第二十四章 指輪と誤解
「それはそうと、テリル。この際ですから、もう一つ確認しておきたいことがあります」
「はい、なんでしょうか?」
温かな日差しが降り注ぐ中庭、いつの間にか寄ってきていた動物達に囲まれてお茶を飲んでいたテリルは、話を振られて素直に夫を見上げた。そんな妻に、イラリオンは真面目な顔で問いかける。
「あなたは、あなた自身の出自について、どこまでご存じですか?」
「出自、ですか? 父がクルジェット家の直系であることはもちろん知っていました」
「では、あなたの母方の一族については?」
「…………」
黙り込んだテリルは、その夜明け色の瞳でイラリオンを窺い見る。
「……知っています。先ほども公爵様がおっしゃっていた通り、片田舎の平民でした」
「そうですね。しかし、平民ではあっても、特別な血筋であったはずです」
そう断言したイラリオンに、テリルは苦笑を漏らす。
「なんだ。気づいていたんですね。何もおっしゃらないので、そのことはまだお気づきではないのかと思ってました」
イラリオンが知っていたことを特に驚くわけでもなく、テリルは首元から何かを取り出す。
「これは、私が母から譲り受けた唯一のものです」
テリルが首から下げた巾着の中に隠していたのは、指輪だった。
「……強力な保護魔法がかけられていますね。それと、不思議な気配を感じます」
テリルの持つ指輪を見てイラリオンがそう言うと、テリルは大きく頷いた。
「これだけは、クルジェット家の人達でも私から奪うことはできませんでした。おっしゃる通り、強力な保護魔法がかけられていて、母の一族の血を引く者でしか触れられないのです」
「あなたのお母様の一族。それはつまり……」
「この指輪の最初の持ち主は、大魔法使いオレグ・ジャンジャンブルの妻だったそうです」
推察通りのテリルの話に、イラリオンは納得しながら改めて指輪を見下ろした。
「私は魔塔にも出入りしている身ですから、オレグ・ジャンジャンブルが残した結界魔法を見たことがあります。その魔力と同じ魔力をこの指輪から感じます。そして、もう一つ混じっているこの不思議な気配は……人間の魔力ではありませんね」
「スヴァロフ家のあなたは当然知っていますよね。そうです。この指輪の最初の持ち主であるオレグの妻は、精霊でした」
頷いたイラリオンは、公爵が帰って妻と二人になった途端に周囲に寄ってきた動物達を見回した。
「精霊は自然との親和性が非常に高い。あなたの持つ動物と意思疎通できる能力は、精霊の血を引くが故の能力なのでしょう」
「そうだと思います。この能力は物心つく前から使えていたようですから。他にも私はオレグの魔力を受け継いでいるようなのですが、魔法の扱いが下手で、魔力はあってもあんまり活用できていません」
「魔力を? ですが、普段のあなたからはあまり魔力を感じませんね」
改めて向かい合ってみても、テリルからはそれほどの魔力は感じられない。イラリオンが不思議そうに首を傾げると、テリルは指輪をテーブルの上に置いた。
「それは、この指輪の保護魔法が効いているからです。これを持っていれば、私の魔力を隠してくれるようです」
「……っ! なるほど、確かに。凄まじい魔力です」
テリルの指から指輪が離れた瞬間、隠れていた彼女の魔力を感じたイラリオンは、その強大さに思わず息を呑んだ。
魔塔の中でもこれほどの魔力を有する者はいない。その魔力こそ、彼女が大魔法使いの血を引いている何よりの証拠と言っても過言ではないほどだ。
「クルジェット伯爵は、このことをご存じでしたか?」
眉間に皺を寄せてイラリオンが問えば、テリルは首を横に振った。
「いいえ。知っていたらきっと、私をもっと利用しようとしたに違いありません。私から教える義理もありませんし、あの人達は母の家系のことを卑しい平民としか思ってませんでした」
その話を聞いて少しだけホッとしたイラリオンは、胸を撫で下ろしつつも真剣な目を妻に向けた。
「良いご判断だったと思います。あなたが魔法の使い方に長けていたら、あなたの秘密に気づく者が出てきたかもしれません。今後のためにも、その魔力は隠しておいてください」
分かりました、と素直に指輪を持ち上げて巾着の中に隠したテリルからは、魔力の痕跡が一瞬にして消えた。
彼女の血筋と能力が明らかとなり、今後のことを改めて相談しようとしていたイラリオンは、ふと見た向かいに座るテリルの様子がおかしいことに気づいた。
しかし、イラリオンが声をかけるよりも前に、テリルが先に口を開く。
「それにしても、少しだけ安心しました。イラリオン、あなたがどうして私なんかを気にかけてくださるのか、やっと分かった気がします」
スッキリとした笑顔を見せるテリルの言葉に、彼女に手を伸ばそうとしていたイラリオンは、嫌な予感がして動きを止めた。
「それは……どういう意味でしょうか」
「あなたは私の体に流れる血の正体を知っていたから、私を結婚相手に望まれたのですよね」
「なっ! それは違います!」
テリルのとんでもない勘違いに、イラリオンは悲鳴のような声を上げてその恐ろしい考えを否定した。それでもテリルは何も聞こえていないかのように話を続ける。
「そうと知っていれば、最初からお話ししていましたのに。オレグと精霊の血を引いていることは、良いことばかりではありません。母の一族が隠れて暮らしていたのは、この血を利用しようとする者達が多いからです。私の出自があなたにとってご迷惑になるのではと、黙っていてごめんなさい」
