第十四章 夜明けの月
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『僕には理解できないよ。どうして君はいつも、あんな人達を気にするんだ?』
その日イラリオンは、夢を見ていた。
声変わり直後のような、今よりも幾分か高い声で、イラリオンは不満そうに誰かと話している。
『だって、あの人達は私の家族なのよ。好かれたいと思うのは当然でしょう?』
目の前の少女は、その目元を前髪で隠していてよく表情が見えないが、その声からは不安が伝わってきた。
『君のことを気味悪がるような人達が家族だって? ねぇ、テリル。僕は君が心配なんだ。君が僕を心配してくれるのと同じように』
なんの躊躇いもなく、イラリオンは少女の手に手を重ねて握っていた。
『でも、ラーラ。私、もう少しだけ、あの人達に歩み寄ってみたいの』
『……君がそう言うなら、もちろん僕は君を応援するよ』
落胆と諦めの滲んだ声でイラリオンがそう言うと、少女はイラリオンに手を伸ばした。
『ありがとう。心配させてばかりで本当にごめんなさい』
少女からの温かな抱擁を受けたイラリオンは、ふわふわと触り心地の良いその髪に触れて少女を抱き寄せる。
『いいんだ。でも、何かあったら必ず僕を頼って。それと、これだけは覚えておいて。君のその能力は、絶対に恥ずべきものなんかじゃないし、君はどこもおかしくなんかない。むしろ、もっと尊重されるべき人なんだ。だって君は……』
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ハッ、と飛び起きたイラリオンは、ドキドキと早鐘を打つ心臓を押さえながら、今見た夢の内容を思い出そうとした。
しかし、何かに阻まれているかのように、断片的にしか思い出すことができない。
「あれは、彼女なのか……?」
自分のことを〝ラーラ〟と呼ぶ、夢の中の少女の声だけが、イラリオンの耳の奥に残っているかのようだった。
しかし、当然ながらイラリオンは、声変わりをしたような時期にテリルと過ごした記憶はない。
では、今の夢は、イラリオンの願望が作り出しただけの、ただの夢なのか。
このところどうもイラリオンは、頭の片隅にずっと不明瞭な違和感を覚えている。
それが何かは分からないが、イラリオンは本能的に、その違和感の正体を見落とせば後悔するであろうことを知っていた。
「彼女と再会してからだ……いや、ヴィクトルに彼女の名前を聞いてからかもしれない」
その違和感の正体を探ろうと、これまでの記憶を思い起こしたイラリオンは、不意に昨夜抱き締めた、腕の中の小柄な温もりを思い出して一人赤面した。
イラリオンの腕の中にすっぽりと収まるほど小柄で華奢な彼女は、ラナンキュラスの甘い香りがした。
すぐに『ごめんなさい』と小さく謝罪して離れてしまった彼女の温もりが、どれほど名残惜しかったことか。
その手を引き寄せて、再びこの腕の中に囲って潰れるほど抱き締めてしまいたいと駆られる衝動を、必死に抑え込んだせいで妙な夢を見たのか。
頭が冴えてしまったイラリオンは、眠るのを諦めて起き上がると、薄暗い部屋を横切りカーテンを開けた。
「……夜明けか。……彼女の色だ」
まだ暗い紺色の夜闇を照らすように、ピンク色に明らむ空の果て。沈まずに残っていた月が少しずつ白んでいく。
窓際に立ってその美しい光景を目に焼きつけていたイラリオンは、あっという間に空の色が青色に変わってしまったのを確認して、身支度を整えた。
夜明けのあの色を見られるのは、本当に僅かなひと時だけなのだ。
そう思うとどうしようもなく彼女が恋しくなって、イラリオンは夜が明けたばかりのまだ薄暗い廊下を速足に進んだ。
「もう起きていたのですか」
厨房に入ったイラリオンは、そこに立つ愛おしい背中に呼びかけた。
「あら、イラリオン。おはようございます。お早いですね」
振り向いたテリルの笑顔を見て、イラリオンは苦笑するしかない。
「あなたに言われましても……もうこんなに準備をしてくださったのですね」
切った野菜やパンが並べられたテーブルは、彼女の手によって既に朝食の準備が始められていた。
「だってイラリオンったら、料理人まで全員解雇してしまうんですもの」
昨夜エラを問い詰め、テリルと別れた後、イラリオンは昨日この屋敷であった出来事を調べ上げた。
その結果、あのドレスの件だけでなく、テリルが昼の食事まで抜かれていたことを知り血管がブチ切れそうになった。
メイドだけでなく料理人も含めた全ての使用人を、一人を除いて文字通り一掃したイラリオン。
唯一解雇を免れた、テリルの専属メイドとなったヤナは夜明け前から掃除に忙しく、イラリオンとテリルの朝食の用意までは手が回りそうになかった。
「これではあなたの朝食が抜きになってしまいますわ。でも、せっかくの機会ですから、私があなたのお食事をお作りしようかと思いまして」
そのためにこんなに早い時間から起き出してきたのかと思うと、テリルの笑顔を向けられたイラリオンは、嬉しいやら切ないやらでなんとも言えない気持ちになる。
「私のほうこそ、先に起きてあなたの朝食を準備しようと思っていたのですが……本当はゆっくり座って待っていてほしいところなのに、あなたはきっと、聞き入れてくださらないですよね」
すっかりテリルのことを見抜き始めているイラリオンは、諦めたように苦笑する。そんな彼の言葉を受けて、テリルはクスクスと笑いながらイタズラっ子のような目で頷いた。
「うふふ。よく分かっておいでですね。そうです。私、そう簡単には引きません」
「でしたら、一緒に作りませんか」
「え?」
テリルの隣に立ったイラリオンは、朝の光に照らされる彼女を眩しく見下ろした。
「この材料を見るに、今日の朝食のメニューは私の好きなトマトのサンドウィッチとオニオンスープでしょう。どうしてあなたが私の好物を知っているのか不思議でなりませんが、一人で作るよりも二人で作るほうが、ずっと早く美味しくできあがるはずです」
何もかもを見透かすような青い瞳でテリルを見ていたイラリオンは、包丁を手に取ると鮮やかな手つきであっという間に野菜を切り分ける。
「あなたにはなんでもお見通しですね。それに料理までできるんですもの。とても敵う気がしません」
そう言って呆れながらも、嬉しそうにイラリオンの隣で野菜の皮を剥き始めたテリルもまた、慣れた手つきをしていた。
「あなたに敵わないのは、私のほうなのですが……」
こうして並び立っていられるだけで、イラリオンにこの上ない幸せをくれる女性。何をやっても愛らしく見えてしまって、全てが慕わしい、もうすぐ妻になる仮初の婚約者。
長年の想いを寄せ続けた彼女と、こうして肩を並べていられるこの状況が幸せすぎてつい本音を漏らしたイラリオンに、テリルは唇を尖らせる。
「そんなに上手に手際よく料理する人に言われても、説得力がありません!」
話している間にもテキパキと調理を進めていく国宝級令息のあまりの仕事の速さに、テリルはお手上げだった。
わざとらしく頬まで膨らませたテリルに、イラリオンは思わず声を上げて笑ってしまう。
「ははっ、こういう朝も、悪くありませんね」
「はい。実は私も、同じことを思っていました」
拗ねる真似をやめたテリルが楽しそうに微笑むと、イラリオンは昨夜や夢の中のように、彼女を抱きしめたくて堪らなくなった。




