さらば変態
目を閉じて、小指を折ろうとした瞬間。
俺の顔に生暖かいものが付着した。
急な出来事に、俺はゆっくりと目を開く。
すると、そこには信じられない光景が映っていた。
「え――」
モーリア大臣の胸から、刃が生えている。
いや、違う。何者かが背後からその手で刃を突き刺したのだ。
「が……ッ!? き、貴様……!」
モーリア大臣の後ろには、細身の男が立っていた。執事のような出で立ちで、髪は黒く、背もそこそこ高い。そして、眼が赤かった。薄暗いこの部屋でひと際怪しく光っている。
モーリア大臣を背後から襲った犯人は、魔族だ。
俺と同じ、人間よりひ弱なはずの魔族だった。
「ククク、まだ息がありましたか。しぶとい御仁だ」
「クロヴィス……! 私を裏切るのか……!」
モーリア大臣の言葉に、クロヴィスという男はクククと笑った。
確か、クロヴィスという名は、さっきクルマでモーリア大臣が呼んだ名前だ。
まさか、あの時ボトルを渡していた大臣の付き人が、裏切ったのか?
「裏切る……? とんだ御冗談を。私は初めからあなたに従っていたつもりはありませんが」
言って、クロヴィスという男はその短刀を引き抜いた。
その衝撃でモーリア大臣の血が飛び散る。
クロヴィスという男の顔にも、たくさんの返り血がついていた。
「ゴホッゴホッ……、初めから、この瞬間を狙っていたのか……!」
「ええ。我々魔族は弱いですからねぇ。あなたがご趣味を堪能し始め、油断するこの時を待っておりました。しかしまだ息があるのですか。さすがはモーリア大臣。心臓を一突きしたつもりでしたが、ずれてしまったようだ」
「人間を舐めるな……! これくらいの傷、治癒魔術で再生できるわ」
言って、モーリア大臣は自分の手を患部に押し付けた。
その患部から湯気が出始め、傷が癒えていく。
すごい、これが人間の魔術の力なのか。
実際に魔法を目の当たりにすると、ここがファンタジー世界なのだと実感する。
「これはこれは、素晴らしい力だ。まさか治癒されてしまうとは思いませんでした」
とは言いつつも、クロヴィスという男は余裕の笑みである。
奇襲が失敗に終わりそうだというのに、どうしてそんなにも冷静でいられるのだろうか。それにあの不気味さは、なんとも形容しがたい。
「ふん。いつまでその余裕が続くか見物だな。もう私の傷は治癒しかかっている。魔族の分際で私に立てついたことを後悔させてやろう」
「是非とも後悔させてみて欲しいものです。一撃で仕留めきれなかったのは想定外でしたが、問題はありません。我が主に近づけたおかげで、力も従来の1%程戻ってきましたし、あなたを殺すことは容易い」
「抜かしおるわ!」
モーリア大臣が手のひらから炎球を撃ち出した。
狭い部屋の中だ。避けることも出来ずにクロヴィスという男はその一撃をもろに喰らってしまった。
「馬鹿め。私に逆らうからこうなるのだ。――……なッ!?」
次の瞬間。
俺が瞬きをした一瞬で、状況が一転していた。
クロヴィスという男が、いつの間にかモーリア大臣の背後に回り込んで、その手を大臣の胸に突き刺していた。色んな事が一気に起きたため、俺の頭の処理が追い付かない。
「な、ぜ……! 火球は直撃していたはず……!」
驚愕の顔を浮かべるモーリア大臣。
俺の目にも、あの炎の玉はクロヴィスという男にあたったように見えた。
だが現実は、違う。クロヴィスという男が無傷でモーリア大臣を圧倒している。
というか、そもそも人の手が人間の胸を貫通しているとかおかしいだろ。
いったい何が起きているっていうんだ。
そしてクロヴィスという男は何者なんだ。
俺はただ、ベッドの上で震えながら2人の攻防を見守ることしかできない。
「ああ、一応試しに喰らってみたのです。ですが何と言いましょうか、あまりにも威力がなさ過ぎてこちらが困惑してしまいまして……。私が魔族だからと加減をしていただいたのでしょうが、少々しすぎてしまったようですねぇ」
「加減……? 貴様、何を言っているのだ……!?」
「……? 私が言っている意味を理解されていないのですか? ではハッキリと申し上げます。先ほどの攻撃では私にダメージを与えることは出来なかった。そういうことです」
「ゴホッ……! 人間の魔術だぞ……! ぐ……、何故、魔族如きが……! 無傷などありえるはずが……!」
「これが現実です。私は今、あなたの心臓を握っている。どうです、生死を他人に握られている感覚……。今まではあなた自身がその立場でした。ですが、自分が味わうとまた違った趣があって良いのではないですか?」
「……っ」
モーリア大臣の顔色がどんどん悪くなっていく。
それもそのはず、クロヴィスという男の手が大臣の身体に突き刺さっているのだ。そこからおびただしい量の血が流れている。
「わ、私を……殺すのか……! クロヴィス……! この私を……!」
「ええ。あなたは重罪を犯しました。数々の命をその手で弄び、あろうことか我らが主をも貶めようとしたその罪、その命で償っていただきましょう」
「クロヴィス――!! まて! やめ――」
――ぐしゃり。
嫌な音をたてて、何かがつぶれた音が聞こえてきた。
その直後、モーリア大臣の身体は力を失い地面に倒れた。
心臓を、潰したのだ。
魔族の男が人間の男を殺した。
この世界では、そんなこと起きるはずがないと思っていた。
だが、実際に目の前でそれは起こったのだ。
「…………」
つ、次は俺か……?
