第十一章 国王の道楽
キュイエール王国の筆頭公爵家であるビスキュイ家の当主、ビスキュイ公爵は珍しく声を荒げていた。
「陛下! これは陛下の忠臣としての諫言です。確かにイラリオン卿の活躍には目を見張るものがありますが、だからといって陛下のスヴァロフ家に対する厚遇は度を越しております。今一度、例の件はお考え直しください!」
国王の執務室の前に立ち、今にも入室しようとしていたイラリオンは、扉の前でその声を聞いてしまった。
イラリオンが来たことを国王に取り次ごうとしていた侍従が、気まずい視線をイラリオンへと向ける。
「公爵。そなたの気持ちは分かる。が、活躍に見合う褒賞を与えるのも君主の務めだと思わぬか?」
呑気な国王は公爵の諫言を物ともせず、億劫そうに言い返した。
「……その結果、貴族の序列が大きく覆ることになっても構わぬとおっしゃるのですか?」
「時には変革も必要だろう。そなたもよく知る〝三銃士〟の時代のようにな」
「それは……」
コンコン
そこでようやく、これ以上先延ばしにするのはまずいと意を決した侍従がイラリオンの到着を国王に告げる。
「おお! よく来たな、イラリオン! さあ、入るのだ」
「国王陛下、至急お呼びとうかがい参りました。ビスキュイ公爵閣下、ご歓談中失礼いたします」
先ほどまでの会話は何も聞いていないという顔で室内に入ったイラリオンは、国王とビスキュイ公爵に丁寧に頭を下げた。
「うむ。急に呼び立てて悪かった。実は妙な噂を耳にしてな。……公爵。もうよかろう。今日のところは下がるのだ」
「……御意に。イラリオン卿、失礼する」
しぶしぶ国王に頭を下げ、イラリオンに簡単な挨拶をして扉に向かう公爵。
見るからに納得していない様子の公爵が部屋を出るその前に、イラリオンは敢えて公爵にも聞こえるように口を開いた。
「陛下、私がクルジェット伯爵令嬢に求婚した件であれば、事実です」
退室しようと扉に手を伸ばしたところでその言葉を聞いたビスキュイ公爵は、思わず足を止め振り向いた。静まり返る執務室で国王とビスキュイ公爵、二人分の驚愕の視線を浴びながらも、イラリオンは堂々と宣言する。
「私は彼女を心から愛しています。昨日、彼女からも良い返事をいただきましたので、正式に婚約する予定です。こうして陛下にご報告する機会をいただき感謝いたします」
数秒の沈黙のあと、国王は音を立てて立ち上がり悲痛な声を上げた。
「わ、私はそなたをアナスタシアと結婚させるつもりだったのだぞ!」
今にも泣きそうな顔で、声を裏返させる国王はイラリオンに向けて必死に言い募る。
「そして二人が結ばれた暁には、そなたに大公の爵位を授けようと楽しみにしていたのに。これではその計画が狂ってしまうではないか。イラリオン、考え直せ。王女との結婚と大公位だぞ? それを自ら捨てると言うのか?」
イラリオンは内心で、いつも冷静なビスキュイ公爵が何故あんなに怒っていたのか悟った。
いくら重用してくれると言っても、確かにこれは度を越している。王女との結婚だけでなく、大公位だなんて。貴族社会の勢力図がめちゃくちゃになってしまう。現在序列一位の公爵家、ビスキュイ公爵が乗り出してくるのも納得だ。
「陛下のお気持ちは大変光栄であり、生涯の名誉ですが、私には名誉よりも彼女のほうが大切なのです。私にとって彼女に代わるものはこの世に一つとしてありません」
そのイラリオンのあまりの執心ぶりに、国王は力なく椅子に座り込んだ。
「そんなにか……そなたがそこまで言うとは。それほどまでに本気なのだな?」
「はい。ですので敬愛する陛下にも祝福をいただけたのなら、これ以上の喜びはないと思っております」
深々と頭を下げ、微動だにしないイラリオンの姿に強い決意を見た国王は、重い溜息を吐いた。
「ふむ。それほどの想いがあるのに無理を言うわけにはいかぬ。非常に残念ではあるが……なかなか諦めがつかないが……そなたが息子になること、本当に楽しみにしていたのだが……確かに、クルジェット伯爵令嬢は美しい金髪が印象的な令嬢だったな。そなたが心惹かれるのも無理は……」
