第二十三章 解ける兆し
「遺言状のことを問いただした私に彼はのうのうと言った。君は病弱で、両親の死を目の当たりにしたショックから精神的に不安定な状態だと。か弱い君に伯爵家を背負わせるのは酷だから自分に全てを任せてほしいとな」
杖の持ち手を握りしめたビスキュイ公爵は、苦々しげに息を吐いた。
「その後、気が触れているだの、変わり者だの。君の噂を耳にする度に、タラスの遺したものを受け継ぐのは君にとって確かに荷が重いのではと思うようになってしまった。だからこそ遺言状の件は黙っていたというのに。まさか、伯爵の話が全て嘘だったとは」
憤る公爵は、イラリオンと同じ青い瞳をテリルに向ける。
「イラリオン卿の話では、君はあの家で娘として扱われるどころか、メイド同然の扱いを受けていたというじゃないか。あの噂も、彼等が意図的に流したものに違いない。あんな者の言葉を信じた私が愚かだった」
どうか赦してほしい、とビスキュイ公爵はテリルに頭を下げた。
そんな公爵に慌てて手を伸ばしたテリルがその顔を上げさせる。
「公爵閣下、そんな……頭を上げてください。私は知っていました。知っていて、何もしなかったのです。決して閣下のせいではありません」
顔を上げた公爵が見たのは、どこまでも真っ直ぐな瞳だった。不思議なその虹彩は不気味だと揶揄され、彼女の悪い噂話に拍車をかけていたのだが。彼女の夫となったイラリオンが〝夜明け色〟と称する通り、よく見ればとても魅力的な瞳だ。
不気味などころか、光を受けてキラキラと二つの色が入り混じるその美しさは、確かに夜明けの空を見ているような清々しさと神秘を感じさせた。
「知っていたと? 君は……彼等に対して怒りや恨みはないのか? ずっと虐げられてきたのだろう?」
公爵の問いに、テリルは首を横に振った。
「私にとって、あの人達に割く時間も感情も、もったいないものだったのです。一時は……あの人達のために時間と感情を無駄にしてしまったことがありました。でも、私にはもっと大切なものがあるのです。私の命も心も、全てを捧げたいと思うものが」
そこでテリルは、ちらりとイラリオンを見る。その瞳を受けたイラリオンの胸がドキリと高鳴った。
「だから、あの人達を気にすることも、関心を引くことも、あらゆる感情を持つこともやめました。当然、怒ることや恨むこともです。その結果私はあの家で幽霊のように扱われていましたが、他にやりたいことのあった私には寧ろ好都合でした」
そう言い切ったテリルは、自分の育った環境を少しも卑下してはいない。そう感じた公爵の目が驚きに見開かれる。
「お祖父様には申し訳ないですが、私にとって伯爵家の地位も財産も、心底どうでもいいものなのです」
これだけの仕打ちを受けてきたにもかかわらず、これまでの境遇をどうでもいいと一刀両断するテリルは、少しも揺れることのないその瞳を公爵に向けた。
この強い女性のどこが、か弱い娘なのか。自分の見る目のなさに呆れながらも、ビスキュイ公爵は大きく息を吐く。
「そうか……。では、無理にとは言わない。しかし、もし君が、手にすべきだった全てを取り戻したいと思うのであれば、私はいくらでも協力する」
「ありがとうございます。閣下のようなお方が味方になってくださるのなら、とても心強いです。その時はどうぞ、お力添えをお願いいたします」
やっと微笑んでくれたテリルを見て安堵した公爵は、大きく頷いて見せる。そして、その横に座るイラリオンへと話しかけた。
「イラリオン卿。此度の件、君がいなければ私は真実を知ることもできずタラスに顔向けできぬまま老いて死ぬところだった。君がテリル嬢を見初めてくれたこと、改めて礼を言う」
「閣下、どうぞお気遣いは無用です。私達は親戚ではないですか」
