第二十章 誘惑と理性
深夜に帰宅したイラリオンは、音もなく入った玄関先で、階段に腰掛けてうつらうつらとしている妻の姿を見つけて慌てて駆け寄った。
「テリル! こんな時間まで待っていたのですか?」
「あ、イラリオン……おかえりなさい」
寝惚け顔で微笑んだテリルが、ふあぁっと伸びをして立ち上がる。眠たいのか全体的にぽやぽやとしている彼女を支えてやりながら、イラリオンは申し訳なさそうに告げた。
「すみません、先に眠っているものとばかり思っていたので……」
「お気になさらないでください。さっきまでヤナもいてお喋りしてたんですが、あの子は朝が早いので下がらせたところだったんです」
目を擦りながら首を振ったテリルは、嬉しそうにイラリオンに両手を差し出した。
それがいつもの、上着を受け取る合図だと気づいたイラリオンは苦笑しながら脱いだ上着をテリルに手渡す。
「いつも出迎えありがとうございます」
「いいえ。私がしたくてしていることですもの。それより、領地のほうはどうでしたか?」
「あなたのお陰でなんとかなりそうです。実は、想像以上に切迫した状況でした」
イラリオンが侯爵邸に押しかけたことで現状を全て白状したスヴァロフ侯爵によると、スヴァロフ領は作物への被害だけでなく、土砂災害による被害も受けていた。
「食糧調達に多額の資金を回してしまうと、復興の費用が足りず多くの領民が路頭に迷っていたはずです。食糧問題が解決したお陰で、早速土木工事に着手する手筈を整えることができました」
「そうですか、それは良かったです」
「テリル……」
「はい? どうしました?」
テリルに向けて何かを言おうとしたイラリオンは、開いた口を一度閉じて微笑んだ。
「……いえ。なんでもありません。本当にありがとうございました」
丁寧に頭を下げたイラリオンを前に、パチパチと夜明け色の瞳を瞬かせたテリルは、困ったように笑って、あろうことか手に持っていたイラリオンの上着を羽織った。
「そう改まって言われてしまうと、なんだか寂しいです。どうか私のことは、あなたの所有物だとでも思ってください」
テリルの行動にいちいち大ダメージを受けるイラリオンは、思わず片手で目を覆う。
なんというか、ここまでくると。わざとなのではないかと疑ってしまう。イラリオンの上着を纏ってギュッと握り締め、上目遣いで見上げてくるのは誘っている以外の何ものでもないだろう。
大幅に余った袖をヒラヒラと振って、「あ、イラリオンの匂いがする」と頬を染める様は、殺しにかかっているとしか思えない。
もしかしたら彼女は自分の理性を試しているのではないか。はたまた男心を弄んで楽しんでいるのだろうか。
だとしたらタチが悪すぎる。
疲れて帰ってきたところを可愛い寝惚け顔の新妻に迎えられて、脱ぎたての自分の匂いが染みついた上着に身を包んで見上げられたら男としては色々とアレだ。
歯を食いしばりすぎて血の味までしてきたイラリオンが、身の内に暴れ回る衝動をやっとのことで堪え切ると、テリルは数歩先で笑っていた。
「あなたの上着、温かくてあなたの香りがして気に入りました。私の贈ったものを負担に思われるようでしたら、代わりにこの上着を貰えませんか? それで〝おあいこ〟です」
袖先を余らせた両手を振りながらとんでもないことを言い出したテリルを見て、再び何かを堪えるハメになったイラリオンは、首筋に血管を浮き上がらせながらなんとか微笑んでみせた。
「そんなもので代わりになるはずはありませんが、あなたが望むのでしたら、いくらでも差し上げます」
イラリオンの言葉に喜んだテリルが、はしゃぐようにその鼻先を袖に埋める。イラリオンの匂いを胸いっぱいに吸い込んだその夜明け色の瞳は、どこまでも幸せそうだ。
深夜のホールには、イラリオンのどこまでも重く長く深い溜息が響き渡った。
◇
「イラリオン! お前、いくら新婚だからって親友をこんなに放置するとはひどいじゃないか!」
その日、王室騎士団長の執務室に突入してきたヴィクトルは、黙々と仕事をこなしていたイラリオンの前まで来ると、子供のように声を荒げた。
「ヴィクトル。少し待ってくれないか、この書類を仕上げたら話を聞こう」
顔すら上げずにサラサラと書類を処理する親友に、ヴィクトルは焦ったそうな唸り声を上げた。