自分を納得させようとブツブツ呟く国王のその言葉に、イラリオンはすぐさま反応した。
「陛下。大変失礼ながら、勘違いされているようなので申し上げます。私が求婚したのは陛下がお考えのソフィア嬢ではなく、テリル嬢です」
そこを間違ってもらっては困る、とイラリオンは丁寧だが強めに訂正した。
「……な、なんだと?」
「私が心より愛し、生涯を共にしたいと結婚を申し込んだのは、テリル・クルジェット伯爵令嬢です」
国王の目がこれでもかと見開かれる。
「その令嬢は……確か、社交界に一度も顔を出さず、噂では気が触れている変わり者と……」
「陛下。どうか私の愛する女性を、根も葉もない噂で貶めるのはおやめください。その馬鹿げた噂を流したのがどこの誰なのかは知りませんが、私が知る彼女は聡明で思慮深く、思い遣りのある芯の通った女性です」
熱心に力説するイラリオンのその様子に呆気に取られる国王。その一方で、イラリオンの後方からはバタバタと音がした。
「そ、それは本当なのか、イラリオン卿!」
それまで居心地悪そうに話を聞いていたビスキュイ公爵が、イラリオンの言葉を聞いた瞬間に鋭い声を上げながら駆け寄ってきたのだ。
「本当に、テリル・クルジェット嬢は、噂のような令嬢ではないのか?」
切羽詰まったようなビスキュイ公爵のその圧に、イラリオンは真面目な顔で頷いた。
「もちろんです」
「……それでは、私はいったいなんのために……」
愕然とするビスキュイ公爵の尋常ではない様子に、話についていけていなかった国王が不思議な顔をする。
「公爵、どうした?」
「い、いえ……」
真っ青になった公爵にイラリオンは手を差し伸べた。
「閣下、お顔色が優れないようです。どうぞお掴まりください」
「ああ、すまない」
ふらふらのビスキュイ公爵を支えたイラリオンは、国王に向き直ると頭を下げる。
「それでは陛下、私はビスキュイ公爵をお送りしてから帰宅します。今日は彼女が待っていますので」
爽やかな笑顔でイラリオンらしからぬことを言う国宝級令息に、国王は最後まで惑わされていた。
「う、うむ。そうか……。イラリオン、もし気が変わったらいつでもアナスタシアと……」
「そのようなことは絶対に、万に一つも起こり得ませんのでご安心を」
食い気味に返事をしたイラリオンは、ふらつく公爵に肩を貸しながら国王の執務室を後にしたのだった。
王宮の廊下で二人になると、イラリオンは小声でビスキュイ公爵に話しかけた。
「ビスキュイ公爵閣下。ちょうど彼女のことで、閣下を訪ねようと思っておりました。閣下は彼女の祖父、先代のクルジェット伯爵と懇意にされておりましたね」
「……まさか、君はあのことを知っているのか?」
公爵の青い目が、信じられないものを見るかのようにイラリオンを見る。
しかしイラリオンは、肯定も否定もしなかった。代わりに意味深な笑みを浮かべた。
「後日、お手紙を送らせていただきます。その際は詳しくお話をお聞かせくださると信じております。……先代クルジェット伯爵の遺言状について」
◇
思いがけない収穫がありつつも、しっかり短時間で国王への謁見を終わらせたイラリオンは、いそいそと愛するテリルが待つ新居へと帰った。
「おかえりなさい、イラリオン」
「ただいま帰りました、テリル」
イラリオンが帰宅すると、真っ先に出迎えてくれるのが長年想い続けた初恋の相手だなんて。こんなに幸福なことがあっていいのだろうか。
幸せを噛み締めていたイラリオンは、ふと違和感に気づいて眉を上げた。
テリルの後ろで並んで立っているメイド達が、テリルを見てクスクスと小馬鹿にしたように笑っているではないか。
自分の預かり知らぬところで何かが起きたことを察したイラリオンは、注意深くテリルを観察し、それに気づいて思わず声を上げそうになった。




