第一章 国宝級令息
イラリオン・スヴァロフ。
このキュイエール王国で彼の名とその功績を知らぬ者はいない。しかしながら、数々の功績を残す彼には称号が多すぎて、人々は親しみと畏敬の念を込めて彼を〝侯爵令息イラリオン卿〟とだけ呼んでいた。
多くの宰相を輩出した名家、スヴァロフ侯爵家の後継に生まれ、国王の従妹を母に持ち、幼い頃から卓越した頭脳で周囲の大人を圧倒してきた天才。更には鍛え抜かれた剣技で数々の敵を葬り戦争を勝利に導いたソードマスター。
アカデミーは当然ながら首席で卒業。王宮の文官として望まれていたが、何故か王室騎士団の門を叩いたかと思えば瞬く間に頭角を現し、史上最年少のソードマスターとして騎士団の猛者をまとめ上げ、若くして王室騎士団長にまで上り詰めた逸材。
そのまま武の道を突き進むのかと思いきや、王国の軍部を担う王室騎士団の団長として務めを全うする傍ら、宰相である父を補佐し、様々な助言と立案を行って政治の面でも国家に大きく貢献する。
それだけには飽き足らず、彼がアカデミー時代に書いた魔力と魔法の原理に関する学術論文は高く評価され、次元の狭間の検出方法確立による時空操作の新たな術式構想を打ち立てたことは、魔術の研究機関である魔塔から魔塔主就任の要請が掛かるほどの大発見だった。
多忙を極める彼はその誘いを断ったが、なんとしても彼との繋がりがほしい魔塔は〝特別顧問魔術師〟という名誉職を作り、その名を魔塔に連ねてほしいと懇願した。結局その熱意に折れたイラリオンは、その地位に就き魔塔にも籍を置くこととなった。
国王の覚えもめでたく、更には誰もが見惚れるほどの美貌を持ち、甘いマスクで王国中の令嬢を虜にする美男子。
彼が次期スヴァロフ侯爵となるのは既に決定事項。それに加えて騎士団長という肩書にも関わらず、次期宰相の最有力候補に挙げられ、魔塔からも呼び声の掛かる傑物ぶりはもはや伝説の域だった。
自ら志願し参戦した戦争では総司令官を務め、知略を駆使して巧みな戦術と敵を圧倒する剣術でもって先陣を切り、長年続いた隣国との戦争を見事勝利に導き終結させる。この功績は高く評価され、国王から勲章と英雄の称号、伯爵位を授けられたのは記憶に新しい。
独自の功績で伯爵となった今も、彼が人々から〝イラリオン卿〟とのみ呼ばれるのは、彼の功績が伯爵程度では収まらないことに対する敬意の表れでもある。
ここまでくれば他の令息達からのやっかみが半端ではないはずなのだが、性格までもが果てしなくいいこの男。真面目で礼儀正しく爽やかで、思い遣りがあり優しい紳士。それでいて気さくで時折茶目っけまで覗かせるが、自分の実力に驕らず謙虚さを常に持ち合わせて他者を敬う心を忘れない。
やっかみを受けるどころか誰からも慕われ、尊敬され、権力に執着する貴族も己の利にしか興味のない商人も偏屈な老人も市井の年端もいかぬ小さな子供達までもが、関係なく彼を称賛し一目置いた。
また、相手が誰であっても分け隔てなく接するその物腰の柔らかさ、丁寧さ、上品さ、清らかさ。他者を貶める発言など彼の口から聞いたことはなく、常に国のために献身し尽力を惜しまない高潔さ。欠点など皆無な彼の人気は止まることを知らず、まさに国宝級とまで称される男。
そんな彼は現在、二十四歳独身。幼い頃から勉学と鍛錬に励み、成人した後は熱心に仕事一筋を貫いてきたためか、今まで浮いた色恋話の一つもない。清廉潔白な文武の才を兼ね備えた美貌の英雄。
嫁ぎ先として超絶有能最優良物件である史上最高のモテ男、天下の国宝級令息イラリオン・スヴァロフ……が、花束と求婚状を手に訪れたのは、とある伯爵家だった。
「イラリオン卿、よもや王国の英雄と名高い卿にお越しいただけるとは、我が家門の名誉です」
「こんなに喜ばしいことはありませんわ!」
「クルジェット伯爵閣下、伯爵夫人、貴重なお時間を頂戴し感謝申し上げます」
眩しいほどの美貌で丁寧に挨拶をしたイラリオンを見て、ホクホクとした伯爵は満面の笑みを浮かべた。その隣で伯爵夫人も頰を紅潮させ微笑んでいる。
今や王国中の誰もがこのイラリオンの縁談について話題を口にしない日はない。
そんなイラリオンが、見るからにそれと分かる花束と求婚状を手に我が家に来た。期待しない方が無理である。
コンコン、と軽妙なノックの音に、伯爵夫妻は溢れ出す笑みを抑えることができなかった。
「入りなさい」
ニヤつきの収まらない伯爵の合図で応接室に入って来たのは、ツヤツヤとした金髪を緩やかに纏め上げた、美しい令嬢だった。
「娘のソフィアです」
伯爵が紹介すると、令嬢は恥じらうようにイラリオンの目を見上げる。
「お初にお目に掛かります。クルジェット伯爵家のソフィアと申します」
ソフィアが礼をすると、イラリオンもまた優雅に立ち上がり礼をした。
「お会いできて光栄です、ソフィア嬢」
スッと頭を下げたイラリオンの所作のあまりの美しさに、ソフィアは頰をこれでもかと赤らめる。