勝手に解釈して話を進めるテリルは、イラリオンのこれまでの努力など容易く押し潰していく。絶句するイラリオンを尻目に、テリルは次から次へと喋り続けた。
「確かに、この血は珍しいですものね。精霊の力と、大魔法使いの魔力。私はどちらも受け継いでいますから、ある意味ではとても貴重な人間なのでしょう。ホッとしました。実はずっと、仮初だとしても、あなたの求婚相手がどうして私なのかと思っていました。あなたにはちゃんと目的があったのですね」
しかしイラリオンは、鋭いナイフで切り裂かれるかのような自分の胸の痛みよりも前に、あることが気にかかった。いつもより饒舌なテリルの、その瞳に宿っているのは、安堵などではなく諦めと深い悲しみだったのだ。
「テリル、お願いですから、私の話を聞いてください。絶対に、私はあなたがオレグ・ジャンジャンブルの子孫であるから求婚したわけではありません」
自分の痛みよりも彼女の痛みに気づいて冷静になったイラリオンが、静かに諭すような声でそう宣言するも、テリルは首を横に振る。
「隠さなくて大丈夫です。だって他に、あなたが私を選ぶ理由がありませんもの。過去に少しだけすれ違った際の、私の小さな善意のためかと思っていましたけれど、私のこの血を利用するためだと考えるほうがずっと自然です」
「テリル」
「私はどうすればよろしいでしょうか。どうか好きなだけ、私を使ってください。例えば、いくらでもこのことを公表していただいて結構です。そうすればあなたの名声がより高まりますか? それとももしかして、私との子供をお望みですか? それなら私、あなたがその気になれるようにもっと……」
「テリル!」
立ち上がったイラリオンは、今にも泣き出しそうなテリルの肩を掴んで言葉を止めさせた。
「お願いですから、そんなことを言わないでください」
「イラリオン……?」
やっとイラリオンと目を合わせたテリルに、イラリオンもまた、悲しみに満ちた声を出す。
「流石に傷つきます。あなたの中の私は、そんなに薄情で非道な人間なのですか」
ようやく自分の言葉がイラリオンを傷つけたのだと悟ったテリルは、慌ててそれを否定した。
「……あ。そ、そんなことはありませんっ! 私は、私は、ただ……」
イラリオンを傷つける気はないのだと弁明しようとしながらも、失敗したのかテリルはそれ以上言葉が出てこないようだった。
そんな彼女の様子を痛ましく思いながら、イラリオンは冷静に口を開く。
「私がこのことを確認しようとしたのは、今後あなたが狙われる可能性があるからです。王室はずっと、オレグ・ジャンジャンブルの子孫を探していました。ヴィクトル王太子殿下は理解してくれるでしょうが、国王陛下はなかなか諦めの悪いお方なので、あなたのことを知れば王室に迎え入れようと躍起になるはずです」
「そうなのですか……?」
驚いたように少しだけ目を見開いたテリルは、手を口元に当てた。
「当時のエフレム王は、親友であったオレグ・ジャンジャンブルとその家族を守るために、平民となった後の彼等の記録を抹消したようですが、それを今の王室は執拗に探しています」
「知りませんでした。王室が私を探していたなんて」
困惑するテリルに対し、イラリオンは力強い瞳を向ける。
「もし万が一、あなたの秘密が世間に知られてあなたの身が危険に晒されたとしても、私があなたを守ります」
その青い瞳に見つめられたテリルは、押さえていた口の下で確かに『ラーラ』と呟いた。その呟きにほんの少しだけ、本当に少しだけムッとしたイラリオンは、姿勢を正して席に座り直した。
「そのことをお伝えしたかったのです。どうか、私があなたの血筋を利用しようとしたなどと、そんな悲しい誤解はしないでください」
「ごめんなさい。私……ずっと自信がなくて」
謝ってくれたテリルは、本当に申し訳なさそうに俯いている。そのふわふわの髪、間から見える小さなつむじ。
「……テリル。私はあなたに、あなたのままでいてほしいのです」
イラリオンの腕の中にすっぽりと収まってしまうほど小柄な体に、今は少しだけ潤んでいる夜明け色の瞳。
慕わしいと思うテリルの一つ一つを見つめながら、イラリオンは言葉に心を込めた。
「あなたにはなかなか信じてもらえないのでしょうが、私は本当に、生涯をあなたと共にしたいと、そう心から願って求婚したのです」
「っ!」
「あなたの血筋のことも知ってはいましたが、それが理由であなたに求婚したわけではありません。結果的に契約という形にはなりましたが、契約ではない結婚を望んでいたと言ったのは嘘ではありません」
本当に困ったように戸惑うテリルへと、イラリオンは丁寧に慎重に言葉を紡いで言い聞かせた。
「あなたの持つ能力も魔力も、今後手に入るかもしれない財産や名誉さえも。あなたという人間を構成する要素の一つでしかないのです。もしあなたがそれらを持っていなくても、私は変わらずあの日あなたに求婚しました」
「どうして……」
零れ落ちたその言葉は、彼女の本心からの疑問だったのだろう。目を細めたイラリオンは、儚くも美しい笑顔を愛する仮初の妻に向けた。
「本当に分かりませんか?」
口を少しだけ開いて、すぐに閉じたテリルは首を横に振る。
「……そんなはず、ないもの……」
小さな小さな声で呟いた彼女の耳先は、少しだけ赤かった。それを見たイラリオンは、今はまだ、意識してくれただけでも進歩かとそれ以上追求するのはやめておいた。
テリルにはどこまでも甘くなってしまう自分に苦笑しながら、取り敢えず酷い誤解だけは解けたことに安堵したのだった。




