第九章 結婚契約書
「それで、具体的な契約の内容はどうしますか? 私からのみ、それもいつでも好きなように契約解除できるだなんて。そんな不公平な契約はお断りです」
契約でもなんでもいいと口にしてしまった手前、今すぐテリルに想いを理解してもらうことを諦めたイラリオンは、とにかく早くテリルと結婚する段取りをつけることにした。
こうなったら、契約結婚で仮初の夫婦になっている間に是が非でもアプローチするしかないと覚悟したのだ。
そんな意気込むイラリオンに対し、テリルはその夜明け色の瞳を真っ直ぐに向けて言う。
「私はどうなろうと構いませんから、どうか私のことはイラリオン卿のお好きなようにしてください」
好きな相手からのとんだ殺し文句に、イラリオンは芽生えそうになる邪心を必死に粉砕して無視を決め、早口で話を進める。
「…………考えてみましたが、今回の縁談以外にも不測の事態で私にパートナーが必要になるかもしれません。その時にいちいち契約結婚をするのは不自然です。ですから……テリル嬢がよろしければ、一定の期間を設け、満了時にどちらかから申し入れがなければ契約延長、以後同様とするのはいかがでしょうか。それでしたらどちらか一方にのみ有利な契約とはなりませんし、必要なだけ契約を延長できます」
彼女の気持ちを配慮しつつ、双方にとって公正になるように、尚且つ少しでもイラリオンがテリルを口説き落とす時間を確保するには……と考えを巡らせながら、契約の内容を提案するイラリオン。
契約の立案、交渉は得意分野なだけあって、イラリオンは頭の中でスラスラと契約条項を作成しはじめる。
「一定の期間……とは、どれくらいですか?」
イラリオンの提案に首を傾げたテリルが問うと、イラリオンはその表情を観察しながら答えた。
「十年……いえ、五年でどうでしょう?」
「長すぎます! それではイラリオン卿にご迷惑がかかってしまいます」
すかさず却下するテリル。
「……では、三年は?」
イラリオンが譲歩すると、テリルは指を折って何かを数え、ブンブンと首を振る。
「それも長いです。半年くらいでいいのでは?」
可愛い目をパチパチとさせて見上げてくるテリル。色んな意味で負けてしまいそうになり、イラリオンはグッと堪えた。
「でしたら、一年です。それ以上は譲れません」
「一年……まあ、半年で離婚となればイラリオン卿の名声に傷をつけてしまうかもしれませんし、ちょうどいいかもしれないですね。うふふ、一年間もあなたのお側にいられるなんて夢みたいです」
テリルはニコニコの笑顔で無邪気にイラリオンを殺しにかかってくる。
その攻撃に息も絶え絶えになりながら、なんとしても彼女を振り向かせてみせる、と決意するイラリオンは、優しい笑顔を作ってテリルに微笑みかけた。
「…………では一年契約で、どちらかからの解約の申し入れがない限りこの契約は一年毎に更新される。としてよろしいですね?」
「はい。ですが、契約が更新されることはないと思っています。なのでイラリオン卿、一年だけ辛抱してくださいね」
「……一年だけで辛抱できる気がしません」
「?」
ボソボソと小声で呟いたイラリオンを不思議そうに見上げるテリル。イラリオンは咳払いで誤魔化すと、次の話題に移る。
「それと、契約期間中の夫婦生活についても取り決める必要があるかと思います」
「あ……確かにそうですね。でも大丈夫です。私、必要以上にイラリオン卿に接近しないようにしますから」
自信満々なテリルに対してイラリオンは心の中で突っ込みを入れる。違う。そうじゃない。
「それはダメです。私達はあくまでも対外的には夫婦になるのですから。それも縁談を完全に断ち切るには、より仲の良い夫婦を演じる必要があります。そのため普段からスキンシップをはかるべきです」
私欲まみれなイラリオンの発言だったが、それを聞いたテリルは真面目に頷いた。
「なるほど。おっしゃる通りです」
素直なテリルを見て、イラリオンはもう一歩だけ彼女に踏み込んでみることにした。
「試しに呼び方を改めましょう。互いの敬称は外すのです。テリル、私を呼んでみてください」
「分かりました、イラリオン」
「……ンンッ!」
想像以上の何かを喰らったイラリオンは、静かに口を押さえて悶える。一方のテリルは不安そうだった。
「あの、私……なにか変でした?」
「いえ。上出来だと思います。これから結婚が成立するまでの間は、愛する婚約者同士として振る舞ってください」
「はい、イラリオン」
コクコクと頷いてイラリオンを見上げているのは、イラリオンがずっと求めてきたたった一人の女性だ。どんな仕打ちを受けたって、絶対に諦めない。とイラリオンは決意を新たにする。
正直、彼女と話しているこの数十分でイラリオンの心はズタボロ、脳は酷使しすぎて擦り減った気までするのだが、そんなことは関係ない。
目の前に彼女がいる。そして、自分の名を呼んでくれる。それだけでイラリオンは、こんなにも幸せな気持ちになれるのだから。
「あの、他に私がすべきことはありますか?」
一生懸命なテリルは、真面目な顔でイラリオンを見上げた。
その慕わしい瞳を見つめたイラリオンは、ふむ……と顎に手を当てる。
