第十九章 新妻の秘密
その日を境にイラリオンは、妻となったテリルへの猛アプローチを開始した。
「あ、あの……イラリオン、これは本当に必要なのですか?」
「当然です。我々は既に夫婦になったのですから」
イラリオンが真っ先に用意したのは、揃いの結婚指輪だった。
これまではテリルが遠慮して受け取ろうとしなかったのだが、婚姻届が受理された今、していないほうが不自然だと説得を重ねて漸くテリルの指に収まったその指輪を、イラリオンは愛おしそうに何度も撫でる。
「イラリオン? えっと、さっきから、距離が近くありませんか?」
テリルの手を握り、何度も何度も指輪を撫でる至近距離の夫の、目が眩むような美貌に顔を真っ赤にしながら、テリルは静かにイラリオンと距離を取ろうとする。
「そんなことはありません。夫婦なのですから、これくらいの距離でいるのは当たり前です」
そんなテリルを、逃がさないとばかりに捕まえては、さらに距離を詰めるイラリオン。
「で、でも、流石に近すぎます……!」
どうしていいのか分からないのか、テリルは終始照れてはいるものの、本気でイラリオンを拒絶することはなかった。
「そうですか? 私はもっと、あなたに近づきたいくらいなのですが」
どんな時もイラリオンを尊重してしまうテリルの性質をよく理解しているイラリオンは、ここぞとばかりにその美貌で仮初の妻を誘惑する。
夫の掠れた甘い囁き声に、テリルが首まで真っ赤になったその時だった。
「旦那様、奥様。大旦那様の歓迎準備ができました」
仮初の夫であるはずのイラリオンに迫られて困惑していたテリルは、声をかけてきたメイドの言葉に慌てて夫から離れた。
「ヤナ! ありがとう。全部任せてしまってごめんなさい」
二人の屋敷にはこの後、イラリオンの父であるスヴァロフ侯爵が訪れて、結婚の報告と挨拶をする予定だ。
イラリオンが手を離してくれないせいで、メイドのヤナに準備を任せるしかなかったテリルが慌てて立ち上がってそう言うと、ヤナは首を横に振った。
「いえ。奥様は目を離すとすぐに働こうとしてしまわれるので、たまにはゆっくりお休みしていただきたいと前々から思っておりました」
テリルを気遣ってくれる彼女に気を良くしたイラリオンは、穏やかな表情でヤナを労った。
「ヤナ、いつもご苦労様です。家事は一人で問題ないですか?」
「はい。今日の洗濯は、あのカワウソが手伝ってくれました。他にも掃除はネズミ達が分担してくれていますし、食事は旦那様と奥様が手伝ってくださるのでとても助かっております」
「そうですか。それは何よりです。暫くの間は君に負担をかけてしまいますが、これからもよろしく頼みます」
「もちろんです。奥様のお陰で解雇されずに済んだのですから、これからも精一杯お仕えしたいと思っております」
何よりも彼女がテリルの信頼を得ているのなら、それ以上のことはないと上機嫌なイラリオンは、満足そうに頷いたのだった。
◇
「父上、お越しいただき感謝します。妻のテリルです」
「お初にお目にかかります」
「……うむ」
予定通りに屋敷を訪れたイラリオンの父、宰相を務めるスヴァロフ侯爵は、テリルの丁寧な挨拶に少しだけ動揺しながらも、イラリオンに促されるまま屋敷内に足を踏み入れた。
「少々事情がありまして。早急に進めたため、父上に正式な許可をいただく前に婚姻届が受理されました。式は入念に準備をして一年後に挙げる予定です」
席に着いた途端、要点だけを話すイラリオン。この説明で大丈夫なのかとテリルが心配していると、侯爵は呆気なく頷いた。
「私に許可を仰ぐ必要はない。私はいつでも、お前に侯爵家を明け渡す用意ができている。だから、お前の好きにしなさい」
「父上……ありがとうございます」
息子に頷いてみせた侯爵は、次に息子の横に座るテリルに目を向けた。
噂では気の触れた変わり者令嬢と揶揄されるテリルは、イラリオンに貰ったドレスを上品に着こなして、背筋を伸ばして座っている。
自慢の息子が選んだ女性なのだから、どんな令嬢でも受け入れようと思っていた侯爵は、ひと目見て彼女が噂通りの令嬢ではないと見抜いていた。
