第十五章 飛び交う噂
天下の国宝級令息、誰もが憧れるイラリオン・スヴァロフの結婚が決まった。
そのことが公表されるや否や、イラリオンの結婚話は国を揺るがすほどの大論争に発展していた。
「あのイラリオン卿が結婚ですって!?」
「誰? 相手はいったい、どこの令嬢なの!」
「信じられない! 彼は誰のものにもなったりしないと思っていたのに!」
令嬢達の嘆きぶりは凄まじく、イラリオンが未婚であればこそ、良い縁談が来ても渋って婚期を逃してきた令嬢達は、イラリオンの妻の座を射止めた令嬢に燃えるような憎しみを向けた。
しかし不思議なことに、イラリオンの結婚相手が誰なのかは明かされず、憶測が憶測を呼び、キュイエール王国には多くの噂が飛び交った。
「隣国の女王だって」
「いやいや、我が国の王女殿下だ」
「何言ってるんだ、ヴィクトル王太子殿下に決まっているだろう」
「あら、私は帝国の皇女だって聞いたわ」
一方で、少しでも甘い汁を吸いたい貴婦人達は、情報網を駆使してイラリオンの結婚相手の特定に精を出し、有力な情報を掴んでいた。
「イラリオン卿が求婚したのは、クルジェット伯爵家のご令嬢ですってよ。求婚状と花束を手に、伯爵家を訪れたらしいわ」
「まあ、ではあのソフィア嬢が?」
「急いでソフィア嬢に招待状を出して頂戴。真相を確かめて、彼女とお近づきにならなくてはね」
◇
「なんなのよ!」
バンっと部屋を飛び出したソフィアは、手がつけられないほどに荒れていた。
「ソフィア……」
「どいつもこいつも、どうして私をあの女と間違えるわけ!?」
うんざりしたソフィアが、山のように積み上がった書状を前に髪を掻きむしる。
殺到するパーティーの招待状。交流のなかった令嬢達からの、一見親しげながらも呪詛や悪意のたっぷり籠もった手紙の数々。
それらが全て、ソフィアの元に送りつけられてきていた。
当初クルジェット伯爵は、殺到する招待状のパーティーにソフィアを片っ端から参加させようとしていた。
家門同士の繋がりや、ひょっとするとソフィアの良き縁談が結べるかもしれないという期待からだった。
しかし、蓋を開けてみればソフィアへのパーティーの招待は、全てイラリオンの結婚相手を断定するための、噂好きな貴族達の娯楽にしか過ぎなかった。
行く先々でソフィアは、勝手に勘違いした相手からイラリオンとの馴れ初めを聞かれたり、どうして自分が王国一幸運な花嫁だと名乗り出ないのかと揶揄われたりした。
他にも嫉妬に狂った令嬢達から嫌がらせをされたり、イラリオンとお近づきになりたい貴族から執拗に距離を詰められたりと、パーティーに参加しても一つもいいことがない。
何よりもソフィアはそれらの憶測に対して、否定も肯定もできなかった。
ソフィアがイラリオンの婚約者のフリをしてパーティーに参加したところで、イラリオンの相手がテリルだと発覚してしまえばソフィアは周囲を騙した詐欺師になってしまう。
かといって、テリルこそがイラリオンの婚約者であると、ソフィアの口からは言えなかった。父である伯爵に口止めされていたというのもあるが、それ以上にソフィアはテリルが注目を集めるのが嫌だった。
世間的に見ればクルジェット伯爵家の令嬢達は、変わり者で不出来な姉と、美しくて完璧な妹の、あまりにもチグハグな姉妹。どちらが格上かなど、論じるまでもない。これまで散々テリルを貶めることで優越感に浸ってきたソフィアは、テリルに注目が集まるような、そんな屈辱に耐えるだけの理性など持ち合わせてはいないのだ。
自分より劣っているくせに、自分にないものを持っている。そんなテリルに、ソフィアは嫌悪感さえ抱いていた。
「お父様! どうするおつもりです? いつまであの女のことを隠しておくんですか?」
「仕方ないだろう。国王陛下からのご指示だ。結婚が成立するまでは、イラリオン卿の相手がテリルであることを明かしてはいけないとお達しがあった。許可が出るまで適当に受け流しなさい」
実は未だにイラリオンと王女の結婚を諦めきれない国王が、いつでも挿げ替えられるようにと、イラリオンの結婚相手については暫くの間明かすことを禁じたのだが、その事情を知らない伯爵は素直に国王の命令に従っていた。
「あなた。やっぱりあの娘をイラリオン卿の元にやったのは間違いだったのよ。もしイラリオン卿があの娘に惚れ込んで、この家を乗っ取ろうとしたらどうするの?」
「しかし、あの場でイラリオン卿を追い返すこともできなかっただろう。彼に逆らえる人間がいると思うか?」
