第二十六章 こいねがう
◆
『ねぇ、ラーラ。あなたは……そろそろ結婚を考えたりしないの?』
まただ、とイラリオンは思った。
イラリオンはまた、自分ではない自分、〝ラーラ〟としてテリルと会話する夢を見ている。
『僕は結婚する気はないよ』
テリルの問いに素っ気なく答えたイラリオンは、彼女のほうを少しも見ていなかった。
『……どうして?』
だから気づいていないのだろう。
『好きな人がいるんだ』
『え?』
手を伸ばせば届くほど近く。すぐ隣にいるのに。イラリオンは、テリルの泣きそうな顔に気づいていない。
『……けど、その人と結ばれることは絶対にないから。だから僕が結婚することはないよ。永遠にね』
そのまま立ち去った夢の中のイラリオンは、結局最後まで、テリルの顔を見ることはなかった。
◆
「イラリオン?」
ハッ、と目を覚ましたイラリオンは、握ったままの小さな手を辿り、声のしたほうへ目を向けた。
「テリル……気がつきましたか?」
「私、どうしてここに?」
ベッドに横たわって不思議そうに見上げているテリルと、そんな彼女の手を握り、椅子に座ってうつらうつらしていたらしいイラリオン。
「庭で倒れたんです。体調はいかがですか」
薄らいでいく夢の記憶よりも、目の前のテリルに意識を向けたイラリオンは慎重に問いかけた。
「大丈夫です。すみません、ご迷惑をおかけして……」
「謝らないでください。迷惑なはずがありません。心配はしましたが……クロウと楽しそうに話していたかと思えば、急に頭を抱えて苦しみ出したあなたを見て、心臓が止まるかと思いました」
ゆっくりと起き上がったテリルを支えて水を差し出したイラリオンが真面目にそう言えば、テリルは白かった頰をほんのり赤らめた。
「み、見てたんですか……!」
「窓から外を見たら、可愛い妻が可愛いお友達と戯れて可愛いことをしていたので、つい見入ってしまいました」
テリルの顔に血色が戻ったことにホッとしながら、イラリオンは敢えて砕けた空気で笑いを誘うようにそう言った。
「可愛いっ……!? もう、イラリオン、揶揄わないでください!」
案の定慌てたテリルが可愛くて、イラリオンの頬が自然と緩む。
少しずつでもテリルがイラリオンを意識してくれるのが嬉しい。
二人のすぐ側にあるサイドテーブルの花瓶には、白いラナンキュラスの花。
「医者の話では特に問題ないとのことでしたが、念のため暫くは家事を休んでください」
「でも……私は本当に大丈夫です」
もじもじと不服そうなテリルに、イラリオンはピシャリと言いのけた。
「ダメです。元気でいることも、あなたの大事な務めの一つですよ」
「……分かりました」
若干頰を膨らませるその仕草が可愛くて、知らず口角が上がったイラリオンは、ふとこのところ煩い親友のことを思い出した。
「そうそう、回復してからでいいのですが、ヴィクトル王太子殿下が近いうちにあなたに会いたいそうです。私達のことも公表されたことですし、親友の妻に挨拶したいと。嫌なら断りますが、どうしますか?」
ヴィクトルの名前が出た途端、テリルは眉間に皺を寄せた。
「王太子殿下が……? ……あまり気は進みませんが、あなたのためなら我慢します」
本気で嫌そうなその様子に、イラリオンは失笑してしまう。
「ふっ。我慢しなくてもいいですよ。嫌なら断りましょう。彼には多少我儘を言ったところでなんだかんだ言いつつ受け入れてくれますから」
「本当に? 大丈夫なのですか? だって相手は、あの王太子殿下でしょう? 暴れたりしませんか?」
疑わしそうなテリルはいったい、ヴィクトルのことをなんだと思っているのか。彼女の中のヴィクトルの評価がとことん低いことに内心で苦笑しながらも、イラリオンは親友のために弁明した。
「彼は良くも悪くも情に厚すぎるのですが、味方となればとても心強い男ですよ」
信じられない、といった面持ちのテリルは、チラチラと横目でイラリオンを見ながら口を尖らせた。
「でも、面と向かってお会いしても、王太子殿下を満足させるようなお話はできないと思います」
「関係ありません。彼はあなたに感謝したいだけですから」
「王太子殿下が私に? なぜです?」
「アナスタシア王女殿下の件であなたに世話になったからでしょう」
「……アナスタシア王女殿下の件……?」
キョトンとしたテリルの瞳が、本当に不思議そうにイラリオンに向けられる。
「あ、言っていませんでしたか? 私の縁談相手はアナスタシア王女殿下だったのです。国王陛下たっての希望とのことで断るのが困難だったのですが、あなたのお陰で私と王女殿下の縁談は綺麗さっぱりなくなりました」
「……ッ!」
その言葉を聞いたテリルは、絶句すると起き上がった状態からフラフラとよろめいた。
「テリル! 大丈夫ですか?」
慌てて支えたイラリオンの腕を、テリルは強い力で握る。