そして何よりも、彼女を見つめる息子のあの甘い瞳、締まりのない顔。異性に対して全く関心を示さないどころか、誰に対しても一定の距離を保つイラリオンが、彼女にだけは見るからに心を許し自分から距離を詰めている。
それが意味するところは明白だった。
「テリル。息子をよろしく頼みます。君に随分と執心のようだから、どうか見捨てないでやっておくれ」
思ってもみなかったことを侯爵から言われたテリルは、イラリオンのほうをチラチラ見ながらおずおずと頷いた。
「えっと、はい。未熟な私ですが、少しでも彼のお役に立てるよう精一杯頑張ります」
うんうん、と満足そうに頷いていた侯爵は、それではと席を立とうとした。
多忙な中で時間を作ってくれたのは知っているが、あまりにも早い帰りにイラリオンは違和感を覚え、ついでに父の目の下にできたクマを見てすぐさま声をかけた。
「父上、何かあったのですか? お疲れの様子ですが」
立ち上がりかけた侯爵は、いつまでも息子に隠しておくのは無理だと判断したのか、席に座り直して大きな溜息を吐いた。
「ああ。……実はな、先日の嵐で領地に甚大な被害が広がっていてな。中でも作物の被害がひどく、食糧不足が深刻化しているんだ」
予想外の父の答えに、イラリオンは慌てて言い募った。
「そんな一大事をどうして教えてくださらなかったのですか。今すぐ手を考えましょう」
これまで驚くほどに優秀で、手がかかるどころか父親である自分を助けるほどに有能だったこの息子が、遅れてきた春を謳歌せんとばかりに浮かれて新妻のための新居をせっせと用意していたのを知っている侯爵は、このことで新婚の息子を煩わせたくはなかった。
「……お前に相談したところで打つ手は限られるだろう。金だけならまだしも、食糧だ。スヴァロフ家の貯蔵庫を開くのは当然として、それもいつまで保つか。近隣の領も同じ状況だと報告が来ているから、今後は食糧の余っている南部の領に救援要請が殺到するだろう。この交渉を上手く進めなければ、領民達が飢えに苦しむことになる」
「確かにおっしゃる通りですが。私も後継者として手伝わせてください」
胸に手を当てたイラリオンが父に強い目を向けると、侯爵は静かに首を横に振った。
「お前に任せたほうが早く解決するかもしれんが、お前も妻を迎えて色々と大事な時期ではないか。ここは私がどうにかするから、心配するな。こう見えてもまだまだ現役だ」
「しかし」
「あの……もしよろしければ、なのですが……」
加熱するかに見えた親子の言い合いを遮ったのは、イラリオンの横で居心地悪そうに座っていたテリルだった。
「……私に解決策があります」
「テリル?」
「君が……?」
驚いた親子が呆然と目をやると、テリルは立ち上がってそっと頭を下げた。
「少々お待ちいただけますか?」
「これは?」
テリルが持ってきたのは、莫大な量の穀物の貯蔵記録だった。その量はスヴァロフ家が所有している貯蔵量の数倍はあり、来年の作物が実る時期まで十分に領民が食べていけるだけの量だった。
「私が個人的に所有しているものです。全てお好きなように使ってください」
「なっ……!」
「!?」
衝撃を受けた二人が、同時に顔を上げてテリルを見る。
「テリル、これはいったい……」
イラリオンが問いかけると、テリルはなんでもないことのように言った。
「どうぞご遠慮なさらずに。どちらにしろ、スヴァロフ家に寄付しようと思っていたものです。これで領民のお役に立てるのなら何よりです」
今後の対策のため、スヴァロフ侯爵はテリルの持って来た書類を手に慌てて侯爵邸に戻っていった。
父を見送ったイラリオンが説明を求めて向き直ると、テリルは自分のしたことが少しも特別だとは思っていないような態度でイラリオンに話し始める。
「実は、あれをどうやって渡そうか悩んでいたのですけれど、結婚しておいて良かったです。夫婦であれば財産を渡すことは何もおかしいことではないですから。あなたと再会する前は、寄付という形にするしかないと思っていたのですが、流石に他人からいきなり寄付されても怪しくて受け取ってもらえないかもと心配してたんです」