「うぅ……本当に重要な書類じゃないか。これじゃあ邪魔できない。せっかく時間を見つけてここまで来たのに……」
しかし、悔しそうなヴィクトルとは裏腹にイラリオンはあっという間に目の前の書類を片づけて、数分と経たないうちに親友へと向き直った。
「すまない。それで、どうしたんだ?」
その仕事の速さも、綺麗すぎる顔も、余裕の表情も。何もかもが憎たらしいヴィクトルは、拗ねたように口を尖らせた。
「どうした、じゃないだろう。お前が奥さんに夢中で親友のことを忘れているようだから、完全に忘れられる前に顔を見せに来たんだよ」
つまりは放っておかれて拗ねたのかと、事情を理解したイラリオンは真剣な顔で頷いた。
「なるほど。それはすまなかった。だが、君と話すと彼女が嫉妬するんだ」
「はあ? 何わけの分からないことを言ってんだ? 冗談もほどほどにしろ」
真面目な顔で意味不明なことを言い出したイラリオンに、ヴィクトルは若干引き気味だ。
イラリオンにとっては嘘でも冗談でもなかったのだが、ヤキモチを妬く妻の可愛い姿は自分だけが知っていればいいかと特に訂正もせず、本題に入った。
「それで。ここに来た本当の目的はなんだ?」
親友に見透かされていたヴィクトルは、敵わないなと息を吐いて話し始めた。
「報告に来てやったんだ。とうとう父上が、お前の結婚相手を公表すると約束してくれた。これまで無駄な足掻きで箝口令まで敷いていたが、もう観念したんだろ。まったくお前には恐れ入ったよ。こんなに早く神殿に婚姻届を受理させるなんて」
肩をすくめたヴィクトルに、イラリオンはなんでもないことのように言った。
「聖下には前々から良くしていただいているからな」
「……まさか、ずっと神殿に寄付を続けてきたのはこのためじゃないだろうな?」
疑うような親友の目に、苦笑するイラリオン。
「もちろん違うさ。ただ、たまたま今までの行いが報われただけだ」
元々美麗だが、イラリオンのその顔はますます美しさに磨きがかかっていた。
「……幸せそうだな」
ポツリと呟いたヴィクトル。
「まあ、それはな」
少々辛いこともあるが、日々充実しているイラリオンが頷けば、ヴィクトルは再び口を尖らせた。
「いいな。お前を見てたら俺も結婚したくなってきたよ」
「すればいいじゃないか」
「それが俺はあと一年は結婚できないんだよ」
「そういえば、陛下もおっしゃっていたな。二十五歳になるまでは王太子を結婚させないと。何かあるのか?」
不思議そうなイラリオンに、ヴィクトルは「ここだけの話だ」と前置きをして話し始めた。
「スヴァロフ家なんだから、お前も当然知っているだろう。〝三銃士〟の一人、伝説の大魔法使いオレグ・ジャンジャンブルの花嫁とその子孫について」
「ああ。彼と親交の深かった王家とスヴァロフ侯爵家にしか伝わっていないあの話のことなら、もちろん知っている」
心当たりのあるイラリオンが頷くと、ヴィクトルはより一層声を潜めた。
「その話の通り、オレグ・ジャンジャンブルの花嫁は、人間じゃなかった。彼は精霊と結婚した数少ない人間の一人だ。その子孫には当然、大魔法使いの魔力と精霊の不思議な力が受け継がれていると言われている」
ヴィクトルの言葉を受けたイラリオンは、慎重に言葉を選んだ。
「……しかし彼は現役引退後、爵位を返上して平民となり、家族と片田舎に移り住んだ。王室もその後の詳しい所在や子孫の行方を把握していないと聞いたが?」
「その通りだ。だが、父上は彼の子孫を探しているんだよ。王族の伴侶にするため……特に次期国王となる俺と結婚させるためにな。だから俺の結婚を先延ばしにしてるってわけだ」
イラリオンは、そのどこまでも青い瞳で王太子を射抜いた。
「つまり、オレグ・ジャンジャンブルと精霊の血筋が現代まで受け継がれていて、その子孫が妙齢の女性だったら。君の花嫁にするということか?」
「そういうことだ。今も熱心に王室の調査機関が子孫の行方を調査中だ。まあ、成果が全く出てないから世継ぎのことも考えて、俺が二十五歳になるまでって期限を設けたんだけどな」
馬鹿げた話だよな、と笑ったヴィクトルは、ふとイラリオンの顔を見て動きを止めた。
「……ヴィクトル。悪いがそれは無理な話だ」
美貌の英雄、国宝級令息イラリオン・スヴァロフは、挑むような鋭い視線を親友である王太子に向けていた。