ふっと表情を和らげたイラリオンがそう言えば、一瞬だけ固まった公爵もまた、張り詰めていた空気を緩めた。
「そうだな。君の曾祖母アリナ・スヴァロフは、私の大叔母に当たる人だ。君のその青い瞳は、確かにビスキュイ家の血筋を引いている証拠だ。それに……」
一度言葉を切った公爵は、誇らしそうにイラリオンへと笑みを向けた。
「正直、私は君を誤解していたのかもしれない。君の活躍ぶりが凄まじいあまりに、スヴァロフ家が大きな権力を持つことを懸念していたが、国王陛下のあの話を潔く断った姿を見て目が醒めた。君は権力に溺れるような男ではない。愛する者を護ることのできる、その名に相応しい英雄だ」
「閣下にそう言っていただけるとは、とても光栄です」
長くキュイエール王国の筆頭公爵家当主として貴族達の頂点に君臨してきたビスキュイ公爵は、とても気持ちの良い思いでイラリオンとテリルの二人を見た。
「イラリオン卿、テリル嬢。ビスキュイ家は今後もスヴァロフ家と良好な関係を築きたいと思っている。二人の結婚を、心より祝福させてほしい」
◇
「テリル。本当に自分の地位を取り戻す気はないのですか? あなたが伯爵を相手にするのであれば、私も全力であなたを支えます」
公爵が帰ったあと、二人きりになったタイミングで、イラリオンは改めてそう問いかけた。真剣な顔をしたイラリオンに対して、テリルは窺うような視線を夫に向ける。
「そうすれば、あなたのお役に立てますか?」
一度言葉を止めたイラリオンは、そっとその手に手を重ねた。
「先日お話ししたことをお忘れですか? 私はあなたに、もっと自分を大切にしてほしいのです。私のためではなく、どうかあなた自身のことを考えてください」
真剣な青い瞳を向けられたテリルは、困ったような夜明け色の瞳でイラリオンを見上げる。
「私は……自分を優先したせいであなたに迷惑がかかるのは、絶対に嫌なのです」
何かを堪えるようなテリルの瞳に、イラリオンは少しだけ心が痛んだ。
テリルの秘密に気づきつつあるイラリオンにとって、彼女が頑なな態度を見せる度。その原因が、自分ではない自分にある気がしてならないのだ。
もし、イラリオンの推理どおり、テリルが本当に未来を知っているのなら。イラリオンがいつか他の女性を愛すると思い込んでいることも、自分の存在がイラリオンの邪魔になるのではといつも気にしていることも。
全てはテリルの知る、未来の自分に関係があるのではないか。
こんなにも強く思い詰めるほどの何かを、彼女の中のイラリオンは彼女に対して、しでかしてしまったのではないか。
自分ではないその自分に苛立ちを覚えて拳を握り締めたイラリオンを前に、テリルはふと柔らかく声を上げた。
「ですけれど。優しいあなたが、血が出そうなほど拳を握り締めて私のことを気にかけてくださるのを見ていると、私はもっと自分を大切にすべきなのではと、思えるようになりました」
テリルの細い手が、イラリオンの握り締められた拳を優しく解いていく。
「あなたがおっしゃる通り、私は自分自身と向き合って、あの人達と決着をつけるべきなのかもしれません」
ハッとしたイラリオンが顔を上げれば、テリルはその瞳を真っ直ぐに仮初の夫へと向けていた。
「イラリオン」
「はい」
「もし……あなたにとって、ご迷惑にならなければ。私の心の準備ができた時に、私を助けていただけませんか」
「もちろんです」
その瞬間。イラリオンの胸の中に、とても熱いものが広がった。
頑なだった彼女の心が、ほんの僅かではあるものの、動いた気がしたのだ。
嬉しい、愛おしい、とイラリオンの心が叫んでいる。その抑えきれない美しい微笑みを、イラリオンは妻へと向けた。
「頼ってもらえるというのは、こんなにも嬉しいのですね。どうか覚えていてください。私もまた、あなたの役に立ちたいと願ってやまないのだということを」




