第十六章 新婚仮夫婦
「おかえりなさい、イラリオン」
「ただいま帰りました」
帰宅したイラリオンは、自分を出迎えるためにわざわざ玄関へ降りてきてくれる愛しい人を見て、幸せそうに微笑んだ。
「今日もお疲れでしょう? 先にお食事になさいますか?」
とてとて、と小柄な体を一生懸命動かして走ってきたテリルは、両手を差し出してイラリオンの上着を受け取ろうとする。
そんな使用人の真似事はしなくていいのに、と思う一方でイラリオンは、彼女のその仕草があまりにも可愛く思えて、いつも何も言えずに上着を渡してしまうのだ。
「そうですね。いただいてもいいですか?」
「はい、ヤナに言ってすぐに用意させますね」
イラリオンから受け取った上着を大切そうに抱えたテリルは、満面の笑みでイラリオンを見上げていた。彼女曰く、イラリオンの役に立てるのが何よりも嬉しいのだという。
(……可愛すぎる)
そのふわふわとした淡いミルクティー色の髪の先から、小さくて器用な指の先まで。そして幻想的な色彩を持つ、夜明け色に輝く瞳も、笑顔が似合うその頬に浮かぶソバカスも、彼女の持つ何もかもが、イラリオンにとってはどこまでも愛らしくて仕方なかった。
と、その時。上階からスゥーっと降りてきた一羽のカラスが、挨拶するようにイラリオンの前に着地して「カァ」と鳴いた。
「今日も来てたのか、クロウ」
カチャ、カチャ、と爪音を響かせながら近づいてきたカラスは、イラリオンの側に来ると甘えるように嘴を押しつける。
幼い日に一度助けただけのカラスは、再会してからというもの、これでもかというほどイラリオンによく懐いていた。
「おいで」
イラリオンがそっと手を差し出すと、嬉しそうに目を細めるカラスはまるでイラリオンの言葉を理解しているかのように差し出されたその手に頭を乗せる。
一頻りカラスの頭を撫でてやったイラリオンは、テリルと一緒に食事の席へと向かった。その後ろからは当然のようにクロウが二人を追いかけている。
「おや、初めて見る子ですね」
テーブルに着いたイラリオンは、そこにいた先客を見て興味深そうに呟いた。
「クロウが連れて来た新しいお友達です。温かくなってきたので伴侶を探していたら、間違って王都まで出てきてしまったそうです」
テリルの説明に頷きながら、小さな客人に目を向けるイラリオン。
つぶらな瞳をパチパチと不思議そうに瞬かせてイラリオンを見上げたのは、美味しそうに魚に齧りついていたカワウソだった。
テリルと暮らすようになって、イラリオンの屋敷には小さな来客がよく訪れるようになっていた。
これまでの短い間だけでも、カラスのクロウをはじめとしてネズミやリスにウサギ、アライグマやコウモリ、犬に猫、と屋敷で寛いでは去っていった動物達は数知れない。
どの動物も、不思議なくらいにテリルに懐き、心から慕っているように見えた。
そして決まって彼等は、一宿一飯の恩義に報いるかのように、小さな贈り物や手伝いをして屋敷を去っていく。
文字通り動物の話に耳を傾けて楽しそうに動物と接する彼女を見た者は、きっとテリルのことを気の触れた〝変わり者〟と称するに違いない。
しかし、普通の貴族の屋敷では到底あり得ないこの現象に少しの違和感も嫌悪感も見せることのないイラリオンは、全てをテリルの好きなようにさせていた。それどころかむしろ彼は、テリルを慕う動物達に親しみさえ持っているようだった。
「彼等の生息する川辺から王都は少し距離がありますからね。戻れなくて苦労したのでしょう。好きなだけ休ませてあげてください」
「いいのですか?」
「もちろんです」
優しい瞳でカワウソを見たイラリオンは、喜ぶテリルと向かい合って、ヤナの運んできた料理に手をつけたのだった。
「テリル。お話があります」
食事を終えたイラリオンは、目の前に座るテリルに真面目な顔を向けた。ちなみにカワウソは先に食事を終え、ヤナが桶に張ってやった水で水浴びをしている。
「なんでしょうか?」
「神殿から連絡がありました。私たちの婚姻届が正式に受理されたようです」
それを聞いたテリルは、驚きに目を見開いた。
「まあ……早かったですね。もう少し時間がかかると思っていました」
「重要なことですから。聖下に無理を言って、私達の婚姻届を最優先にしていただきました」
「聖下にですか!? あの、イラリオン……」
イラリオンの話を聞いたテリルは、とても言いにくそうにもじもじと指を弄っている。
「実は……このまま偽の婚約の状態だけでも、わざわざ結婚せずに例の縁談を阻止できるのでは、と思っていたところだったのです。そのことをご相談しようと思っていたのに、こんなに早く婚姻届が受理されるなんて……」
イラリオンは、テリルの様子を観察して、もしかしたらそう考えているのではないかと怪しんでいた。
実際にテリルの言う通り、婚約の状態だけでも王女との無理な縁談は白紙になりつつある。諦めの悪い国王は未だにブツブツと未練を口にしてはいるものの、ヴィクトルの説得もあり、イラリオンの強い想いを覆すのは無理だと諦め始めたのだ。
しかしだからこそイラリオンは、婚約だけで済ませて逃げようとする彼女を囲うために、神殿とのツテを利用して先に結婚の届出を受理してもらった。
「ごめんなさい。もっと早く言い出していれば、私なんかと結婚せずに済んだかもしれないのに」
気を落とすテリルに良心がチクリとしつつ。イラリオンは、優しい微笑みを彼女に向けた。
「何を言うのですか。契約は既に交わしたはずです。今さらそんな寂しいことを言わないでください。私達は……最低でもこの先一年間は夫婦になると約束したではありませんか」
「それは、そうですけれど……」
「と、いうことで。テリル、あなたは今日から正式に私の妻となりました。どうぞよろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそ。よろしくお願いいたします、私の旦那様」
好きな子から言われた不意打ちの「旦那様」を、密かに喰らった瀕死のイラリオンは、動揺をなんとか内に隠してその青い瞳を妻となった女性へと向けた。
「差し当たっての課題として、私達の結婚式について早急に話し合う必要があるかと思うのですが、いかがでしょうか」




