第十章 激励と逸話
「いや、ここはもう前向きに考えればいいじゃないか。結婚が決まったんだから、いくらでも彼女を口説く時間ができたってことだろ?」
暗くなった雰囲気を払拭するかのように、ヴィクトルは明るくイラリオンを励ました。
「そうだな。最低でも一年は確保できた。その間になんとしても彼女を振り向かせてみせる」
イラリオンもまた、ヴィクトルに話したことで気持ちを整理できたのか、決意を新たに前を向く。
「その意気だ! 性悪な伯爵家から彼女を連れ出したんだし……ん? ということはテリル嬢は今、お前の家にいるのか?」
首を傾げたヴィクトルに、ピクリと反応したイラリオンは幸せそうに頰を染めた。
「ああ。帰ったら彼女が待ってくれている。だから今日は絶対に定時で帰ろうと思う」
親友のそんな顔を見てしまえば、ヴィクトルも思わず笑ってしまう。
「なんだ。せっかく祝杯を上げようと思ったんだが」
「あと三十分きっかりで帰るつもりだ。それはまたの機会にしてくれ」
まだ結婚前だというのに、すっかり新婚のような態度のイラリオンを見て、ヴィクトルは親友の肩を叩いた。
「仕方ないな、まったく。だがお前が幸せになってくれるなら何よりだ。アナスタシアはお前のお陰ですこぶる元気を取り戻した。本当に感謝している」
イラリオンが十五年間想いを寄せ続けた初恋の令嬢に求婚したことを伝えると、ヴィクトルの妹である王女アナスタシアは、恋人と引き離される恐怖から解放されて大層喜んだ。
この件で思い悩んで痩せたのが嘘のように、今朝は大好きなスイーツをたらふく食べていたほどだ。
「私こそ、王女殿下のお陰でこうしてテリルと結婚まで漕ぎ着けたのだから感謝しかない」
微笑むイラリオンは、ここに来た時の疲れ果てた様子とは異なり、少しずついつもの輝きを取り戻している。イラリオンの涙を見た時はどうなることかと思ったが、ひとまず大丈夫そうだとヴィクトルはホッと胸を撫で下ろした。
「ちなみに、お前の親父さんはテリル嬢との結婚のこと、反対してないのか?」
ふと思い出した厳格な宰相であるイラリオンの父、スヴァロフ侯爵を思い浮かべながらヴィクトルが問えば、イラリオンはサラリと答える。
「父は私に全て任せると言っているから問題ない」
「そうか。まあ、侯爵はお前に頭が上がらないからな」
それはイラリオンがアカデミーを首席で卒業した直後、騎士団への入団を希望した時のこと。
宰相を多く輩出した名家であるスヴァロフ家の後継者でありながら、イラリオンが文官ではなく騎士の道に進もうとするのを、彼の父である侯爵は猛反対した。
一時は勘当同然にまで悪化した親子関係だったが、その後イラリオンが騎士として目覚ましい活躍を見せ、史上最年少のソードマスターにまで成長したことで、侯爵は息子の才能を潰すところだった自分の行動を猛省するようになる。
そんな侯爵に歩み寄りをみせたのは、他でもないイラリオンだった。
イラリオンは何も言わずスヴァロフ家に戻り、騎士団長にまで就任し多忙を極める中、大きな政治的改革を任されていた父に手を差し伸べて献身的に補佐したのだ。
以来、父である侯爵がイラリオンのすることに口出しすることは一切なかった。
言葉にはしないが息子を心から信頼し、そして過去の過ちに対する償いもあり、スヴァロフ侯爵はイラリオンのやりたいことを何でも尊重してくれるようになった。
今回の件も、相手が世間的にはあまり評判の良くない令嬢であることなど気にもせず、スヴァロフ侯爵はイラリオンの求婚状に家紋の使用を許可してくれた。
それが父なりの応援の仕方だと知っているイラリオンは、有り難くスヴァロフ侯爵家の名でテリルへの求婚状を記したのだ。
「クルジェット伯爵のほうはどうだったんだ?」
「もちろん問題ない。不可抗力で少々威圧してしまったかもしれないが、こちらの要求どおりに結婚とテリルの滞在を認めてくれた」
少々威圧、の部分が気になりはしたものの、ヴィクトルはそれを受け流して頷く。
「そうかそうか、順調だな。外堀は大事だからな。だが、まだ国王陛下が残っているんだよな……」
「そうだな。国王陛下は少々厄介かもしれない」
「父上のお前贔屓ときたら。父上はお前の熱狂的なファンみたいなもんだ。息子の俺よりもお前の方がずっと可愛いみたいだし、実の娘を使ってでも側に置きたいんだよ」
「確かに陛下には良くしていただいているが。流石にそれは言い過ぎだろう」
イラリオンが困ったようにそう言うと、ヴィクトルは肩をすくめる。
「いやいや、冗談じゃなく。もし俺が昔のような捻くれた性格のまま育っていたら、絶対にお前を妬んでいたと思うぞ。それこそ、どんな手を使ってでもお前の人生をめちゃくちゃにしてやりたいと思っていたはずだ」
物騒なヴィクトルの発言に、イラリオンは十五年前にヴィクトルと仲良くするよう助言を残して去って行った、幼い日のテリルを思い出した。
「そう考えると、お前が俺の親友になってくれて本当に良かったよ。お互いに破滅せずに済んだもんな」
楽しそうにそう言って笑うヴィクトルを見ながら、イラリオンはふと思う。
あの時。少女だったテリルは、まだ王子でしかなかったヴィクトルのことを『王太子』と言っていた。
頭の片隅にあったその違和感が今、どうもイラリオンの思考を奪う。
「まあ、キュイエール王室とスヴァロフ侯爵家は、俺達の曾祖父さんの代から友好関係にあるから、そう簡単に関係が崩れることもないと思うが」
しかし、思考に耽る間もなく親友の話に引き戻されたイラリオンは、その興味深い逸話に笑みを漏らした。
「君の曾祖父エフレム王と、私の曾祖父イヴァン・スヴァロフ、そして伝説の大魔法使いオレグ・ジャンジャンブルの友情物語は有名だからな」
王国史の伝説の一つとなっている、通称〝三銃士〟の活躍ぶりは王国民であれば一度は聞いたことのある逸話だ。
現在施行されている政策の大半はこの三人によって制定されたものと言われており、エフレム王治世の前か後かが一つの歴史の区切りとされているくらい、〝三銃士〟は伝説的な存在だった。
二人が先祖の話で盛り上がるその時、部屋の外から声がかけられる。
「イラリオン卿、国王陛下がお呼びです」
「はぁ……噂をすれば。イラリオン、今日の帰りは遅くなりそうだな」
「陛下との話し合いは覚悟の上だ。だが、家で待っている愛しい人を待たせる気はない。定時には必ず帰ってみせるさ」




