プロローグ 親友の憂鬱
「イラリオン!」
キュイエール王国の王太子であるヴィクトルは、王宮にやって来た親友の姿を見つけるとすぐさま駆け寄った。
「王太子殿下」
サラリと揺れる艶やかな黒髪に、清々しい青い瞳。見る者を虜にする美しい顔立ちと、均整の取れた体躯。
国宝級と謳われる美貌の令息、イラリオン・スヴァロフは、駆けて来た王太子を見ると、優雅な仕草で頭を下げた。
「なんだ、よそよそしいな。いつも通り名前で呼んでくれ」
それに対して王太子は、息を切らせながらも手を振る。パチリと瞬きをしたイラリオンは、纏っていた重苦しい雰囲気を和らげて、改めて親友に向き直った。
「ヴィクトル。どうした、そんなに慌てて」
イラリオンが問えば、王太子は余裕のない表情で親友の手を掴んだ。
「お前に折り入って話があるんだ。父上に見つかる前に、少しだけ時間をくれないか」
「ああ、分かった。もちろんだ」
いつになく深刻そうな様子の親友に、イラリオンは即頷くと、二人は王太子の執務室へと向かった。
「実はな……父上が、お前とアナスタシアとの縁談を進めようとしている」
「国王陛下が、私と王女殿下の縁談を?」
「ああ。どうしてもお前たちを結婚させたいらしい。父上はお前をいたく気に入っているからな。前々から話が出ては先延ばしにしてきたが、今回ばかりは止められそうにない。何がなんでもお前を娘婿にしたいんだろう」
「それは……困ったな」
「まったくもって困った……」
顔を見合わせた二人は、同時に溜息を吐いた。
「王女殿下には、想い合う恋人がいるじゃないか」
「そうなんだ。この話を聞いてからアナスタシアのやつ、塞ぎ込んでいてな。食事もまともにとっていないようだ。可哀想で見ていられない」
「陛下は王女殿下の恋人の存在を知らないのでは?」
「まあな。しかし、言ったところで聞く耳を持たないだろう。父上はとにかくお前を家族に迎え入れたいんだ。この話をすればどんな手を使っても二人を別れさせようとするはずだ」
「……私個人としても、我が家門としても、王家との縁談は非常に光栄で有り難い話だが。王女殿下のことを想えば、到底受け入れるわけにはいかないな」
「イラリオン……!」
自分の利よりも、妹のことを考えてくれる。そんな親友に、王太子は心から感動してその名を呼んだ。
「ふむ。そうだ……こうなったら、陛下から打診がくる前に、私が先に結婚してしまえばいいのでは?」
「なっ! ずっと結婚を避けてきたお前が、か?」
「アナスタシア王女殿下は私にとっても妹のような存在だからな。彼女が不幸になるところは見たくない。それに、そろそろ周りが結婚しろと煩くて……いい加減、潮時だろう。結婚に踏み切るきっかけをくださるのだ、王女殿下に感謝しなければ」
気にするなと微笑む親友に、ヴィクトルは感激しきりだった。
「お前は本当に、最高の親友だ。アナスタシアのやつ、絶対お前と結婚したほうが幸せになるのに」
「そう言わないでくれ。王女殿下の恋人、エリックは素晴らしい男じゃないか。彼なら間違いなく王女殿下を幸せにしてくれるだろう」
眩しいほどの美しく優しい笑顔を見せて、イラリオンはヴィクトルを諭した。
他者を讃え、思い遣り、決して驕ることはしない。そんなイラリオンの性根の真っ直ぐな瞳を見て、ヴィクトルは心から親友に感謝した。
しかし、だからこそ。このまま何もかもを親友に背負わせるわけにはいかないとも思う。
この男には、なんとしても幸せになってもらわなければならない。
「それで、お前の好みは? 好きな令嬢はいないのか? なら、どういう令嬢を所望だ? 妹のためにここまでしてくれるお前が幸せになれるよう、ぜひ協力させてくれ」
親友である王太子の言葉に、イラリオンは頰を赤らめ、言い淀みつつも照れながら口を開く。
「じゃあ……綿菓子のようにふわふわした淡いミルクティー色の髪に、夜明けを告げるような幻想的な瞳。笑顔が似合う顔には可愛らしいソバカスがあって、動物と話ができると豪語するような……そんな令嬢はいるだろうか」
「は?」
何もかもが完璧イケメンな英雄であり、国中の女達を恋慕という地獄に落とすほどの国宝級超絶有能美男子であるイラリオン。そんな美貌の親友の、あまりにも独特で変わっていて妙に具体的な女の趣味に、王太子はそっと目を逸らした。
「……やはり、そんな令嬢はいないよな。無理を言って悪い。気にしないでくれ。国のため、家のため、互いの利になるような令嬢を選んで結婚するよ」
寂しく笑った親友を見て、王太子は頭を抱える。
「ちょっと待て……一人だけ、お前の言うような令嬢に心当たりがある」
そうしてヴィクトルは断腸の思いで、とある令嬢の名を口にしたのだった。