「あなたの縁談相手は、アナスタシア王女殿下だったのですか!?」
「え? ええ、そうですが……」
「そんな、私、……私、知らなくて。どうしましょう、……あなたと王女殿下との縁談を、私は邪魔してしまったのですか?」
テリルの体は震えていた。
「どうしてそんなに驚くのですか? 最初から無理な縁談を白紙に戻したいとお伝えしたではありませんか」
尋常ではないその様子を見て心配するイラリオンに対して、テリルはどんどん青ざめていく。
「それは承知していました。でも、まさか相手が王女殿下だったなんて……私、なんてことを……」
「テリル?」
テリルの夜明け色の瞳は、イラリオンを見てはいなかった。目が合っているはずなのに、その瞳はイラリオンではない何かを見つめている。
「……だってあなたは、王女殿下を……」
テリルの小さな口からポロリと零れ落ちたその声を聞き逃さなかったイラリオンは、瞬時に状況を理解した。
テリルはきっと、イラリオンがアナスタシア王女を愛していると勘違いしているのだ。もしくは、これから先の未来でイラリオンが王女を愛するようになると信じ切っている。
『好きな人がいるんだ』
先ほど見た夢の中の自分の声が、妙に耳にこびりついていて、イラリオンは舌打ちしたくなった。
「言っておきますが、私は王女殿下にそのような感情を抱いたことはただの一度もありません。私にとって王女殿下は妹のような存在ですから。何より王女殿下には将来を約束した恋人がいます。彼等の手助けをすることはあっても、仲を引き裂くようなことは絶対にしません」
「でも……だってあなたはあの時、確かに……」
混乱しているのか、テリルは現実と過去と未来の区別がついていないようだった。
体中を震わせて瞳孔は開ききり、倒れる直前と同じようにその目の焦点が合っていない。
「テリル!」
彼女を引き戻そうとしたイラリオンが、呼びかけながら無理矢理目を合わせる。イラリオンの声が聞こえたのか、その瞳が焦点を取り戻し、目の前のイラリオンを捉えたかのように見えた時だった。
「あなたの邪魔をする気はなかったの。ごめんなさい、……ラーラ」
その名を聞いた瞬間。
懇願するような彼女の顔を見たその瞬間。
イラリオンは、限界を越えた。
「やめてください」
どうしようもなく腹が立って仕方ない。テリルにではなく、彼女の中を占める自分ではないもう一人の自分に。彼女を傷つけ苦しめるばかりか、イラリオンの邪魔ばかりする、その幻影に。
テリルの愛を独占しているくせに、こんなにも傷つけているその男が死ぬほど憎らしかった。
「あなたにとって私は……、あなたが今見ている私は、誰ですか?」
テリルを引き寄せて、低い声でそう零したイラリオンのその瞳には、燃えるような嫉妬が宿っていた。
「イ、イラリオン……? それはどういう……」
ハッとしたテリルが正気に戻って、いつもと様子の違うイラリオンにその難解な言葉の意味を問う。
「あなたが見ているのは私ではありません。あなたの過去にも未来にも、そこにいるのは私であって私ではない。あなたを差し置いて別の女性を愛するような、そんな男のどこがいいのですか!」
両肩を掴まれたテリルは、驚いて言葉が出てこなかった。夜明け色の瞳を限界まで見開いて、震える手を口元に当てる。
「それって……」
「あなたが時々口にする、その〝ラーラ〟という男が、私は大嫌いです」
いつも穏やかなイラリオンが、吐き捨てるようにそう言うのを、テリルは言葉を失ったまま見つめるしかなかった。
「こんなにもあなたを傷つけておいて、それでもあなたに愛され続けている。愛する人ひとり守れないくせに、あなたの中から消えてくれない。不誠実で情けないその男と私を一緒にするのはやめてください」
怯えたようなテリルの顔を見ても、イラリオンの激情は収まらない。
「その男が別の次元の〝イラリオン・スヴァロフ〟であることもまた腹立たしい。直接対決できる相手ならば、いくらでもその男を倒して私のほうがあなたに相応しいと証明できるのに」
「……ッ!」
息を呑んだテリルは、驚愕の表情で仮初の夫を見上げた。
「イラリオン……あなた、」
言いたいことはたくさんあった。聞きたいことも、確認しなければならないことも。
「だからどうか、お願いです、テリル。私だけを見てください。こんなにもあなたを愛している私を。他の誰でもなく、今あなたの目の前にいる私を愛してください」
しかし、テリルの目には、目の前の一つのものしか映っていなかった。
「イラリオン、あなた……泣いているのですか?」
震えるテリルの手が、イラリオンの頰に伸ばされる。濡れた感触に触れた途端、縋るような腕がテリルを抱き寄せた。
肩口にかかる小さな嗚咽。
イラリオン・スヴァロフが、泣いている。自分のせいで。
その事実が何よりも重く、テリルの胸に迫った。