「そうですね。では、今日から私の屋敷で生活してください」
「え? ですが、まだ結婚には時間がかかるのでは?」
「確かに、結婚を成立させるにはもう少し時間が必要です。しかし、先ほどの伯爵の仕打ちを目にした今、私はあなたをこの伯爵家に置いておけません。今すぐにでも、あなたを連れ帰りたいと思っています」
「それは……」
「婚約者として花嫁修行のために必要だ、と言えば口実は十分です。それともあなたには……ここに残りたい理由があるのですか?」
好きな女性が目の前で理不尽な暴力に晒されそうになっていた場面を目撃したイラリオンは、あの時に感じた燃えるような怒りをなんとか隠して冷静にテリルに問いかけた。
「いえ、別に私は、この家のことも、あの人達のことも、なんとも思ってません。私にとって大切なのはあなただけですから。今日は珍しく伯爵がしつこく声をかけてきて驚きましたが、普段は虫ケラのように無視されてますし。私もあの人達の視界に入らないよう生きているので、あの人達が私に何をしようが別にどうでもいいんです」
対するテリルの答えは思いのほか軽く、そしていちいちイラリオンのことを好きだとチラつかせてくるのでイラリオンからしたら堪ったものではない。
「……私がどうでもよくありません。こんな場所であなたが暮らしていたのだと思うと、知らずに生きてきた自分を殴りたいくらいです。ですのでどうか、私の心の安寧のためにも、すぐにこの家を出ると約束してください」
イラリオンの懇願に、テリルはハッとした。
「分かりました。ごめんなさい。私、あなたの優しさを失念していました。本当に何も気にしてなくて……でもイラリオンから見たら、確かにこの伯爵家の環境は私のことを心配させてしまうものですよね。あなたのおっしゃる通りにここを出ますので、どうかそのようなお顔はしないでください」
イラリオンの頰に手を当てて心配そうにするテリル。そのテリルの手を取りながら、イラリオンは真剣に彼女と目を合わせた。
「伯爵への説得は私が行います。絶対に文句は言わせません。ですから、私と一緒に来てくださいますね?」
「はい。心配させてごめんなさい。でも……ちょっとだけ嬉しいです。今までは理由があってあなたに会わないようにしてきたので、これからは少しの間でもイラリオンと一緒にいられるなんて、嬉しくてドキドキしてしまいます」
「今すぐ結婚しましょう」
テリルの言葉に思わず心の声が出たイラリオンは、至近距離で手を握りながら二度目の求婚をしていた。
しかし、対するテリルはキョトンとした夜明け色の瞳を瞬かせるのみ。
「? はい、もちろん結婚します。そういう契約ですから。あ、契約書を交わすということですか? 待ってください、紙とペンを用意しますので」
そう言うとテリルはイラリオンの手からするりと自分の手を抜いて、部屋の隅にある引き出しを漁って紙とペンを持ってきた。
「…………」
それを受け取った王国一仕事のできる男、国宝級令息イラリオン・スヴァロフは、空虚な目で黙々と完璧な契約書を作成してみせたのだった。
署名を終えた契約書を見下ろしていたテリルは、ふとイラリオンを見上げた。
「あの、イラリオン。この契約結婚のことを、どなたかイラリオンが信頼できる人に話しておいてください」
思ってもみなかったテリルの言葉に、イラリオンは一瞬虚を衝かれる。
「……それは、何故でしょうか?」
「保険をかけるためです」
「保険?」
「そうです。だって仮初とはいえ夫婦になるんです。今だってこんなに好きなのに、万が一、私がイラリオンから離れがたくなってしまって、あなたとずっと一緒にいたいと言い出したらどうするんですか」
「狂喜乱舞します」
「はい?」
「いえ。……それはそれで大歓迎です。私は始めから、契約ではない結婚を望んでいますので」
うっかり漏れ出た本音を取り繕って、イラリオンは言葉を選び直した。そんなイラリオンに対し、テリルは不満げだ。
「そういうわけにはいきません。私はあなたの邪魔にだけはなりたくないんです。ですから、この契約を知っている人が他にいれば証人になってもらえますし、私の気持ちが暴走する抑止力になると思うんです」
熱心に力説するテリルに、イラリオンは泣いたらいいのか喜んだらいいのか悶えたらいいのか分からなくなる。が、イラリオンにとって彼女の望みは絶対だ。
「分かりました。心当たりがあるので彼にこの話を通しておきます」
親友の顔を思い浮かべながら仕方なく承知したイラリオンに、テリルはホッと胸を撫で下ろしてそれはそれは可愛らしい笑顔を向けた。
「どなたか存じ上げませんが、そのお方にくれぐれもよろしくお伝えください。この結婚はあくまでも仮初の契約で、イラリオンと私が結ばれることは、万に一つも絶対にないのだと」
◆
「……というわけだ」
イラリオンから契約結婚の顛末を聞いたヴィクトルは、なんとも言えない憐れな目を親友に向けた。
「イラリオン……」
「ん?」
「…………大丈夫か?」
親友の問いかけに力なく笑ったイラリオンは、一瞬でその笑顔を引っ込めると真顔で親友に問い返した。
「…………これが大丈夫そうに見えるのか?」




