第十八章 運命共同体
「え、えっと……」
真っ赤になったイラリオンは、口をモゴモゴと動かして何かを言おうとするが、言葉が出てこなかった。
ヤキモチ、嫉妬。あのテリルが。
王太子相手にそんなにあからさまに嫉妬をするほど、彼女がイラリオンのことを好きでいてくれるのだと思うと、イラリオンの心臓がドキドキと高鳴ってどうにかなりそうだ。
その不機嫌そうな素っ気ない態度に先ほどまで焦っていたのに。今では彼女のその態度が可愛くて仕方ない。
硬直するイラリオンとは対照的に、テリルはもじもじと指を動かして落ち着きがなかった。
「……あなたが、王太子殿下と懇意にされていることは喜ばしいことだと思います。頭では分かっているんです、イラリオンが殿下と親しくするのは重要なことだと。ですけれど、やっぱり悔しいです」
イラリオンの袖を指先で引っ張り、テリルは上目遣いになって夫となったばかりの美貌の英雄を見上げた。
「私には、あなただけなのに」
グッと胸に迫るものを必死で押し込めたイラリオンは、息をするのもやっとなくらいに打ちのめされながらも、瀕死の理性を無理矢理叩き起こして正気を保った。
そして、彼女の愛を見せつけられるほど、やはり思ってしまう。
どうして。ここまで口に出すほど想ってくれているのに、彼女はイラリオンの想いを受け入れてはくれないのか。
「私にも、テリル……あなただけです」
漏れ出たのは本心で、紛れもないイラリオンの本音なのに。
握った手は、今日もするりと離れてしまう。
「ありがとうございます。……そう言っていただけるだけで、十分です。変なことを言ってごめんなさい。今の話は忘れてください」
イラリオンが想いを伝えようとする途端、その気持ちを引っ込めて逃げようとする彼女。
歯痒くて、切なくて、それでも愛しくて。毎日がどうにかなりそうなイラリオンは、逃げていく彼女の手を握り直した。
「イラリオン?」
「……言葉でダメなら、態度で示すしかないのでしょうね」
「え?」
イラリオンが呟いた言葉の意味が分からず首を傾げるテリルに、イラリオンは美麗な笑みを向ける。
テリルの頬が赤く染まったことにひとまず満足したイラリオンは、気持ちを整理して思考を前向きに切り替えた。
これまで彼女を観察してきて、分かったことがある。
それは、テリルにはどうにも強固で崩れることのない思想があり、そのためにイラリオンが自分を愛することなどあり得ないと思い込んでいる、ということ。
イラリオンがどんなに言葉を尽くしたところで、テリルの根底にあるその思想が壊れることはない。そしてその思想が壊れなければ、イラリオンの気持ちが彼女に届くことはない。
では、どうすればいいか。
言葉だけでなく態度で、行動で、イラリオンの全身全霊で。何度でも、この想いを伝え続けるしかない。
氷のように固まっている彼女のその固定観念を、溶かして削って割って、少しずつ侵食していくのだ。
そうすればいつか、分厚い壁を取り払って疑うことすらできなくなった彼女の心は、イラリオンを受け入れるしかなくなるだろう。
「あなたが望むのなら、今後二度と王太子殿下とは接触しません」
誓うようにテリルの手に口付けたイラリオンに、ギョッとしたテリルは慌てて首を横に振った。
「なっ! 何を言い出すのです、そんなこと、ダメです!」
「では、どうすれば信じてくれますか? 私にとって一番大切な人は、あなたなのです」
これまで遠慮気味だったのが嘘のように、急に距離を詰めてくるイラリオンに困惑するテリル。
「わ、分かりましたから……心臓に悪いので、もうおやめください。あなたの優しさは私が一番よく知っていますので」
耳の先を赤くして目を逸らす彼女が可愛くて、しかしあまり急にやりすぎるのは逆効果だと判断したイラリオンは、詰めていた距離を元に戻して礼儀正しくテリルから手を離したのだった。
◇
「そうでした、テリル。式のことで一つだけ、ご相談したいことがあります」
「はい、なんでしょう?」
イラリオンの言葉に姿勢を正してパチパチと愛らしい瞳を向けてくるテリルの姿に何度も胸を撃ち抜かれながら、イラリオンは冷静さを装って口を開いた。
「式にはクルジェット伯爵家の皆さんをお呼びしますか?」
「それは……当然そうなりますよね」
至極当然なことを聞いてくるイラリオンに違和感を覚えながらも、テリルは答えた。
「あなたが望まないのであれば、無理に呼ぶ必要はありません。長年あなたを虐げた人達ではないですか。私としては、彼等を呼ぶ必要も、今後関係を持つ必要もないと思うのですが」
あまりにも鋭いイラリオンの声に、テリルは彼が自分のために怒ってくれていることを感じた。