その瞳は期待に満ち溢れていた。
誰もが憧れるイラリオンの花嫁の座を射止めるのは自分だと信じて疑わない表情。身の内から沸き上がる興奮を必死に隠しながら、ソフィアはイラリオンの言葉を待った。きっとすぐにでも求婚の言葉と花束がもらえるだろう。
しかし、いくら待ってもイラリオンから求婚の言葉はない。それどころかイラリオンは、優雅な笑みを見せつつも、何かを待つかのようにその場で黙り込んでいる。
「あの、イラリオン卿……?」
痺れを切らしたのはクルジェット伯爵だった。咳払いと共にイラリオンに声を掛ける。
「はい、伯爵閣下」
「娘に話があるのでは?」
「その通りです」
「ならば話を……」
「ですが、ご本人がいらっしゃらない場で申し上げるわけにはいきません」
「本人……?」
イラリオンの言っていることが分からず、伯爵は首を傾げた。堪らず伯爵夫人が隣からイラリオンへと声を掛ける。
「ソフィアはここにおりますが……?」
心底不思議そうな伯爵夫妻を見て、イラリオンは爽やかな微笑みを絶やすことなく告げた。
「失礼ながら。私がお会いしたいのは、ソフィア嬢ではなく、テリル嬢です」
その言葉に、伯爵と伯爵夫人、ソフィアは息を呑んだ。
「テリル嬢は、今どちらに?」
イラリオンのどこまでも美しく、清廉で鮮やかな青い瞳が真っ直ぐに伯爵に向けられる。
伯爵は狼狽えながらも、しどろもどろになって答えた。
「ちょ、長女のことを言っているのでしたら……何かの間違いでは? アレはとてもイラリオン卿の前にお出しできるような娘ではありません」
〝アレ〟。娘に対するその侮蔑のこもった言い方に、イラリオンはほんの少しだけ眉を上げた。
「いいえ、間違いではないかと。私は本日、テリル嬢にお会いしたく参ったのです」
「……アレはここにはおりません。情緒不安定で少々頭の悪い娘でしてね。大切なお客様のお邪魔になってはと、屋敷の外に出しております」
「そうですか。では、また後日、改めてテリル嬢へのお目通りをお許しいただけないでしょうか」
明らかに長女を軽視する発言の伯爵に対し、イラリオンはあくまでも丁寧に懇願した。
「失礼ですが、テリルにどのような用件がおありなのですか?」
「ご令嬢本人とお話ししてからと思っておりましたが、私はテリル嬢に求婚させていただきたいのです」
ハッキリとそう告げたイラリオンに対し、クルジェット伯爵夫妻とソフィアは悲鳴のような声を上げた。
「求婚!? アレはイラリオン卿に相応しい娘ではありません!」
「あんな娘、相手にする価値もございませんわ!」
「イラリオン卿! イラリオン卿はアレのことを知らないのですわ、知っていればあんな女に求婚しようなどという物好きがいるはずありませんもの!」
絶叫する親子に向けて、イラリオンは美麗で物憂げな微笑みを見せた。
「私はテリル嬢に心を寄せております。彼女にお会いしたのはたったの二度だけですが、彼女の許しをいただけるのなら、是非私の人生の伴侶になっていただきたいのです」
ただでさえ目が眩むほどの美貌を持つイラリオンが、目を伏せ切なそうに話す様は、目の保養どころではなく目の毒だった。
あまりの美貌に両目を覆いながら、それでも伯爵親子はなんとか抵抗を試みる。
「失礼ながら、卿はアレに騙されているようだ!」
「一般的な常識をお持ちの方なら、あんな娘に心を寄せることなどあり得ません!」
「そうですわ、そんな男がいれば、狂人もいいところですもの!」
叫ぶ三人に向けられたイラリオンの瞳は、少しも揺らいではいなかった。
「狂人ですか。これは残念です。お三方は私をあまり良く思っておいでではないようですね。私が未熟なばかりにテリル嬢への求婚をお許しいただけないのであれば、より精進させていただきます。ですのでどうか、テリル嬢への求婚をお許しください」
「ぐっ……!」
王国一の頭脳と肉体、美貌を持つイラリオンが丁寧に頭を下げている。その姿を前にしたクルジェット伯爵は、何も言えずに黙り込んだ。先程のソフィアの発言はまずかった。これ以上何かを言えば、天下のイラリオン・スヴァロフに対する侮辱と見做されてしまうかもしれない。
そんなことになればスヴァロフ侯爵家のみならず、彼を崇拝する王室から他の貴族家門、果ては国民全てを敵に回してしまう。
しかし、あの長女を表に出すわけにもいかない。どうしたものかと、応接室に沈黙が落ちたその時だった。
コンコン
応接室の扉が叩かれ、一人のメイドが室内に入って来た。お茶と菓子の載ったカートを押して来たそのメイドを見て、真っ先に動いたイラリオンは素早く部屋を横切る。
「テリル嬢。またお会いできて光栄です」
丁寧な仕草でメイドへと頭を下げるイラリオンに、その場の誰もが言葉を失った。当のメイドは驚きのあまり準備しようとしていたティーカップを取り落とし、憐れにも床に落ちたカップは音を立てて割れたのだった。