第十三章 交錯する線
「そ、そんなことをあなたにさせるわけがないでしょう。私達は夫婦になるのです。あなたは私のメイドではなく、妻になる女性なのですから」
イラリオンの慌てぶりに少しだけ笑みを漏らしながら、テリルは頷いた。
「そうですね。仮初とはいえ、天下のイラリオン・スヴァロフの妻がそのようなことをしていては、あなたが笑われてしまいます。ですが、私のために無理に使用人達を解雇しなくても……」
しかしイラリオンは、頑なに首を横に振った。
「私は今回の件で、彼女達を信用できなくなりました。そんな者達に身の回りの世話をされたくはありません。使用人の見直しは行います。あなたにまたご迷惑をかけてしまいますが、早急に手配しますので……」
「私のことは気になさらないでください。自分のことは自分でできますから。……流石にこのドレスは一人では着れませんでしたが」
「テリル……」
困ったように笑う彼女が切なくて、イラリオンは再び落ち込みそうになる。そんなイラリオンの気配に、テリルはパンッと手を叩いた。
「あ……そうだわ。あの、それでしたらイラリオン。差し出がましいとは思うのですが、一つだけお願いをしてもよろしいでしょうか?」
テリルからの〝お願い〟と聞いて、犬のように忠実に素早く顔を上げたイラリオンは前のめりに彼女を見た。
「もちろんです。なんでもおっしゃってください」
「では、先ほど使用人達を入れ替えるとおっしゃっておりましたが、ヤナという名前のメイドだけは残してあげてほしいのです」
「ヤナ、ですか……?」
想像とは違う願いで拍子抜けしたが、すぐに気を取り直したイラリオンは頭の中の使用人名簿を検索し、ヤナというメイドの顔を思い出した。
確か、大人しそうな見た目の少女だったはず。経験は浅いが、目立ったような大きなミスをしでかしたことはない。
何度か挨拶程度の会話を交わしたが、礼儀正しく頭も悪くなさそうだった。
「はい。実は彼女は、一人でこっそり私の元に来て着替えを手伝おうとしてくれたのです。しかし、私も伯爵家で使用人の真似事をしていたので、上の者に逆らった者が使用人仲間という狭い人間関係の中でどう扱われるか知っています。ですから彼女の申し出を断り部屋から追い出したのです」
「そうでしたか」
驚きつつもイラリオンは、たった一人でもテリルを気遣ってくれたメイドがいたことに心からホッとした。
もちろん、間違った使用人を採用してしまったことは、彼女の夫になりたいと切望する身としてあるまじき失態だったが、テリルの前で最低限の体面を保ってくれたそのメイドに、イラリオンは心の中で感謝した。
「彼女が私のせいで暇を出されるのは申し訳なくて……彼女だけは引き続きこの屋敷で働かせてあげてはもらえませんか?」
「分かりました。それでは彼女はあなたの専属メイドにしましょう」
即座にそう返答したイラリオンに、テリルが目を丸くする。
「あら、そんな。私ごときに専属メイドだなんて勿体無いです」
「……先ほども申し上げましたが、あなたは私の妻になる大切な女性です。無理にとは言いませんが、どうかそれくらいは受け入れていただけませんか」
「あ……そうですわね。これもイラリオンのためならば、もちろん私は構いません」
どんな時もイラリオン中心の考え方をするテリルに、イラリオンは何度打ちのめされればよいのか。密かに胸をドキドキさせながら、イラリオンはふと無礼なメイド長の話を思い出した。
「そういえば、エラの話ですと、あなたのお友達にも悪いことをしてしまったのではないですか?」
カラスやネズミを叩き出したと傲慢に語っていたエラの話に、イラリオンは申し訳なさそうにテリルを見た。
「お友達? ……あ、ごめんなさい。クロウは私に会いに来ただけなんです。それと、この屋敷に住んでいるネズミ達が挨拶に来てくれて……話し込んでいるのをメイド長に見つかってしまいました。今後は人前に出ず、隠れているように言いつけておきましたから」
慌てて弁明するテリル。その姿を歯痒く思うイラリオンは、爽やかな笑顔を作ると目の前で萎縮するテリルに微笑みかけた。
「その必要はありません。この屋敷の中では好きなだけ、彼等をもてなしてあげてください」
「……! 本当に、良いのですか?」
「はい、もちろんです」
「私の友達は、動物ばかりなのですけれど……」
「存じ上げています。そして、あなたのお友達であれば、私の友でもありますから、大歓迎です」
どこまでも優しいイラリオンの青い瞳を見上げながら、テリルの夜明け色の瞳が潤み出す。
「私のこと、おかしいとは思わないんですか? 普通はこんな話を聞けば、頭がおかしいとか、気が触れているとか思うものです」
泣きそうなテリルの瞳を見たイラリオンは、胸をツキンと刺されるような痛みを感じた。彼女にそんな顔をしてほしくなかった。
「そんなことを、思うはずがありません。私はあなたが聡明な女性であることを知っています。そして、動物と意思疎通できるあなたの能力は、とても貴重なものです。あなたはもっと尊重されるべき人です」
イラリオンは、少しだけ迷いながらも、目の前の愛しい女性に手を伸ばした。
自分が彼女の絶対的な味方であることを、分かってほしかった。
そっと触れたその手が振り払われないことに安堵して、イラリオンはぎゅうっとその小さな手を自らの手で包み込む。その時だった。
「私……やっぱりあなたが好きです、イラリオン」
「……ッ!」
涙ぐんだテリルがイラリオンの胸の中に飛び込んできて、イラリオンは頭が真っ白になる。しかし、理性を総動員して思わず跳ねそうになる体をなんとか律した。
この心臓が飛び出そうな動揺と歓喜が少しでも伝われば、せっかくこの腕の中に来てくれた彼女が逃げてしまいそうだったから。
細心の注意を払ってテリルを驚かさないように、ゆっくり抱き締め返そうとするイラリオンは、あまりの緊張と胸の高鳴りで、腕の中の彼女の小さな呟きを上手く聞き取ることができなかった。
「……あなたは今回もそう言ってくれるのね、ラーラ……」
ただ、好きな女性との初めての抱擁に逆上せる頭の片隅で、懐かしい響きの呼び名を聞いた気がした。