あの日、ソードマスターでもあるイラリオンから向けられた無言の圧を思い出した伯爵は、ぶるりと震えた。
「だけど、せっかくあの娘から何もかもを奪い取って、この伯爵家を手に入れたのに。もしもこの先、例の遺言状の内容が漏れてあの娘がこの家を奪い返しに来たら、どうするつもり?」
声を潜めた妻の言葉に、伯爵は大きく首を横に振った。
「そんなことは起こり得ない。あの遺言状は確かに燃やしたんだ。今さらその内容をどう証明すると言うんだ」
不安がる妻の言葉を一蹴した伯爵は、こんな騒動の中に放り込まれた苛立ちもあって舌打ちをした。
「この十八年、伯爵の地位を得るために、わざわざあんな卑しい小娘を引き取って育ててやったというのに。今さらあの娘に全てを横取りされて堪るものか」
◇
その頃。渦中の国宝級令息、イラリオン・スヴァロフは、いつもの通り王室騎士団長として部下の鍛錬に励んでいた。
史上最年少のソードマスターとして鍛え抜かれた隙のない剣技を披露するイラリオンの元には、彼に憧れる部下達が集っていた。
しかし、ここ最近のイラリオンはそれまでとどこか違った。結婚の話が公表されたからか、人々の目がいつも以上に集まる中で、イラリオンはその眩しいほどの美貌を炸裂させて生き生きと剣を振るっている。
王室騎士団に所属する精鋭達をいとも簡単に一人で制圧するほど、最近のイラリオンの剣は絶好調だった。
「随分と調子が良さそうじゃないか」
突如かけられた声に振り向いたイラリオンは、親友の姿を見つけると片手を上げて挨拶をした。
「ヴィクトル」
「今日は一段と気合が入っているな、イラリオン」
「君にそう見えるということは……そうなんだろうな」
他の騎士たちが汗だくの中、一人だけ涼しい顔で微笑んで息一つ乱れていないイラリオンは、部下達に休憩を言い渡しヴィクトルの元にやってきた。
「数日前は死にそうな顔をしていたくせに、さては新居での婚約者殿との暮らしが上手くっているんだな?」
少し離れているとは言っても、二人の会話は騎士達に丸聞こえだった。ピクピクと聞き耳を立てる部下達の気配に気づきながらも、イラリオンは頬を染めて満面の笑みを浮かべた。
「ああ。彼女との生活が楽しくて、彼女と過ごしているこの数日は、毎日が輝いているかのようだ。今日も早く帰ってあの笑顔を見たくて仕方ない」
恐ろしいほど輝く笑顔のイラリオンに、部下達は目と口をこれでもかと開いて驚愕した。
あのイラリオン・スヴァロフが、異性に関する発言をこんなに嬉しそうにするなんて。
これまで女の影すらなかった美貌の上司の変わりぶりに、部下達は興味津々だ。
「上手くいっているようで良かったよ。彼女、新居での生活には馴染んでるんだな。お前の嫁だなんて、侯爵家の気位の高い使用人とかにイジメられやしないか心配してたんだよ」
最後の方は声を落としながら、こちらに注目する騎士達に聞こえないように話すヴィクトル。対するイラリオンも、ヴィクトルにだけ聞こえるように声を潜める。
「そのことか。……まあ、多少のトラブルはあったな。だから使用人達は初日に解雇した」
「は?」
これまた斜め上を行くイラリオンの言葉に、ヴィクトルは騎士達の目がある中で転びそうになった。
「すぐに新たな使用人を雇おうと思っていたんだが、私には彼女がいれば事足りることに気づいたんだ。彼女も多くの使用人に世話されるのは煩わしいみたいで、二人で話し合って使用人の補充は後回しにすることにした」
王宮で何をするにも使用人達の手を借りて育ってきたヴィクトルは、イラリオンの言っていることが理解できなかった。
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、今あのでかい屋敷には、お前達二人しかいないのか?」
貴族の、それも他でもない国宝級令息の豪邸で使用人がいないだなんて、そんなまさか。とドン引きするヴィクトルに、イラリオンは真面目に答える。
「メイドを一人だけ残している。テリルに良くしてくれた唯一のメイドで、なかなか信頼できる者だ。あとは……まあ、他にも色々と、我が家には小さくて愛らしい来客が多くてね。それなりに賑やかにしてるよ」
国宝級令息の名に相応しい美しさを振り撒くイラリオンは、ここ数日の充実した暮らしを思い返してニヤけてしまう。
その締まりのない顔を見たヴィクトルは、親友の豹変ぶりと意味の分からなさに眩暈がしたのだった。




