを聞いたテリルの体がピクリと動くのを観察しながら、イラリオンは話を続けた。
「二つ目は、根本的な問題として、魔力が足りません。時間を動かすのには、莫大な魔力が必要です。今の魔塔には、この術式を一人で展開できるほどの術者がいないのです。数人分の魔力を合わせれば可能かもしれませんが、失敗すれば魔力が枯渇する可能性もありますので、試そうとする者はいません」
指輪に隠されていたテリルの魔力を知っているイラリオンは、その青い瞳で目の前の愛する女性を見ながら、さらに説明を続ける。
「そしてもう一つは、時間を巻き戻して過去に戻ったとしても、それだけでは術式が成功したと証明できないということです」
「どういうことでしょうか?」
顔を上げたテリルが問えば、イラリオンは丁寧に答えた。
「ここで最も重要なのは、記憶です。時間が遡り過去に戻ったとしても、時間を遡る以前の記憶がなければ、過去に変化は起こり得ない。同じ未来が繰り返されるだけ。誰もそれに気づかぬまま過ぎるだけの、とても無意味な魔力の浪費にしかなりません」
「……」
「過去を変える、もしくは過去に戻ったことを認識するには、記憶がなければ始まりません。しかし、記憶とは脳に刻まれるもの。時間が戻れば当然脳に刻まれた記憶もリセットされる。この難題をクリアしなければ、悪戯に時を戻すのは無意味だと判断しました」
ひと呼吸置いたイラリオンは、真剣な目で自分を見上げるテリルにふと微笑んだ。
「そこで私は、視点を変えてみることにしたのです。発想の転換ですね。未来や過去に影響を及ぼすことだけを目的に考えるのならば、時間を丸ごと巻き戻すのではなく、時空の流れを遡り過去のある時点に記憶だけを送ればいいと。私は今、その研究を進めているのです。どちらにしろ倫理的に見て禁忌の術であることに変わりはありませんが」
「そういうことだったのですね……でも、どうして私が未来の記憶を持っていると分かったのですか?」
イラリオンに数々のヒントを与えてきた自分の行動を少しも分かっていない彼女に、イラリオンは内心で苦笑を漏らす。
「あなたの言動を振り返れば自ずと答えは出ます。あなたはいつも、まるで未来を知っているように動いていましたから」
「そんなに分かりやすかったですか? 私……これでも上手くやっているつもりだったんです」
再び頰を膨らませて拗ねるテリル。慕わしいと思う彼女の仕草一つ一つを目に焼きつけながらイラリオンは、ずっと考えていたことを口にした。
「テリル……未来のあなたの記憶を、幼いあの日のあなたに送ったのは、私ですか?」
イラリオンの問いに、テリルは困ったような目を向けた。
「……どうしてそう思うのですか?」
「この国で、そんな術を展開できるのは私くらいしかいませんので」
そうだった、とテリルは思った。今のイラリオンはテリルの忠告をよく聞いてくれたお陰で、とても謙虚な人だと世間には思われているが。テリルが知っている彼の本質は、ほんの少しだけ傲慢な面があるのだ。
「……イラリオン、あなたの推理は半分だけ当たっています」
「と、言うと?」
「その術を仕掛けたのは、確かにあなたです。ですけれど、あの時あなたは、私ではなく自分の記憶を過去に送ろうとしていました。あなた自身が、倫理も道理も全てを捨て去ってまで、過去をやり直そうとしていたのです」
それを聞いたイラリオンは、納得したように頷いた。
「なるほど、確かに。その点が疑問でした。私であれば絶対にあなたの記憶を過去に送るようなことはしません。というのも、それはとても危険な行為だからです。一度生きた人生の記憶が真っ新な幼い脳に刻まれる。下手をすればあなたの精神が崩壊しかねない」
チラリとテリルに痛ましい目を向けるイラリオン。
「現にあなたは、私たちが出会ったあの日から数日間、高熱にうなされて寝込んでいたようですしね」