イラリオンは、どこから突っ込めばいいのか分からないテリルの言葉に頭を抱えた。
あの量の穀物を、元からイラリオンに寄付するつもりで用意していたと言うのなら、ある意味正気ではない。
こうなることを見越して準備していたのが明白な彼女の言動に、イラリオンは痺れる脳を使って取り敢えず必要な情報を確認した。
「どうやってあの量を? 購入するのはもちろんのこと、維持にも相当な費用が必要だったはず。あの伯爵家にいて、その資金をどこから調達したのですか?」
「あの穀物については、こんなこともあろうかと一年前から準備をしていました。お金は……賭けや投資でそれなりに持っていたので特に困りませんでした」
「賭けや投資……?」
「あ、えっと、そんなに大したものではないのです。たまたま、運良く手にしたお金だったので、何かあなたのために役立てたかったんです」
言いたいことはたくさんあったが、イラリオンは彼女の夜明け色の瞳を数秒見つめると、諦めたように溜息を吐いた。
そうして、その小柄な体に手を伸ばし、腕の中に閉じ込める。
「えっ、イ、イラリオン?」
突然抱き寄せられて驚いたテリルが腕の中から抜け出そうとするが、イラリオンの力に敵うはずもなく、そのまま仮初であるはずの夫の腕に抱かれるしかなかった。
「まったく。あなたという人は……」
「わ、私、また何か余計なことをしてしまいましたか?」
イラリオンの呆れた声に慌てたテリルが腕の中から問いかけると、イラリオンはそのままの状態で答えた。
「いいえ。助かりました。あのままではスヴァロフ領はかなりの損害を被ったはずです。私も父を手伝いに行こうと思います。暫く帰りが遅くなるかもしれませんが……」
「どうぞお気になさらず。ただでさえご多忙なのに、ここのところ早く帰ってきていただいてたでしょう? あなたに会えるのは嬉しいですが、心苦しくも思ってたんです。私のことは気にせず、あなたのやるべきことをなさってください」
「……〜〜ッ!」
堪らなくなったイラリオンは、テリルから身を離すとその瞳を覗き込むように正面から顔を見合わせた。
「テリル」
「イ、イラリオン! あんまりそんなふうに見つめないでください、私、勘違いしてしまいそうです!」
「あ……」
イラリオンの一瞬の隙を突いてその腕から逃れたテリルは、真っ赤な顔で早口に捲し立てた。
「すぐお出かけですよね、私のことはいいので早く準備をなさってください。私はヤナの手伝いをするのでもう行きます、あとでお見送りいたしますから」
そそくさと言い訳を並べて走り去っていくテリルの背中を見送りながら、イラリオンは残念な気持ちもある中で、その慌てぶりに苦笑してしまった。
「嫌なわけでは、ないんですね。勘違いではないのですが」
ふわふわとした髪を揺らして去るその背中がどうにも愛おしくて、完全に見えなくなるまでずっと見ていたい。
しかし、温かな想いとは別に、イラリオンは今回の件で一つの確信をした。
ずっと前から、その可能性を感じていたが、まさかとは思っていた。
初めて会った日に、テリルがイラリオンに告げた言葉。
王太子になる前のヴィクトルを王太子と言い、仲良くするように助言し、他者への接し方についてイラリオンを諭す彼女の言葉は妙に具体的だった。
そして、何より。イラリオンが命を落としかけた、あの戦場での一夜。
あの日イラリオンが単身で敵地に乗り込んだのは、作戦とは関係のない突発的な行動であり、あれを予測できた者はいるはずがなかった。
それを矢が飛び交う戦地の真ん中まで赴いて助け、イラリオンと部下の命を救ったテリルのあの行動。
それに加えて今回の、スヴァロフ領の災害に備えた穀物の貯蔵。その時期や資金の出所も含めて、何もかもが偶然というにはあまりにも出来すぎている。
イラリオンの頭の片隅にあった非現実的な仮説を適用するほうが、よっぽど現実的だ。
これまでの彼女の言動の数々が、一つの答えを示していた。
イラリオンの想い人、愛する仮初の妻、テリルは――――
「彼女はやはり……未来を知っているんだな」