ダメだと思うのに。仮初の関係だと分かっているのに。イラリオンがこうしてテリルを大切にしてくれる度に、テリルの胸が甘くドキリとしてしまう。
(流されてはダメよ。気をしっかり持たないと、今度こそ彼には幸せになってもらわないといけないんだから……)
「……確かに。あの人達はきっと、この結婚を利用しようとするはずです。だから、あなたに迷惑がかかるくらいなら完全に縁を切ってしまおうと思います。でも、結婚式に新婦側の参列者がいないのは……私は構いませんが、あなたの恥になってしまいませんか?」
自分のことよりも、いつだってイラリオンが優先なテリル。そんな彼女を愛おしくも悲しく思いながら、イラリオンはこれまで準備してきたことを彼女に打ち明けることにした。
「それなのですが、とあるお方があなたの後見人になりたいとおっしゃっています。一度お会いしたいとのことですが、いかがでしょうか?」
「後見人? 私のですか? いったいどなたが?」
「ビスキュイ公爵閣下です」
その名を聞いたテリルは、驚きに目を見開いた。
「お祖父様のご友人の? でも、今までなんの接点もなかった公爵閣下が何故、私を……」
筆頭公爵家の当主からそんな提案を受ける理由が分からないテリルは、ハッとしてイラリオンの青い瞳を見上げた。
「……まさか、イラリオン。あなたが?」
「さて、なんのことでしょうか」
とぼけるイラリオンの瞳の奥には、楽しそうな光が見え隠れしている。彼が何かを手回ししたのだと気づいたテリルは、片手でそっと頭を抱えた。
「そうですよね。あなたが、何も気づかないはずがありません。いったい、クルジェット家の秘密をどこまで知っているのです?」
仮初とはいえ、結婚相手の家庭事情を何も知らずにイラリオンがことを進めるはずはないのだ。優しい彼ならば尚のこと、テリルが置かれていた状況を見て動かないはずがなかった。
まずはイラリオンが何を知っているのか確認しようとしたテリルに対し、イラリオンは肩をすくめた。
「秘密、とはなんのことを指しているのでしょうか。先代伯爵の孫娘であり、唯一の直系血族であるあなたの養父になることで、傍系の出自にすぎなかった現クルジェット伯爵がクルジェット家の財産と伯爵位を得た話は、高位貴族であれば知っていて当然です」
テリルに口を挟む暇も与えず、イラリオンはさらに続けた。
「それとも、周囲には養女であるあなたを大切に保護していると偽って、裏では伯爵があなたを虐げていたことでしょうか? あとはクルジェット伯爵家を継ぐべき正統な後継者はあなたであり、現クルジェット伯爵にはその資格がない、ということですか? または先代伯爵が相続について記された遺言状を現クルジェット伯爵が隠蔽した件もでしょうか?」
「……全てお見通しなのですね」
何もかも調査済みのイラリオンの手腕に呆れ果てたテリルが困ったように笑うと、イラリオンは真剣な顔で彼女に向き直った。
「テリル。あなたはどうしたいですか。あなたが望むなら、私はいくらでも協力いたします。あなたが享受すべきだった財産や権利、名誉、名声、それらをあなたの手に取り戻したいと思いませんか? あなたから全てを簒奪したあの者達に復讐をしたいと、思ったことはありませんか?」
身を乗り出したイラリオンは、テリルに真剣な目を向けた。その青い瞳は一見涼しげだが、その奥に強い炎が宿っている。
少しだけ考え込んだテリルは、その瞳を正面から見つめ直した。
「私自身は、特にそれを望んでいません。復讐を考えた時期もありましたが、全ては無意味なことです。この人生において、私にとって一番大事なのはイラリオン。あなたなのです」
少しも揺れることのないテリルの真っ直ぐな瞳が、イラリオンを射抜く。
「ですから私のことは二の次なのですが、例えばクルジェット伯爵家の財産や地位があなたの役に立つと言うのなら。喜んであの人達からそれを取り戻しますし、全てをあなたのために捧げます」
どこまでもイラリオンに対して献身的な彼女のその姿が愛おしいが痛ましくて、イラリオンは拳を握り締めた。
「テリル……」
そうして彼女の手を取り、諭すように口を開いた。
「お願いですから、私を想ってくださるその十分の一……いえ、百分の一でも構いませんから、ご自身を大切にしてくださいませんか」
懇願に近いイラリオンのその声音に、テリルの体がピクリと反応する。
その夜明け色の瞳を切実に見つめるイラリオン。
「私にとってあなたは掛け替えのない人です。私達は、最早他人ではないのです。あなたが傷つけば私の心が傷つき、あなたが奪われた分だけ私の理性は失われていくのです。そのことをどうか、肝に銘じてください」
「イラリオン……」