「どうしてそれを……!」
彼が知るはずのないことを言い当てられて、驚いたテリルが目を見開く。
「クルジェット家の古い使用人を探し出して話を聞きました。当時あなたが倒れたのを利用して、クルジェット伯爵はあなたが病弱だという噂を広めたとも。まったく抜け目のない人だ」
イラリオンの声は穏やかだが、少しだけ苛立ちが混じっていた。
「他にもあなたは、突然過去の記憶が蘇って現実との区別がつかなくなるフラッシュバックに悩まされてきたはずです。あなたをこんなに苦しめるなんて。その男は何故、自分ではなくあなたの記憶を送るようなミスをしたのですか?」
また見えない自分に怒り始めたイラリオンへと、テリルは申し訳なさそうな表情で白状した。
「私が横から術の主導権を奪ったからです」
テリルのその一言に、イラリオンは状況を推理して溜息を吐いた。
「なるほど……私は、あなたの魔力を利用してその術を行おうとしたのですね?」
「そうです。だから私はあなたの術に介入しやすかった。あなたが時空の亀裂に手をかけたその瞬間、あなたの代わりに私がその中に飛び込み、記憶を過去の私に届けたのです」
真相を知ったイラリオンは、考え込むように顎に手を当てた。
「この術式を完成させるには、時空の狭間に意識を投げる必要があります。簡単なことではなかったはずです」
「私はこれでも大魔法使いの血を引いているのです。それに、前の人生であなたからその術の話を聞いていましたから、どんな危険があるのかも承知していました」
そう言い切ったテリルに、イラリオンは呆れたような、歯痒いような目を向ける。
「万が一あなたの意識が時空を彷徨い、記憶ごと永遠に閉じ込められたらどうする気だったのですか。記憶を送るには正確な時間と場所を指定しなければならない。その微調整がどれほど精密でなければならないか、知っていてそんな無謀なことをしたのですか」
「あなたが自分の記憶を送ろうとした時間と場所は、私達が出会ったあの日の湖でした。そこにはあなたと一緒に必ず私もいる。それを知っていたので、恐くはありませんでした。何よりあなたの考えた術を信じていたから」
あまりにもテリルらしい言葉に、片手で頭を抱えたイラリオン。
「……そもそも、どうして私の代わりになろうとしたのですか?」
「あなたにこれ以上、悲惨な業を背負わせたくなかったのです。今度こそ、あなたを幸せにしてあげたかったから」
口元を引き結んで強い瞳をイラリオンに向けたテリルは、これまでずっと口にしてきたのと同じことを言う。
それはまるで、彼女の記憶の中のイラリオンが不幸であることの裏返しのようだった。
「未来で……いいえ、あなたの知る過去で、私達にいったい何があったのですか? 私が禁忌を犯そうと決意するような何かがあったのですか?」
イラリオンの問いに声を詰まらせたテリルは、震えながらポツリと溢した。
「……私達は、誰よりも多くの時間を共に過ごした〝親友〟でした」
「親友?」
今のイラリオンが〝親友〟と聞いて思い浮かべるのはヴィクトルだが、ヴィクトルとテリルを同じように見ることはできない。
ピクリと眉を動かしたイラリオンの反応にどう思ったのか、テリルの顔が泣きそうに歪む。
「でも、私はいつもあなたの足を引っ張るばかりで、あなたの邪魔ばかりして……あなたは最期には、私のせいで全てを失ってしまったのです」
痛みに耐えるかのような顔をしたテリルが、その夜明け色の瞳を潤ませてイラリオンを見上げる。
「この話を聞いたら、あなたは私に失望するかもしれません」
「仮令あなたがこの世界を滅ぼそうとも、私の想いが冷めることはありません。ですから安心して話してください。私達の過去と未来に何があったのか」
少しも揺らぐことのないイラリオンの青い瞳を見ていたテリルは、ゆっくりと話し始めた。