俺はこの目で見てしまった。クロヴィスという男がモーリア大臣を殺害するところを。口封じのために、俺まで殺しても何らおかしくない。
「……久しぶりだったので、少々張り切り過ぎてしましましたか」
クロヴィスという男はそんなことを口にしながら、俺の方へやってくる。
やはり、ここまでか。ゼスさん、レベッカさん、ごめんなさい。俺はあなた達を救えなかった。俺のせいで巻き込んでしまって本当にごめんなさい――。
「――ああ、美しいそのお顔に汚らわしい血がついてしましましたね」
「え――」
クロヴィスという男は、優しい手つきで俺の顔についたモーリア大臣の血を布でふき取った。そして、名残惜しそうに俺の顔から手を放す。
「申し訳ございませんでした、クロエ様。危うく貴女様に危害が及ぶところでした。ですが許してほしいのです。確実にこの男を殺すにはギリギリまで意識を逸らしたかった」
「……あ、あの――」
上手く言葉が出てこない。
どういうことだ? この男は、俺の味方なのか?
確かに、同じ魔族らしいし、味方であってもおかしくはないだろうけど……。
「どうかご安心ください。私はクロエ様の味方。忠実な下僕です。ですが……そうですね。このような場所で話すのも無粋。今はまずここから抜け出すことを考えましょうか」
「あ、えっと、その、クロヴィス、さん……? 私の下僕というのはいったい……?」
「そのままの意味ですよ。私は黒の魔神の使徒。つまり、あなた様の僕なのです。正確には、その器に宿っていた前の魂の、ですが……」
「え、えっと……あれ……?」
やばい。俺の頭がオーバーヒートしている。
急展開過ぎて理解が追い付かない。
そもそも、モーリア大臣の話じゃ俺って魔神ではなかったのでは? ただの魔族の少女の器に魂を入れただけだって、そう言ってたよな? でもクロヴィスさんははっきりと魔神だと口にした。どっちの言うことが真実なんだ?
「クロエ様が混乱されるのも無理はないでしょう。一から事情を説明するとなると、少々時間が必要になります。先ほども述べた通り、ここは一度屋敷から離れるのが得策かと」
そうクロヴィスさんが言うと、屋敷の中が騒がしくなり始めた。
モーリア大臣が死んだことがもう知られてしまったのだろうか。
「っと、そうでした。まずはその拘束を解除しなければ」
クロヴィスさんはモーリア大臣の懐から鍵を取り出し、俺の脚の拘束を解いてくれた。
「ありがとうございます……!」
これで体は自由になった。
あとは、無事にこの屋敷から逃げることが出来るかどうか。
いや、それよりもまず、ゼスさんとレベッカさんを見つけないと。
「どうやら予想よりも早く敵に勘づかれたようです。モーリア邸には優秀な衛兵が数多くいますので、正面からの脱走は難しいでしょう。ここは3階です。少々手荒な脱出にはなりますが――」
言いながら、クロヴィスさんは俺を抱きかかえた。
またお姫様抱っこだ。ベレニスさんと同じだ。身体が小さいから抱えやすいんだろうが、俺は花嫁か何かかと思わずにはいられない。
「無礼をお許しください。今はこれが最善手ですので」
そして、何をするかと思ったら、クロヴィスさんは窓に片手を突き出した。すると、見えない何かが窓を粉々に粉砕してしまった。不思議な現象だ。これも魔術的な力のおかげなのだろう。
しかし、これはあれだよな。
窓を壊したってことはそういうことだよな?
ここって3階って言ってたよな?
まさかとは思うけど――
「飛び降ります。しっかり掴っていてください」
「――!」
やっぱりそうきますよね――!
俺は襲い来る浮遊感を紛らわすために、クロヴィスさんの身体にしがみついた。
「……おお」
だが、着地は華麗なもので、何事もなく地面に足がついた。
ほんと、この人何者なんだ。モーリア大臣を倒したことといいこの高いとこから飛び降り慣れてる感じといい、ただ者じゃなさすぎるだろ。いやまあ、さっき自分で黒の魔神の使徒だって言ってたけども。
……そもそも、使徒って何だ?
ほんと、判らないことだらけで頭がパンクしてしまいそうだ。
「ご無事ですか?」
「は、はい……」
「それは何よりです。では、撤退致しましょう」
そうして、俺はクロヴィスさんに抱きかかえられたままモーリア邸から逃亡するのだった。